〜22 那須諸将生き残りに向かって〜

 薄葉ヶ原の戦いと同年の天正13年(1585年)12月、大関入道安碩は、下那須の千本資俊・資政父子を謀殺する決心をした。
 実は、この数ヶ月前のことであるが、千本資政に嫁いでいた大関安碩の娘が離縁されて黒羽に戻ってしまった。資政との間には娘が生まれていたが、嫁と姑の 仲が悪くなり、離縁するに至ったのである。怒ったのは大関安碩である。同時に千本領を奪い取る絶好の機会でもあったのだ。

 まず那須資晴は、重臣の千本を討つ計画に最初は激怒した。
「那須家の重臣千本を同じ重臣のおまえが討つとは何たることだ!」
 大関安碩は答えも用意していたので、困ることなく答えた。
「お屋形様の父君資胤様の兄である高資様を殺害した千本資俊でありまするぞ。資胤様を当主にした功もあり、資胤様に信頼され増長し続けたが、家臣が君主を 謀って殺すなど許されることではありますまい。この大関、資胤様と争ったこともございますが、謀って殺すなど考えたこともありませぬ。資胤様が亡き今、那 須家のために仇討ちをしたいのです。さらに、あの時は高資様は病気にて亡くなったことにしましたが、最近では近隣諸国にも家臣の謀殺であったことが知られ ており、那須家は仇討ちもしないのかと笑われておりまする。我慢出来ることではありますまい。」
 もっともらしいことを言われたので、資晴は反論出来なかった。また、資晴は塩谷領を全て那須領にする気でいたから、大関を始めとする大田原一門を敵にま わすほど余裕はないのだ。
「筋が通っておる・・・。もうよい。わしの仇討ちとせよ。わしの承諾を得て、千本を討ったことにすれば、那須諸将も納得するであろう。また、那須家の内紛 を佐竹や宇都宮に悟られずに済む。だがな、千本家の名跡だけは残したい。」

 次に茂木知持・義政父子に計画を話した。知持の次男である茂木義政は本当は千本資俊の養子であったが、資俊に嫡男資政が生まれると、家督を実子に譲るこ とになってしまい、茂木義政は実家に帰り、以後、両家は不和となっていたのだ。義政は直ぐに賛意を示した。
 そして弟の大田原綱清、福原資孝も仲間に引き入れた。さらに、計画の実行場所である滝の太平寺(滝寺)の住職も味方にした。

 12月8日、滝の太平寺(滝寺)にて軍議を開くという口実で千本父子を招いた。千本資俊は、子の資政などと家臣合わせて17人で訪れた。
「父上。他の那須の将たちは遅くありませんか?」
「うむ。そうじゃな。しかし、重臣だけの集まりじゃ。下那須からは千本だけだし、上那須から大関殿や大田原殿が来るが、遠いので遅れているのであろう。」
「しかし、お屋形様もおいでになるはずでは?」
「お屋形様は少し遅れると言っておられた。じきにおいでになるであろう。」
 すると大関入道安碩が現われた。
「おお。大関殿。遅いではないか!?」
「黙れ!資俊!これは軍議の集まりなどではないわ!お屋形様の命により、亡き高資様の仇討ちとして、お主を殺すための集まりだ!」
 隣室に潜んでいた大田原綱清、福原資孝が兵を連れ乱入してきた。
「な、なんと!わしを殺すというのか!?おかしな話だ。わしを殺すなら、高資様が亡くなった時であろう。今さら仇討ちとは、口実に他ならぬ!」
「お屋形様の命である!問答無用!」
 安碩、綱清、資孝の3兄弟により、丸腰であった千本父子は斬られ、この世を去った。千本の家臣らも3兄弟の兵により討ち取られてしまった。資俊67歳、 資政25歳であった。

 那須資晴により、千本領は大関、大田原、福原の3氏及び大谷津周防に分け与え、残りを再興千本家の所領とした。再興された千本家当主は茂木家の次男に資 晴の妹を嫁がせていたのを迎えて、千本大和守義政と名乗らせた。すなわち茂木義政である。また、大谷津周防は滝寺の住職であったが、計画に加わり協力した 功により、還俗し大谷津周防を名乗り、810石の領を給せられた。

 ある日、那須資晴は烏山城に伊王野資宗を呼んだ。伊王野資宗は那須資晴とは歳が離れているとはいえ従兄弟同士であった。資晴の父資胤の妹は資宗の母であ る。つまり、資晴の叔母の子が資宗である。よって、資晴は資宗には千本謀殺の真相を話した。これは資晴が大関に対して不審感を抱きだし、相談したいがため でもあった。
「安碩は本当に叔父高資の仇討ちをしたのであろうか?」
「そんなはずはありませぬ。高資様と大田原・大関は仲が悪く、今さら仇討ちなど大義名分に過ぎません。数ヶ月前に安碩殿の千本資政に嫁いでいた娘が、離縁 されています。その恨みでは?」
「うむ。それはわしも考えた。だが、安碩は油断ならぬ。領地拡大の意図があったかも知れぬ。近いうちに父資胤の時と同じように、主家に反抗する時が来ない とも限らない。資宗も充分注意するべきだぞ。伊王野領は大関領に接しているからな。」
「ご忠告、有難うございます。確かに、およそ10年前、大関家は城を黒羽に移しており、黒羽城の東側が伊王野領でありますので、その頃から、いずれは当家 を攻める気があったのかもしれません。」
「万が一、大関が謀叛を起こしたら、資宗にも協力して欲しい。」
「もちろんです。資胤様の頃は、我が父資直も存命であり、父は大田原資清と親友であったことから、大田原一門を支援しておりましたが、父亡き今、この資宗 はお屋形様の味方でござりまする。」
「資宗の忠義、感じ入ったぞ。」
「まずは黒羽城東の前田に城をひとつ増やしまする。黒羽城築城のおりにも、弾正城を築き、伊王野弾正に守らせておりますが、弾正城北面の前田堀之内の辺り に城を築きまする。表向きは佐竹の侵攻に対する城としますので、お屋形様も、もし大関が何か言ってきたら、そのようにお伝え下され。」
「承知した。」

 年内に伊王野資宗が構え場館を築くと、大関安碩の次男大関清増が伊王野城へやって来た。清増は次男とはいえ、安碩の長男増晴が一度は白河結城義親の養子 となり、また、結城家が佐竹家に乗っ取られた後、浪人して佐竹義重に仕えていたので、安碩の跡継ぎであった。伊王野城では資宗・資信父子が対面した。
「資宗殿!どういうことですか!?黒羽城の東に出城とは、これは大関家を滅ぼそうと思っている証しではござりませぬか?」
 資宗は笑って答えた。
「ハッハッハッハッ。馬鹿なことを言うな。あれは佐竹の侵攻に対する城だ。構え場館と呼んでおる。その南の弾正城も、以前、父上の安碩殿に佐竹への備えと 説明したはずだ。それと同じである。さらに佐竹との国境には尻高田(しったかだ)要害もある。佐竹は既に大勢力ゆえ、これら3つの城で守るのだ。ここが突 破されれば黒羽城も危うくなるのだぞ。備えを増やして感謝してもらいたいくらいだ。それに、築城はお屋形様の許可を頂いてからのこと。大関殿にとやかく言 われる筋合いは無いのではないか?ん?清増殿。」
 馬鹿にされたと思った大関清増は真っ赤になって、答えた。
「し、しかし、事前に何の説明もなく、黒羽城のすぐ東に城を築かれては、大関家への敵対と思われても仕方ないでしょう!」
「うむ。それは確かなことだ。お屋形様の許可を得たので、大関殿の耳に入ると思っていたが、これは短慮であったな。心配をおかけして申し訳ない。安碩殿に も宜しくお伝え下され。」
 もともと父の言いつけで来た大関清増であったので、それ以上の反論は出来ず、今後は気をつけてくれるように資宗に言うと、黒羽城へ戻った。

 黒羽城へ戻った大関清増が、父安碩に報告すると、安碩は言った。
「おまえは、まだまだ若いのう。言い訳抜かすなの一言も言えぬのか?」
「しかし、父上!お屋形様も承知と言われては・・・・。」
「まあ、よい。おまえに行かせたのは大義名分作りの一つじゃ。役目は果たした。」
「大義名分作り?」
「伊王野家は大勢力じゃ。大関が発展するには、いずれ雌雄を決する時が来ると知っていた。我らは伊王野家が黒羽城東に築いた城を、大関に対する城だと判断 し、言ってみれば、大関に対する宣戦布告じゃ。されど、大関は伊王野を信じ理由を聞いたが、言い訳としか思えぬことしか言わないゆえ、大関も売られた喧嘩 を買うことにした。これが大義名分じゃ。」
「本当に攻めるのですか?」
「本当じゃ。わしの妹が嫁いだ芦野盛泰殿も動かす。」
「芦野殿を?」
「うむ。盛泰殿に出陣させるわけではない。演習のためと称して、芦野と伊王野の境付近をうろつかせれば良いのじゃ。さすれば、さすがの資宗とて、兵力を分 けねばならぬであろう。盛泰殿に娘を嫁がせたのも、この時のためでもある。清増!戦の指揮をとれ!黒羽城東の土地だけは、将来のためにも奪っておかねばな らぬ!」

 さすがは希代の英才、大関入道安碩(高増)である。
 大関、大田原、福原が発展したとはいえ、那須家中、本家に次ぐ勢力は伊王野家に他ならない。大田原一門という意味では、ナンバー2は大田原一門に間違い ないが、単独では劣るのである。
 当時、那須本家は8万石を領し、伊王野家は1万3千石を領していた。大田原家は7千石、大関家も同等程度である。福原家はさらに小さかった。
 亡き父資清から「伊王野家とも協力して・・・」という言葉を受けた大関入道安碩ではあるが、現状を知らぬ資清の言葉であり、安碩は伊王野家に対して策を 講じなければと思うようになっていたのである。
 資宗の嫡男である33歳の資信とて優れた武将であった。資信より年下の我が息子達の将来を脅かすかもしれないとも安碩は感じた。さらに、大関家の居城で ある黒羽城のすぐ東側までもが伊王野家の領地であった。
「秀吉が小田原を攻める前に、雌雄を決しなければならぬな・・・・。伊王野だけではない。那須領内でもっと所領を増やさなければ・・・。」
 そう思った安碩は、まず大勢力の伊王野家の矛先を向けた。しかし、まともに戦っては勝ち目はない。伊王野領周辺の那須諸将を味方にする必要があった。稲 沢家や沼野井家は伊王野家と古くから行動を共にした盟友であり、伊王野家旗下と言っても間違いない。それゆえ、味方につけるのは無理だと感じ、伊王野の北 にいる芦野家に目をつけた。当時、芦野盛泰の叔母が那須資胤に嫁いでいたので、資胤と争っていた大関にしてみれば、まずは、芦野を味方にする必要があっ て、縁組をし味方にすることに成功していた。その先には伊王野家への対抗手段を模索していたのである。

 天正13年(1585年)12月下旬から天正14年(1586)1月上旬まで、伊王野資宗は大関清増の侵攻に対して、黒羽の野上村で戦った。安碩の長年 に渡る策により、資宗は芦野勢を警戒し、全兵力を注ぎ込むことが出来なかった。
 上杉家や北条家などの100万石大名で約2万人の兵が最大動員兵力であったという。となると、1万3千石の伊王野家は単純計算で260人の兵がいたと分 かる。城を守る兵も割かなければいけないので、100から130の兵が出陣したと思われる。
 対する大関家は大田原家と同じ7000石と仮定すれば、最大動員兵力は140人である。もちろん、全兵力を出陣させては危ないだろうが、大田原家からの 加勢があったという記録もないことから、140の兵を総動員して出陣しなければ勝つのは困難である。黒羽城のすぐ近くの戦いなので、伊王野勢が黒羽城を目 指せば、すぐわかるだろうし、万が一、那須本家が伊王野家と内通し、黒羽城に迫ったとしても、すぐに戻り、ろう城すれば良いのである。140の兵を出し 切ったとしても不思議ではない。つまり、この戦いにおいては、双方の兵力はさほど大差なかったと思われるのである。むしろ、大関家のほうが多勢であったか もしれない。
 伊王野資宗はついに敗れて、その結果、東郷(野上、両郷、須佐木地方)大半の領地を清増に奪われた。前田町中の東側までが伊王野領であったが、この戦に より大関家に移ったのだ。奪われた石高は伝わっていないが、江戸初期の伊王野家関連の資料には「伊王野一万石を領す」とあるから、3千石ほどが奪われたの であろう。
 結果、大関家の所領が増え、伊王野家の所領が減り、大関家は伊王野家と同等の勢力までのし上がったのである。

 このことが那須資晴に伝わると、資晴は残念でならなかった。父資胤の頃と比べると、確実に那須諸将の力は大きくなり、大田原一門を中心とする図式も出来 上がりつつあった。大田原一門に対抗する度胸もないまま、大関家と伊王野家の争いは家臣同士の戦いとして、資晴は何の関与も出来なかった。ただ、主君とし て互いに争いを止めることだけを約束させたのである。

 その年の天正14年(1586年)、那須資晴は突如として南那須の入江野城を攻め、入江野氏を攻め滅ぼした。資晴は塩谷攻略を考えているが、その前に領 内の入江野氏を配下に従わせる必要があった。この入江野氏は、かつて大田原一門が佐久山義隆を攻め滅ぼした時に、佐久山一族のものが、この地に逃れ、入江 野氏を名乗り、城を構えたものである。一時は那須配下となっていたが、佐久山義隆を滅ぼした大田原一門に咎めがないので、反抗的な態度をとっていた。さら に、入江野氏が塩谷と内通しているとの情報もあった。そこで、資晴は塩谷攻めの前に、従わない入江野泰清を討ったのである。
 
 天正15年(1587年)から天正18年(1590年)、那須資晴は那須諸将を率いて、度々、宇都宮方の塩谷勢と戦った。領土拡大の意図もあったが、北 条氏政からの要請でもあった。北条は宇都宮の南まで勢力を広げ、下野の壬生家や皆川家、佐野家までもが、ことごとく北条傘下となっていた。次の目標は宇都 宮家と佐竹家であったので、那須家と挟撃することにしたのだ。大きな戦争ではなく、小競り合いが多かったという。

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