〜19 那須・大関の和睦そして佐竹との争い〜

 那須の諸将は戦いに疲れていた。大関方も資胤方も互いに多くの兵を死なせてしまった。そこで、福原にある金剛寿院の住職が見かねて、双方に和睦を勧め た。最初は互いに譲らなかったが、住職の説得と下那須家家臣の興野隆徳の説得により、翌年の永禄11年(1568年)9月になって、ようやく和睦が成立し たのである。
 那須資胤の嫡男の資晴はまだ11歳であったが、従者を連れて、大関高増の白旗城へ赴き、そこで和睦が成立した。高増は資晴との主従関係を誓い、さらに主 君に反抗した罪を謝る意味で、髪を剃って、入道安碩(あんせき)と名乗ることになった。また、白旗城で那須高資の養子として奉りあげられていた佐竹義重の 弟の義尚も、和睦が成立次第、常陸へ戻って行った。

 これにより、那須家が再び一つになったのは喜ばしいことだが、同時に佐竹家との完全な決別も意味していた。当然、佐竹方の宇都宮家とも敵対することにも なる。那須家は孤立してしまったのか?いや、そうではない。永禄3年の南郷の戦いの後、那須資胤は北条氏康・氏政父子と親交を深めていた。よって、親北条 派の奥州勢とも争うことは無くなった。また、常陸の結城城主である結城晴朝も北条方であったので、結城晴朝の娘を資胤の嫡男の資晴に嫁がせて、親交を深め た。資晴の「晴」の一字は結城晴朝にもらったものである。妻の父の名を一字頂くというのは、わりと頻繁に行なわれていたようである。伊王野資宗の嫡男の資 信の「信」の一字とて、妻の父である佐久山信隆の名を一字頂いたものである。

 元亀元年(1570年)、佐竹家や宇都宮家に対する準備を進めていた那須資胤・資晴父子であったが、佐竹義重は家臣の武茂豊綱に命じて、那須家の属城の 片平城を攻め落としてしまった。さらに、大山田城をも攻め落とし、佐竹勢の侵略が本格的に開始された。佐竹家の勢力は、この頃には、下野にも属城を持つほ どであった。急なことではあったが、黙って見ている那須家ではない。
 8月24日、那須資胤・資晴は大関、大田原、福原、伊王野、稲沢、佐久山、芦野などの那須諸将と共に、700の兵を率いて、佐竹家の武将である大金重宣 の梅ヶ平城へと出陣した。
「殿!那須勢が出陣し、この城へ向かっております!」
「なに!梅ヶ平城では四方を囲まれて不利だ。広瀬城にも兵の半分を配し、待ち受けるのだ!」
 広瀬城は南側に空掘を作り、また、西側は那珂川に接した100メートルを超える断崖絶壁で、難攻不落の天然の要害であった。佐竹家と那須家の争いに際し て永禄10年に築城されたものである。広瀬城に兵が半分ほど移動したとの情報が那須資胤にも入ると、資胤は下知した。
「資晴!兵300を与えるゆえ、広瀬城を攻めよ!千本、芦野は資晴を補佐して助けるように!頼んだぞ!」
 資胤は、そう言うと、大関、大田原、福原、伊王野らを率いて、梅ヶ平城へ向かった。2日間にわたり攻めたが、いっこうに落城する気配がなかった。そのう ち、佐竹方の武茂城から武茂豊綱が300の兵をいて梅ヶ平城に向かったとの連絡が入り、資胤は逆にはさみうちにされてしまい、これでは不利だと悟り、兵を 退いたのである。
「無念だ。退けー!退けー!」

 兵を退いた資胤は烏山城へ戻り、嫡男の那須大膳大夫資晴、大関入道安碩(高増)、大田原山城守綱清、福原安芸守資孝、伊王野下野守資宗、千本常陸介資 俊、芦野大和守資泰と共に軍議を開いた。和睦か攻めか、意見は二つに分かれたが、北条家への立場も絡み、決定的な策も無いまま、軍議は終わってしまった。 那須家にとって佐竹家は最大の脅威であったが、対応策にも悩み続けることとなる。
 元亀3年(1572年)、再び、佐竹義重は家臣に命じて、那須領を脅かした。義重としては、伊達政宗の勢いもあって、政宗進出の前に岩城、結城、芦名の 奥州勢を抑えたかったので、那須家を牽制したかったのである。同年6月になると、佐竹家の東義斯(よしつな)が千本資俊のもとを訪れ、和睦を勧めてきた。 那須家は北条への立場もあるから、このようなことには応じられないはずであったが、和睦に応じるしか無かったのである。しかも、同等の立場での和睦ではな く、佐竹家に敗北を認めたようなものである。
 和睦の条件は、那須家の所領の一部割譲、那須資胤の娘を佐竹義重の嫡男義宣の嫁とすることであった。那須家は那須領内から2400石ほどの所領を割譲し た。義宣3歳、資胤の娘が5歳の時の婚約であったから、那須家側からの条件として資胤の娘が大きくなってから太田城へ送ることを提案し、佐竹側も、それに 応じることとなったわけである。

 しかし、那須資胤は和睦成立後も親北条派の立場を崩さなかったため、翌年、義重は武茂守綱と松野篤通に命じて、那須家の烏山城を攻めることにした。資胤 は軍勢を率いて、滝田の天神河原へ出陣し、那珂川をはさんで佐竹勢と対陣した。激戦であったが、勝敗がつかぬまま、互いに退くことになった。これも佐竹方 の牽制であった。
 翌年の天正2年(1574年)2月、佐竹義重は白河結城氏の属城の赤館(あかだて)城を攻め落とした。そこで、幼い白河城主結城義顕の後見人である小峰 義親は、結城晴朝、芦名盛氏、田村清顕、那須資胤と共に赤館城の奪還のため出陣し、奪還に成功したのである。結城晴朝は北条氏政に援軍を要請していたの で、これからも、この時の佐竹に敵対した将は親北条派であったことがわかる。
 8月20日になると、芦名盛氏、田村隆顕・清顕父子は小峰義親、那須資胤を誘い、白河の羽黒で佐竹家一族の東義久と戦い、激破。
 9月7日には、芦名盛氏、小峰義親、那須資胤が白河城に集まり、佐竹義重を討つ軍議を開いた。その席上、佐竹勢が赤館城を攻撃しているとの情報が入り、 軍議を中止し、赤館城へ向かい、佐竹勢を敗走させた。
 天正3年(1575年)、小峰義親が謀叛を起こし、主家である白河結城家を乗っ取っり、結城義親と名乗った。義親の妻は芦名盛氏の娘であるから、強力な バックがあってのことである。しかし、同年、佐竹家は白河城を急襲し、占拠。義親は捕虜となってしまう。義親は降参し、白河結城家は佐竹義重の次男である 義広が継ぐことになり、佐竹家としては、まず、白河結城家の攻略に成功したのであった。
 この時、大関高増の長男である増晴(当時15歳)は結城義親の養子として、白河城におり、家督を継ぐことになっていたが、捕虜となった。後に増晴は佐竹 家に仕え、佐竹義重が伊達政宗と白河で戦った時、功をあげ、義重により常陸行方(なめかた)の城主として5万石を与える旨を承ったが、大関家の将来のため に秀吉に謁見する気でいたので、辞退し、大関家に戻った。

 盟友、白河結城家を失った那須資胤である。那須の重臣を集め、軍議を始めた。資胤の他には、資晴、大関入道安碩(高増)、大田原綱清、福原資孝、伊王野 資宗、千本資俊、芦野資泰がいた。
「今、那須家は微妙な立場に立たされておる。白河結城が佐竹に乗っ取られ、佐竹の勢力はますます増大する一方であり、当家は北条家に対して親交を深めては いるが、北条の勢力が下野に及ぶのは先の話であろう。今はじっと我慢し、佐竹の侵攻に対処するしかない。どうであろう?」
 資胤の意見に対して、皆がうなづいいた。すると大関入道安碩が発言した。
「今の時代、中立の立場など存在しない。敵か味方。それしかないのじゃ。情勢を見れば、相模の北条氏政がいずれ関八州を勢力下に治めるであろう。ゆえに親 北条派の立場は保つべきであろうな。」
 続いて大田原綱清が言った。
「中央では織田信長が室町幕府を滅ぼし、天下統一に近くなっております。対抗していた武田信玄が死に、跡を継いだ武田勝頼は長篠において信長に破れ、あと は中国の毛利、九州の島津を抑えれば、必ず信長は関東にやって来るでしょう。」
 伊王野資宗がさらに続けた。
「聞けば、織田信長は武田家を滅ぼした後、いよいよ関東を治めるつもりらしい。滝川一益を関東に遣わすとの噂。織田勢に対抗しうる関東の勢力といえば、北 条だけだ。」
 資宗の言葉を受けて、那須資晴が言った。
「資宗。確かに、その通りだ。しかしな、北条氏政殿の話では、佐竹は織田と親交を深めているらしい。織田と佐竹に狭撃されれば、さしもの北条殿もどうなる かわからん。」
「佐竹と織田が!?」
 皆がざわめき出した。そう、これは最新情報であり、この場で、初めて聞かされた事実であった。すると、大関入道安碩が言った。
「それでは、こうしたら如何か?今の段階で、北条方とか佐竹方とか明確な立場をとるのは危険。お屋形様の言う通り、今は我慢し、情勢を見極め、こちらから 討って出るのは控えるべきじゃ。その上で、どこに味方するのか決めればよい。」
 皆が、この意見に賛同し、以後、合戦は控えることとなった。佐竹と真っ向から争うのも止め、佐竹に使者を送り、元亀3年(1572年)の和睦を両家で再 確認し、佐竹も那須への進軍を止めることになった。

 天正6年(1578年)4月、佐竹義重は宇都宮広綱の要請があり、壬生城攻略に乗り出し、落城させた。壬生義雄が北条氏照に助けを求めると、氏照の兄で あり、北条家の当主である氏政が5000の兵で下野に出陣し、鬼怒川を挟んで佐竹家と対陣した。正式に佐竹家から援軍を要請された那須家は、元亀3年 (1572年)の和睦のこともあって、形式的に佐竹家へ援軍を出した。しかし、士気は低く、たいした戦闘にならぬまま、講和が結ばれた。
 そもそも、那須家は北条家とも親交を深めていたので、兵を出しても、戦いに参加する気は無かったのだ。しかし、兵を動かさない那須家に対して、佐竹が不 審感を抱かないはずはない。少し痛い目にあわせてやろう程度の考えで、翌月になると那須領を攻めた。
 同年(1578年)5月、佐竹義重は常陸西部の武将に命じて、東義久を大将として、興野の東の山中に侵入した。興野隆徳は異変に気付き、直ちに那須資胤 に連絡した。資胤はすぐに21歳と成長していた嫡男の資晴を遣わし、佐竹勢を急襲させた。佐竹勢は急襲に混乱し、陣幕を焼き捨て、敗走する結果となった。 以来、この地は「幕焼沢」と呼ばれるようになった。
 これらの合戦はいずれも那須家が起こしたものではない。巻き込まれただけであった。那須家にとっては迷惑としか言えないが、戦国の世であれば、しかたが ない。しかし、以降、しばらくは、巻き込まれることもなかった。

前 ページへ
次 ページへ
トッ プ・ページへ戻る