〜24 関ヶ原の戦いの時〜

 朝鮮から日本に戻った伊王野資信は、謀反の疑いある上杉景勝の動向を探り、家康に報告している。慶長5年(1600年)5月3日、家康は資信に書状を出 す。
「追っ付け出馬し、(景勝を)討ち果たすであろう」
 という内容である。同年7月24日、家康が景勝征討の軍を率いて、下野小山に来ると、翌日、諸将が集められ軍議となった。有名な小山評定である。那須七 騎は揃って小山の徳川家康に謁し、それぞれが忠誠の証しとして人質を差し出し、江戸に送った。この時の那須七騎の家柄が差し出した人質は以下の通りであ る。

 伊王野資信・・・資信妻(佐久山信隆娘)、弟の猪右衛門(直清)、猪右衛門娘、家臣娘2人。
 那須資景・・・・資景妻(小山氏娘)、家臣高瀬弥六妻、家臣大田原周防。
 大田原晴清・・・晴清老母、家臣大谷甚太郎娘、家臣大谷源太郎娘。
 大関資増・・・・資増の弟政増、家臣金丸資員妻、家臣浄法寺茂直娘、家臣松本治郎右衛門妻、家臣津田源海妻。
 芦野政泰・・・・政泰老母(大関高増娘)、家臣芦野九右衛門。
 福原資保・・・・資保妻(久野氏娘)、弟保通。
 千本義定・・・・義定老母(那須資胤娘)、家臣某、家臣娘1人。

 家康は那須七騎の誠意を賞して、それぞれに太刀一口・黄金十枚を贈った。
 西の情勢が緊迫してきたので、家康は江戸に戻ると、8月25日の御内書で、家康は
「景勝が出馬したら直ぐ知らせるように。」
 という内容を述べている。この御内書は伊王野氏の他、那須氏・大田原氏・大関氏にも出されていたようだ。そして、家康は9月1日に江戸を出発し、天下分 け目の関ヶ原の合戦に向かう。

 上杉景勝に警戒して、徳川家康は那須地方の守備を固めさせた。もっとも奥羽から近い芦野城では芦野政泰に300石を加増し、次に近い伊王野城では伊王野 資信・資重が守備を固め、臨戦体制に入っていた。
 大田原城では上杉景勝の侵攻を警戒する拠点として、大田原晴清・増清、皆川広照・隆庸、服部半蔵正成、那須資景、伊王野資友(資信次男)、福原資保、千 本資勝、岡本義保らが守り、黒羽城では大関清増、千本義定、岡部長盛、服部保英が守った。
 9月14日、奇しくも関ヶ原で合戦が始まった日、景勝方の芋川縫殿頭、林蔵人などが白河城に籠り、金子美作守、柿崎右衛門、美濃、横田大学、大道寺、平 林寺の加勢を得て、伊王野口に進軍し、先峰関山にいるとの急報があった。夜中のことである。すぐに伊王野資信、嫡子資重は伊王野城において家臣を集め、軍 議を開いた。
「上杉勢は伊達殿や最上殿などの徳川方と戦っておるはずだ。よって、関山や白河城にいるのは主力ではない。」
 資信が言うと、家臣薄葉備中が質問をした。
「殿は上杉勢の数を如何にお考えか?」
「うむ。白河結城の頃を考えると、白河城では500の兵を出せることだろう。城の守りに200から300といったところか。」
「この備中も殿と同じ考えでござる。さらに、関山は小さき山であれば、30から50が潜んでいると思われます。」
「うむ。報告もそうであった。我が伊王野家は豊臣秀吉により衰退したとはいえ、兵力だけは、これまでの蓄えにより、なるべく減らさずに生きてきた。それで も、総動員して150だ。往年より100も減ってしまった。この兵力で如何に戦うべきか?」
 ここで伊王野資重が案を出した。
「敵は関山を抑えたことで、戦略を練っているはず。上と横とで挟撃する作戦でしょう。それなら、まず、関山を奪取することが最善策。私と備中で、手勢を率 いて、関山を奪いまする。」
「大役だぞ。任せてもよいか?」
「はっ!父上。必ずや奪取いたしまする。お任せあれ!しかも今年は、我が嫡男誕生のめでたき年。天も我らに味方するでしょう!」
「よし!では、任そう!夜明けとともに、わしは本隊を率いて参ずるがゆえ、敵を逆に挟撃するのだ!よいか!皆の者!これは我が家が生き残るための戦い!負 けは死に等しいと思え!我らの力を見せてやるのだ!」
「おー!!」

 資重の意見によって、彼が手勢30を率いて関山を奇襲し奪取し、後から資信本隊120が出陣することになった。城を守る兵を残さない背水の陣ともいえよ う。すぐに、大田原城へも使者を送った。しかし、この時代のこと。使者が大田原城へ到着したのは夜も明ける頃であった。
 時を移さず奥羽軍の出鼻をくじくべく実行に移った。家臣薄葉備中が資重の命を受け、夜陰に乗じ関山に登り、虚をついて敵兵数十人を討ち取り、関山を奪 取。さらに作戦を練って夜明けを待ち、明けて15日朝、関山が奪われたことを知った敵兵が殺到した。
「見よ!関山が奪われておる!作戦は失敗じゃ!」
「慌てるな!徳川方は少数!我らの有利は変わらぬ!」
 上杉勢は300の兵で関山に登り始めた。これを見て、伊王野資重はニヤリと笑った。
「備中!おまえの策が当ったな!さすがだ!」
「はっ!者どもー!今だー!!」
 山頂に到達しようとする敵兵に対して、関山観音堂及び別当満願寺修繕のため用意してあった材木・石材を、上から落とし、敵兵が慌てる間に矢や鉄砲を撃っ て奮戦した。これは夜のうちに準備した薄葉備中の策である。
 丁度、資信本隊が到着し、資重の上からの攻撃、資信の横からの攻撃により、奥羽軍は敗走した。黎明から午前10時まで続いたこの合戦で、敵兵173を討 ち取り、味方の兵39が死んだ。しかし、口惜しいことに資重も重い傷を二箇所に被り、その年の11月に亡くなることになる。
 手柄第一は薄葉備中、次は黒羽太左得門、小山田監物、秋庭助右衛門、黒羽対馬、町本内匠、沢口四郎兵衛、伊王野猪右衛門直清、伊王野兵部、田中藤兵衛、 小滝勘兵衛、鮎瀬豊前(弥五郎改め)、小白江玄蓄、田代長門等である。
 大関・大田原・那須氏らは、急報によって驚き、直ぐに援軍を出したが、途中で伊王野軍の使者により戦勝が告げられ、引き返した。
 この論功により、伊王野家は高根沢で2000石を加増され、合わせて2738石となる。昔日の面影は無いとはいえ、一応は安堵することになる。

 関山の合戦後に、薄葉備中の働きを賛えた狂歌に下記がある。
「伊王野に過ぎたるものが三つある 鳥井 道場 薄葉備中」
 鳥井とは伊王野鎮守湯泉大明神の鳥居が立派であったこと、道場は専称寺(もと田辺道場往生院)の寺観が立派であったこと、薄葉備中は関山の合戦での働き が伊王野に過ぎたるものであったことを指す。専称寺の伽藍は延宝3年(1675年)に焼失し、現在のものは後に再建されたものである。

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