〜18 那須・大関 7年戦争〜

 那須資胤と大関高増の争いの報は、奥州の芦名盛氏にも届いた。那須資胤は親北条派であったので、この隙に上那須の所領を奪い取ろうと、盛氏は考えたので ある。
 翌年の永禄7年(1564年)正月、北条氏政のもとへ、芦名家の剣術指南役の荒井釣月斎が訪れた。
「氏政様。野州の那須家が、昨年以来内紛があり、領内が騒いでおります。この隙に乗じて芦名家より兵を出しますので、小田原からも小山や宇都宮あたりまで 兵を出しては如何でしょう?下野を切り取る好機でございますぞ。」
 この荒井釣月斎という男は、以前に北条綱成のもとで奇食したこともあって、北条氏政からも信用されていた。氏政も納得し、4月になると、2万の兵を率い て、小山(おやま)高朝・秀綱の居城である小山城を攻めた。三日三晩攻め続け、先陣北条綱成により、落城させることが出来た。また、結城晴朝はもともと北 条方であったが、上杉や佐竹に圧迫されて、この頃には佐竹方となっていたので、結城も攻め、5月には和睦となり、結城晴朝は再び北条方となった。
 芦名盛興、白河結城義親、那須資胤は那須と宇都宮の境辺りに出陣していて、まずは宇都宮家を攻め、次に北条家の力も借りて、上那須諸将を攻めるつもりで いた。
 ところが、佐竹義重は北条方の作戦を見抜き、家臣長倉義当(よしあつ)、大関高増などの上那須諸将を誘って、大軍を率いて宇都宮城へ入ってしまい、守り を固めてしまった。そこで、芦名盛興、白河結城義親、那須資胤は動くことが出来ず、北条軍の到着を待って挟撃することにしたのであった。
 しかし、宇都宮城に佐竹らの大軍が入り、守りを固めたという報が、北条氏政に入ると、さすがに諦めて、佐野城攻略に矛先を向けたため、奥州勢も諦めて、 兵を退いたのであった。
 結局、佐野城も落とせず、北条氏政は、不本意ながらも、結城家の懐柔と小山城奪取で満足し7月になると兵を退いた。
 城を奪われた小山高朝は、一族や佐竹家に呼びかけ、兵を集め、北条氏照が守る小山城を奪い返すことに成功した。

 永禄9年(1566年)8月24日、大関高増は再び佐竹義重の援を得て、再び那須資胤に戦いを挑んだ。大関高増は大田原綱清、福原資孝、伊王野資宗、芦 野資泰、稲沢、河田ら300の兵を率いて、南那須の川井に陣をしいた。宇都宮広綱も佐竹家の盟友として、兵1000にて参陣した。佐竹義重は一族の東義堅 に兵2000を与えて参陣させた。
 これに対し、那須資胤は下那須諸将や味方となった上那須諸将を総動員し、1200の兵で烏山城の西の治武内山(じぶうちやま)に陣をしいた。
 東義堅は千本城を落とした勢いで南から治武内山に迫り、大関勢は北から、宇都宮勢は西から攻め登った。
 地の利のせいか、資胤勢は佐竹勢・宇都宮勢に対して奮戦し、中でも千本資俊、沼野井摂津守、池沢左近などが必死に戦い、なんと、東義堅は軍勢と離れてし まい、その隙に、囲まれてしまったのだ。これは敵方の主力の将である東義堅を孤立させるという千本資俊の策であった。東義堅の周辺には20人の兵しかおら ず、降参するより他がなく、千本資俊からの和睦の使者が来ると、あっさりと降参してしまった。これも、佐竹義重から預かった兵を常陸に帰したかったからで ある。以来、この地は「降参峰」と呼ばれるようになった。
 あっさりと東義堅が降参したことを知った大関や宇都宮は、しかたなく兵を退き、それぞれの城へと帰っていった。

 おさまらないのは佐竹義重である。面目丸つぶれである。翌年の永禄10年(1567年)2月17日には、今度は一族の長倉義当(よしあつ)に兵6500 を与え、佐竹家臣の南路義郷、戸村義広、小場義忠、武茂守綱、大山田綱胤、烏子泰宗、横田綱久、松野篤通、石川昭光、大金重宣らと共に上那須勢と合流し攻 めさせた。大関勢は200の兵で、佐竹勢とともに那珂川を渡り大崖山のふもとに陣をしいた。
 一方、那須資胤は10歳になる嫡男の資晴も伴い、1500の兵で対岸に陣をしいた。資胤の陣の南側には資胤の属城の稲積城があり、本庄盛泰が守ってい た。資胤勢は多勢に無勢であり劣勢ではあるが、よく奮闘していた。まだ2月であり、那珂川の水は冷たかった。まさか、この川を渡っては来ないだろうと、長 倉義当は考えていた。しかし、資胤は下知した。
「川を渡るのだ!」
 資胤勢は一気に川を渡り、長倉義当の陣へ押し寄せた。同時に狩野百村(かのもむら)の野武士100人も資胤の援軍として到着し、攻め寄せた。さらに稲積 城の本庄盛泰も、討って出て、ここに千本らの兵も加わり、上那須及び佐竹勢を挟撃してしまった。
 兵力は佐竹勢のほうが多かったが、士気は資胤勢が上だ。死ぬ覚悟の猛襲に佐竹勢は混乱し、ついには逃げ出してしまった。大関勢も同じである。
 それを見た資胤はさらに叫んだ。
「よいか!上那須の武将は、もともと那須家の家来であるから、いずれは降参してくるであろう。逃げても追うことはない。しかし、佐竹は別だ。この混乱に乗 じて、那須家を乗っ取ろうとしている。佐竹勢だけは一兵たりとも逃がすな!」
 この猛攻に、佐竹勢の被害は大きいものであった。2日間に渡る激戦であったが、長倉義当でさえも負傷し、命からがら逃げていった。
 双方ともに200人以上の死者を出し、那珂川の水の色は、しばらく赤く染まっていたという。言うまでもなく、双方の兵の血の跡である。

 佐竹義重は3度の敗戦により、意を決し、同年4月14日、再び5000の大軍を長倉義当に与えて出陣させた。佐竹家とて、いつまでも長引かせるわけには 行かないのである。義重の頭には、伊達政宗や北条氏政との戦いの絵図が描かれていたのである。
 大関高増も大田原、伊王野、芦野、福原らと共に400の兵で出陣した。佐竹勢は那珂川東側から侵入させ、大関勢は北の霧ヶ沢に陣を張り、はさみうちにし て那須家を倒す計画であった。
 しかし、神がかった那須資胤の兵は強かった。地の利を生かし、佐竹勢を撃退してしまったのである。しぶしぶ常陸に帰る佐竹勢であった。

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