〜23 豊臣秀吉 ついに関東へ〜

 天正16年 (1588年)4月、豊臣秀吉は聚楽第に後陽成天皇を迎え、諸大名に関白秀吉への忠誠を誓わせるが、北条家は出仕しなかった。これまでに秀吉は四国、九州 も平定し、残すは関東・奥羽だけであった。大関安碩の長男の大関増晴、大田原山城守綱清の次男の大田原増清は早くから秀吉方の立場を明確にし、京都に赴 き、豊臣秀吉に謁見した。那須本家や他の那須諸将は迷いもあり、立場を明らかにはせず、また、大田原一門であった福原資孝も同じであった。
 豊臣秀吉は大田原増清、大関増晴の訪問を喜び、増清を出雲守に任じ、かつ呉服や羽織を与えた。
「大田原、大関。おまえたちの志(こころざし)は、よくわかった!わしが小田原へ出陣する時は、佐竹と同じように、那須も志を同じゅうして味方に参れ!」
「はっ!必ず参陣いたしまする!」
「ところで、佐竹に聞いたのじゃが、那須は宇都宮と争っているそうじゃな?速やかに争いを止めさせよ。佐竹も宇都宮も既に我が配下じゃ。那須太郎(資晴) 殿に書状を書くゆえ、お渡し下され。」
 早速、その書状を二人は那須資晴に届けると、資晴は塩谷侵攻を止めることにした。しかし、塩谷側とて那須家への敵対心あり、完全に争いが無くなったのは 秀吉が小田原へ向かう2ヶ月前になってのことである。

 天正17年 (1589年)、すでに大関安碩は隠居していた。跡継ぎに定めた清増は23歳の若さで2年前に亡くなっていた。清増には嫡男がいたが、幼少のゆえ、清増の 弟の資増が清増の子の後見役となり、政務を執っていた。
 伊王野家では資宗が72歳になり、さすがに老いを感じ、37歳の嫡男資信が家督を継いだ。
 芦野家では、やはり資泰は隠居し、34歳の盛泰の時代であった。
 大田原家でも、綱清は隠居し、晴清が家督を継いでいた。
 那須家では32歳の資晴が当主であった。嫡男の藤王丸(後の資景)も4歳になっていた。
 福原家では資孝が兄弟と違って隠居もせず、息子達を見守っていた。
 千本家では義政を当主として、嫡男の義定も25歳になり立派になっていた。

 秀吉は何度も北条家に催促し、5月になると、氏政の弟の氏規(うじのり)が釈明のため、秀吉を訪問した。氏規によれば、氏政はすでに隠居しているので、 その子の氏直が近いうちに挨拶に来るというものであった。また、先年、徳川家との和睦により、沼田領は北条領となる約束なのに実現していない旨を述べる と、秀吉は、存じあげないことであるので、詳しく知る者を今一度登城させるようにと答え、そのようにすると、沼田領の3分の2は北条領となり、残りは真田 昌幸に返すこととなった。ところが、沼田領の全てを欲しがった沼田城代が、氏直の許可も得ず、真田を攻めてしまった。10月のことである。このことが秀吉 の怒りに触れ、その後の北条家の釈明も受け入れられることは無かった。

 この頃、勢力拡大を狙っていた伊達政宗は、6月には芦名家を滅ぼし、10月には、ついに岩城常隆をも味方にし、佐竹義重を攻めようとしていた。すでに豊 臣秀吉により「私闘禁止令」が出されていたが、売られた喧嘩である。佐竹義重は那須資晴に援軍を要請して出陣した。
 資晴は950の兵を率いて、関山の南に陣を敷いた。佐竹・那須連合軍は伊達勢を打ち破り、伊達勢は退却していったが、義重は追撃しようとした。資晴は那 須と佐竹の兵が疲弊しているのを理由に、これを制して、再度の来襲のために、兵を養うべきだと説得し、両軍ともに退却した。
 かつては敵対していた佐竹義重と那須資晴ではあったが、資晴の妹が義重の嫡男義宣に嫁いでから、遺恨は消え失せていた。

 同年の天正17年 (1589年)11月、豊臣秀吉は北条氏直に対し宣戦布告、北条家はろう城準備の命令を出した。
 天正18年 (1590年)3月1日、 豊臣秀吉、京都を発し小田原に向かう。
 この頃、那須家では軍議が開かれた。もちろん、秀吉につくか、北条につくかを話し合うためである。那須諸将の全てが秀吉側の立場を明らかにした。那須資 晴とて、秀吉は絶対的に有利であろうことは分かっていた。しかし、これまでの北条家への恩義もあるのだ。武士道に外れることに躊躇していたのである。よっ て、那須資晴を説得する那須諸将という軍議になっていた。軍議が長引けば、それだけ参陣が遅れるので、まずは大田原晴清が秀吉のもとへ行き、釈明すること となった。
 3月27日、秀吉が沼津に着陣すると、大田原晴清と謁見した。以前に京都で会った大田原増清を覚えている秀吉は、増清の兄であり大田原家の当主である晴 清の来訪を喜び、その労と志を感じて、太刀を与え、備前守に任じた。また、晴清は那須資晴が那須諸将の説得に応じないので、説得のため他の将の参陣が遅れ ているが、那須家も他の将も必ず参陣することを告げる。3月29日、豊臣秀吉の軍、伊豆山中城を攻め落とす。4月4日、徳川家康、小田原城東方の今井陣場 に秀吉方として布陣。4月6日、豊臣秀吉、湯本の早雲寺に入る。この頃より石垣山一夜城に着手。
 4月27日になると、ついに伊王野資信、芦野盛泰、福原資孝、大関安碩(高増)・増晴、千本義政が豊臣秀吉のもとへ参陣した。那須諸将の失敗は参陣が遅 れただけではない。他にも参陣が遅れた将はいたが、いずれも書状か使者により、秀吉方への態度を明らかにしていた者たちであり、その者たちは所領を安堵さ れた。宇都宮家も佐竹家もそうである。しかし、大関・大田原を除く那須諸将は、この参陣にて初めて態度を明らかにしたのであった。よって、大関・大田原は 今の所領を安堵された上に、加封さえもあった。対して、他の那須諸将は領地を減らされ、わずかな所領を認められただけであった。
 那須資晴にいたっては、さらに参陣が遅れたため、8万石の所領を没収されてしまった。佐竹家は小田原へ5月27日に参陣した。佐竹義宣は1万の軍勢を率 いて小田原へ向かう途中、北条方の壬生家などを攻撃している。当然、その前に態度を明らかにしない那須家にも寄った可能性がある。那須資晴は佐竹義宣の舅 である。しかし、那須資晴は迷ったままであった。
 小田原に参陣した那須の将と那須本家をもって、那須七騎と呼ばれ、世に現われるようになったのも、この時である。すなわち、那須、伊王野、大関、大田 原、福原、芦野、千本である。
 豊臣秀吉によって、那須の勢力分布は変わってしまった。わかる範囲内で具体的に言えば、伊王野家は1万石であった所領が735石となってしまい、芦野家 は700石となった。大関家は大関安碩(高増)に1万石、増晴に3千石を与えられ、合計で1万3000石の大身となった。大田原家は7000石の所領を安 堵された。大関・大田原は2年前に秀吉に謁見して態度を明らかにしていたから優遇されたわけである。
 那須勢は小田原攻めに際して、浅野長政の軍勢に加えられ、忍(おし)城攻めに参加したようである。
 6月5日、伊達政宗、小田原に到着。7月5日、北条氏直、ついに豊臣秀吉に降伏。7月11日、北条氏政、氏照切腹を命じられ自害。7月12日、豊臣秀 吉、北条氏直を助命し、高野山へ追放。7月13日、豊臣秀吉、小田原城に入城し、徳川家康の関東地方 への領地がえを発表。7月16日、豊臣秀吉、小田原を発ち奥州に向かう。
 秀吉が小山に着陣すると、初めて那須資晴が秀吉に謁見した。この時、8万石の所領を没収されたのである。
 豊臣秀吉は奥羽攻めの前の7月28日、大田原城に2泊した。この時、大田原晴清は、那須家が没落したのを嘆き、那須資晴の嫡男である当時5歳の資景を 伴って、秀吉と対面させた。資景は父資晴の小田原への遅延を詫びたので、秀吉はこれを許し、資景に5000石を与えて、那須家は再興することになった。他 の那須諸将も秀吉に気に入られるように必死であった。芦野盛泰は、芦野に茶亭を用意し、秀吉の軍を厚くもてなし、秀吉に感謝され刀と黄金を賜わったほどで ある。

 豊臣秀吉の天下統一がなった今、所領のほとんどを奪われた那須諸将は、秀吉の命に従って、忠義を示す他になかった。
 大関・大田原は余裕であった。那須本家及び那須七騎の中で、大出世をしたわけであるから当然であろう。しかし、豊臣の時代においては、所領を今以上に増 やすことは出来なかった。それは、与える土地さえも無かったという実状もあった。

 伊王野家再起のため伊王野資信は努力する。文録元年(1592年)の朝鮮の役(文録の役)では、加藤清正の軍に属し、高麗陣を勤め、蔚山の戦に最も奮戦 し、加藤清正・浅野長政の両将より嘉賞された。那須七騎中、征韓役に従軍したのは伊王野家ばかりであった。その後の慶長の役も含めて、秀吉の所領が増えた わけでは無い朝鮮出兵は、伊王野家にとって所領を増やすものではなかった。
 慶長3年(1598年)、豊臣秀吉が死ぬと、徳川家康の時代がやって来る。今度こそ、素早い対応で、徳川方への親交を深めた那須勢であった。そして、つ いに慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いへと突入するのであった。

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