〜21 薄葉ヶ原の戦い〜
天正13年(1585年)3月25日、那須家は軍議で決めた通り、塩谷家の川崎城を奪い取ろうと出陣した。その知らせを得た宇都宮国綱は、那須資晴を
討って、父尚綱の仇討ちとしようと、芳賀高武、壬生義雄、紀清両党ら2400を率いて、菷川(ほうきがわ)を渡って薄葉ヶ原に進軍した。
那須修理大夫資晴は池沢左近、小滝増信ら家臣及び大関入道安碩(高増)、大関美作守清増、大田原山城守綱清、大田原晴清、大田原増清、福原安芸守資孝、
福原中務丞資広、伊王野下野守資宗、伊王野資信、芦野大和守資泰、芦野盛泰、千本常陸介資俊、千本十郎資政、千本松宅斎道長、塩谷惟吉(ただよし)、塩谷
孝信ら1500を率いて進軍した。
那須勢が薄葉ヶ原に到着すると、宇都宮国綱は23隊に分かれて陣をしいていた。国綱のいる本陣も区別されていなかった。以前、尚綱を討たれているので、
本陣を気付かれないようにしたのだ。また、那須勢を挟撃する作戦でもあった。しかし、少勢の那須勢にしてみれば幸運であった。しかも、菷川を渡った宇都宮
勢は、3月下旬とはいえ冷たい川を渡ったので、その冷たい水は将兵の体力を奪い、明らかに士気が下がっていた。
「お屋形様!私に先陣を下知ください!」
先陣を希望したのは芦野資泰の嫡男の盛泰であった。大関入道安碩の娘を妻とする約束である29歳の盛泰は、未来の舅(しゅうと)の安碩の話もよく聞かさ
れていたので、積極的な武将であった。
「うむ。頼もしいぞ、盛泰。行ってこい!」
芦野盛泰は100にも満たない芦野勢で、宇都宮方の一つの陣に突撃していった。すると、他の陣からも加勢が入り、芦野勢は苦戦していた。今度は千本資俊
の嫡男の資政が興野隆徳らと共に100の兵で、別の陣へ攻め込むと、また他の陣から加勢があり苦戦してしまった。それを見た大関入道安碩は那須資晴に進言
した。
「あの宇都宮の陣は、分かれていたほうが攻撃しやすいように最初は思ったが、あのように他の陣から加勢があるようでは、全軍で突撃しても囲まれるだけでご
ざるぞ。奴らの策にはまるとこじゃったわい。じゃが、分かれているとはいえ、誘い出せば一つになりそうじゃ。」
「良い案があるのか?大関?」
「清増と綱清の兵150をさらに突撃させましょう。しかも、芦野勢と千本勢の間の陣にでござる。そこで、芦野殿と千本殿に作戦を伝えて、芦野勢、千本勢、
興野勢に大関・大田原勢と共に退かせます。烏山方面へ退却するふりをさせるのじゃ。我らも烏山方面へ敗走するふりをする。おそらく、敗走したと見れば、追
撃してくる。大関勢などはそのまま走らせ、我らは二手に分かれ、背後と側面に潜むのじゃ。」
「そうか!奴らは狭撃しようとたくらんだようだが、逆に狭撃されてしまうわけだな!?」
「仰せの通り!」
伊王野資宗も、さらに進言した。
「側面からは伊王野・稲沢にお任せ下され。しかしお屋形様は本隊を率いて、宇都宮の属城を攻め落として下され!」
「なに!?勇ましいのはよいが、それで宇都宮勢を撃退できるのか?」
「完全に撃退する必要もありますまい。こちらに引き付けておけば、宇都宮領はさしたる軍勢もおりませぬ。思うまま城を奪えばよろしいのです。」
「お屋形様。伊王野勢は千軍万馬の軍ですぞ。お任せしてよろしいと思いまする。」
「よし、わかった。安碩!資宗!頼んだぞ!」
さっそく作戦は実行され、思い通り宇都宮勢は追走してきた。さすがの宇都宮勢も途中まで来ると、前方で敗走する那須勢の少なさに気付いた。しかし、時す
でに遅し。
「今だー!突っ込めー!」
大田原綱清の合図で、前方の那須勢350が急に引き返して討って出た。と、同時に側面からは伊王野・稲沢勢が矢を放った。およそ100もの矢が雨のごと
く宇都宮勢の頭上に襲いかかった。次ぎに伊王野・稲沢勢150が討って出たのである。
伊王野資宗が家臣の鮎瀬豊前(弥五郎実光)、小滝勘兵衛、田代長門、小山田監物、同佐渡、人見茂右衛門、町本内匠、小白井玄蕃、沢口四郎兵衛、秋庭助左
衛門を率いて、討って出ると、なんと、そこは宇都宮国綱の本陣であった。宇都宮勢は大混乱し、国綱は退却したが、鮎瀬豊前がこれを追い、今まさに国綱を討
ち取ろうとしたのを、資宗が見て、家臣の薄葉備中を遣わし、鮎瀬豊前を制して止めさせた。国綱は幸いにも危機を免れ、兵を退却させることが出来た。宇都宮
勢の山田業辰(なりとき)など多くの将が死ぬことになり、下野の名家である宇都宮家はさらに衰退したのであった。
その間に、那須資晴は手薄であった宇都宮属城の泉城、山田城、宇都野城、乙畑城、鷲宿城などを攻め落とし、川崎城に迫った。川崎城では城主塩谷義孝がよ
く守り、那須勢も落とすことは出来なかった。
那須資晴は凱旋すると、資宗の勇を賞した。
「よくやった!資宗!おかげで多くの城を落とすことが出来た。しかし、鮎瀬豊前が国綱を討とうとしたのを止めたと聞いたが何故だ?宇都宮家を滅ぼす好機で
あったろう。」
資晴が聞くと、資宗は答えた。
「以前に家臣弥五郎は、大将尚綱(俊綱)の首を取り、再び大将国綱を同人の手にかけるのは、武士の情けにおいて忍び難いものがあります。のみならず、宇都
宮氏は下野南方の豪族であって、相州北条氏政・氏直の侵略を阻止すべき土塁であり、助けて、これを存在せしめることが、却って那須家の利益。それゆえ、制
止したのです。」
資晴は関心した。
「その遠謀、見事である。まさに、その通りだ。我らは親北条派とは言っても、直接北条と国境を接すれば、攻め込まれる可能性もあるであろう。戦国の世の習
いだ。」
大関入道安碩(高増)は伊王野資宗を過小評価していた。安碩は57歳、資宗は68歳。資宗など隠居間近のご老体と思っていたのだ。しかし、68歳とは思
えぬ勇猛さと深謀遠慮。実際、今回の戦で伊王野勢が宇都宮勢を追い払うとは思っていなかったのだ。この機会に弱体化させてしまおうと考え、資宗の意見に賛
同したのだけであった。この頃から大関入道安碩は伊王野資宗を警戒し始めたのである。
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