〜25 戦乱の世の終結 江戸時代の那須諸将〜

 慶長19年(1614年)、大阪冬の陣では、那須一門は徳川方として、河内国平野の番を勤め、翌年の夏の陣では、河内国須那の番を勤め、逃げてくる豊臣 勢と戦った。いずれも本多正信の配下として従った。その後も、改易や転封となった大名の城の受け取りの仕事など、那須七騎は忙しく働いた。
 ここに戦乱の世は幕を閉じたのである。那須の勢力分布は豊臣秀吉や徳川家康によって大きく変わってしまった。
 その後の那須諸将はどうなったのであろうか?

 那須家は資晴の時、秀吉に8万石を没収されたが、嫡男資景に5000石を加えられた。そして、徳川時代になって資晴に1000石、家臣にも加増あり、合 計で1万4000石となり、那須藩が誕生した。しかし、資景の嫡男資重に男子が生まれず、跡継ぎがいないため、那須家は断絶となった。資重の妻は大関政増 の娘で、徳川家康の孫でもあった。跡継ぎさえ生まれていれば、繁栄していたに違いない。
 その後、増山正利の弟資弥(すけみつ)が那須家を再興し、2万石となり再び那須藩が誕生した。那須資弥は徳川家綱の母親の弟である。ところが、資弥の養 子の資徳の代に家督相続問題があり再び領地は没収されてしまった。資徳は津軽信政と増山正利の娘の子であった。よって津軽家より1000石の援助があり、 那須家は1000石の旗本として幕末まで徳川家に仕えた。

 大関家は2万石となり黒羽藩を構えた。政増の妻はシャン姫と言い、徳川家康の娘を水野重仲が養女としたものである。政増とシャン姫に生まれた長女は那須 資重に嫁いだが子供は生まれなかった。その後、増親の代に二人の弟に領地を1000石づつ分け、1万8000石となった。幕末の徳川慶喜の時代には、増裕 が若年寄に任じられた。

 大田原家は1万2400石となり大田原藩を構えた。そして、幕末まで続いた。また分家の大田原家もおり1500石で旗本となった。

 福原家は4000石の旗本となった。その後、兄弟に所領を分けたこともあり、幕末には3000石となっていた。分家された福原家は後に跡継ぎが無く断絶 した。

 伊王野家は1万3000石から、大関家と争い所領を奪われ、後、秀吉により、735石まで減らされ、関ヶ原の合戦で2000石が加えられ、江戸時代には 2735石で旗本となった。惜しまれつつも嫡男資重が関山合戦の傷で亡くなり、その年生まれの嫡子がいたが、幼いため、徳川家へ奉公することが出来ず、資 信の後、伊王野豊後守資友(妻は大田原綱清の娘)が継ぐことになった。次に資房(井上数馬。養子。妻は資友の娘。)と続いたが、資房に子が生まれぬまま若 くして亡くなったため、跡継ぎ問題(末期養子の禁)で改易となり、所領は没収された。しかし、嫡流である資重の子の資直がいるので、何度も伊王野家再興を 願い出たが、願いはかなえられなかった。よって、資直の代は浪人であったということになる。当時、那須七騎の中で徳川将軍家に仕えていなかったのは伊王野 家だけであったので、なおさら再興を願い、資直は浪人を余儀なくされたのであった。栄枯盛衰の伊王野家である。
 後に伊王野本家は資直の嫡男資忠が水戸藩(徳川頼房)に仕え、家老にまで出世し、子孫は幕末まで水戸藩士となった。
 資信の3男資壽の子である資年は鳥取池田藩に士官し、江戸後期〜明治初期になると、緒方洪庵とも交流あり日本初の臨床書「察療亀鑑」を表わした伊王野坦 (資明)を輩出した。伊王野坦は明治維新後に久美浜知事となっている。従五位を贈られ蘭学史に残る人物である。また、三条実美(さんじょうさねとみ。幕 末・明治初期の公卿。急進的な尊王攘夷派。維新後は議定、副総裁、右大臣、太政大臣などを歴任。)とも交流があった。
 資忠の弟資勝は大田原藩へ仕えた。その他、芦野家に仕えた者、他家に仕えた者など様々である。

 千本家は3370石で旗本となったが、やはり跡継ぎに恵まれず義等(よしとも)の代に改易となり、所領没収となってしまった。千本家改易の後、義等の弟 の和隆(なおたか)が1050石で旗本として千本家を再興させた。また、戦国時代より傍流の千本家もあり、880石の旗本となっていたが、跡継ぎがおら ず、所領没収となった。

 芦野家は秀吉により700石に減らされていたが、後に徳川家によって3000石となり、旗本となった。そして幕末まで続いたのである。

 また、伊王野家と千本家は改易されたが、那須家、福原家、芦野家、大田原家(分家)は旗本でありながら大名と同じように参勤交代する老中支配の旗本交代 寄合であった。江戸に近い関東の外様の大名・旗本としては、江戸時代を通して国替えもなかったのは稀なことである。

 その他の那須の将は、大関藩や大田原藩へ仕えた者が多かった。中には武士であることに疲れ、わずかの土地で農民になった者もいたであろう。余談だが、大 関家一族の中にも水戸藩に仕えた者もおり、幕末には養子となって大関家を継いだ者が、桜田門外の変で大老の井伊直弼(いいなおすけ)を暗殺する実行犯の一 人として、歴史に名を残している。また、やはり養子として伊王野家に入った者が天狗党(水戸藩尊王攘夷派)に参加している。

 動乱の戦国時代を駆け抜けた那須諸将。近隣の勢力に悩み続け、那須家中の勢力争いにも巻き込まれた那須の男たち。平成の時代となった今でも、その血は受 け継がれ、誇りを持って、乱世の現代社会を生き抜いて戦っているはずである。那須与一宗隆も、あの世で見守っているだろう。

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