〜20 合戦再び〜

 しばらく佐竹家の侵攻も無かった。それもそのはず、佐竹家は奥州勢や北条勢への対応で忙しかったのである。また、佐竹にとって、那須など本気になれば、 いつでも攻め滅ぼすことが出来ると考えていたので、那須対策は後回しになっていたのだ。
 天正10年(1582年)7月24日、突如として烏山の興野片里坂(へぐりざか)へ、佐竹勢の松野篤通が180の兵で攻め込んだ。畿内では織田信長が本 能寺にて明智光秀に討たれた、そのおよそ一ヵ月後の出来事であった。那須資胤は50の兵を興野に援軍として向かわせた。しかし、佐竹勢は勝敗のつかぬま ま、引き返して行った。
 同年8月2日、那須資胤の堪忍袋の緒が切れた。再び、攻めの那須家へと転身したのである。資胤というよりも資晴が怒ったというべきかもしれない。何故な ら、資胤は老齢になっていたので、出陣は資晴であったからだ。
 那須資晴は佐竹方の武茂城の武茂守綱・豊綱を500の兵で攻めた。始めは愛宕山(あたごやま)へ出陣し防戦した武茂守綱・豊綱であったが、大関・芦野ら の猛攻撃により、武茂城へ退却した。しかし、武茂守綱とて非凡な将である。夜襲をしかけ、那須勢を混乱させ、ついには那須資晴は兵を退くこととなったので ある。

 翌年、天正11年(1583年)2月、那須資胤が病にて死んだ。この報を受け、那須資晴を甘く見ていた佐竹義重は宇都宮国綱(広綱の子)を誘って出陣し た。那須資晴は佐竹・宇都宮襲来の報を得ると、那須諸将を集め、さらに茂木義政、塩谷孝信の援軍も合わせて1200の兵を動員した。
 大関と芦野には500の兵を与えて、宇都宮勢襲来に備えさせ熊田に陣を構えさせ、資晴は残る那須諸将らと共に佐竹勢と戦うため700の兵で烏山近くの川 原表へ出馬した。佐竹義重は武茂守綱、大金重宣の案内により7000の兵で川原表で那須勢と激突した。
 圧倒的兵力の差で、佐竹勢は、優勢となり、烏山城下へ那須勢を追い込む勢いであった。その頃、宇都宮国綱の襲来が全く無いので、大関と芦野は烏山に戻っ た。すると、そこで那須勢と佐竹勢が激戦をしていたので、横から突撃した。那須勢が勢いを盛り返すと、佐竹勢は退却した。佐竹勢は戦に次ぐ戦で疲弊してい たのである。

 翌年、天正12年(1584年)9月、27歳の那須資晴は佐竹家に攻め込まれていた父である資胤の苦悩を良く知っていたので、積極的に那須に近い佐竹方 の松野城を攻めていた。もちろん、背後に北条家がついてるという心強さがあってのことだ。しかし、松野勢とて馬鹿ではない。地形を利用して、那須勢を苦し め、資晴も危うい場面があり、弟の牧野顕高に救われ、また、資晴配下の大屋宗国が忠義を尽くして討ち死にしたため、とりあえず兵を退くこととなった。
 10月になると、佐竹方の武茂城主の武茂守綱が佐竹義重の岩城攻めに参加するため、城を留守にしていた。この機を逃さず、那須資晴は500の兵で武茂城 に向かった。留守を預かる武茂家の家臣らは、150の兵で向田(むかだ)に陣をしいた。激戦が行なわれたが、城は落ちず那須勢は敗れて退くことになった。

 攻められては守り勝ち、攻めては負けていた那須資晴は自信を失いかけていた。そこで、緊急に烏山城で軍議が開かれた。議題は佐竹家への対応である。
「佐竹は長年に渡り、当家を脅かしている。当家も佐竹に対して、所領を広げようとしたが、すでに佐竹は大勢力であり、思うようには行かない。それは今後も 変わらないであろう。また、佐竹が奥州との戦いに終止符を打つ時期も近づいているように思える。そうなれば、佐竹は那須を主力で攻めてくるであろう。そこ で、佐竹への対応策を話し合いたい。」
 資晴がそう言うと、千本資俊が答えた。
「もともと佐竹とは、資胤様の姫君を佐竹義重の嫡男義宣に嫁がせる約束でした。姫君の幼少なるをもって、これまで延期しておりましたが、すでに18にござ ります。これ以上引き延ばすことは出来ませぬゆえ、嫁に出すか出さぬかもはっきりしなければならないでしょう。出せば、真の和睦が成立いたします。」
 大田原綱清が後を続けた。
「もはや佐竹家と敵対するは、那須家にとって利益がございません。ここは資胤様の姫君を佐竹家へ嫁がせ、和睦するべきです。聞けば畿内の羽柴秀吉は、亡き 織田信長の後継者として、まさに天下統一を成し遂げんとしているとのこと。その秀吉とも佐竹家は親交を深めておるようです。佐竹と敵対することは百害あっ て一利なしです。」
 すると伊王野資宗が言った。
「綱清殿の言う通りだ。お屋形様。ここは佐竹との縁組を進めて、和睦するのです。」
 那須資晴も考えは同じであったので、賛同した。
「うむ。皆の考えは正しい。実は沢村観音寺の住職にも同じことを言われた。しかし、北条氏政殿への立場がなくなるのも事実。そこは、どのように考える か?」
 今度は芦野資泰が答えた。
「それももっともなことでありますが、佐竹との縁組は以前より決められてたこと。約束を実現させただけであり、北条様との仲は変わらぬと説明するので す。」
「それで氏政殿が納得すると思うか?」
 資晴の言葉に大関入道安碩(高増)が策を提案した。
「わしに案がございます。佐竹との戦いは終わりますが、宇都宮と争えば良いのです。北条殿は宇都宮領を欲しがっておりますので、我らが宇都宮を攻めれば、 納得いたしましょう。」
「宇都宮を攻めれば、佐竹も動くのでは?」
「いやいや、心配ござらぬ。佐竹からみれば、那須も宇都宮も縁戚。縁戚同士の戦いに、ただ一方に味方することはありませぬ。武士道に反したことをする佐竹 義重ではござらぬ。万が一、義重が動いたとしても、北条、伊達への牽制もあるゆえ、遅れるでしょうし、また、大軍とは思えませぬ。それに我らには宇都宮家 を攻める大義名分もありまする。」
「大義名分?それはなんだ?」
「宇都宮方の塩谷(しおのや)家です。塩谷家は400年前の内紛により、ふたつに分かれ、喜連川塩谷家の塩谷惟吉(ただよし)は那須家に仕えております。 川崎城の塩谷本家は100年ほど前に、宇都宮家に滅ぼされ、今の塩谷本家は宇都宮正綱の子の孝綱が興した家であり、本来、塩谷家の仇であります。そこで、 喜連川塩谷家による仇討ちを援護するという名目で攻めれば良いのです。さらにいえば、先ごろ、川崎城主塩谷義孝は弟孝信が那須方についた時、孝信の居城 倉ヶ崎城を奪っており、孝信は我が娘の夫であれば、我が黒羽城で身を隠しております。これだけ大義名分が揃っているのです。」
「なるほど・・・。宇都宮家を攻めるというよりは塩谷家を攻めるというわけだな。これなら佐竹にも言い分がたつ。」
「秀吉が関東に進出する前にやらなければ意味がありません。至急、なすべきことです。」

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