〜4 蛭田ヶ原の戦い〜
8月2日、那須諸将の兵が那須資永を討つために蛭田ヶ原に陣を敷いた。暑い夏であった。先陣には伊王野資勝・資直と稲沢俊吉・政泰、次いで芦野資豊(太
田道灌に軍法を学んだ芦野資興の嫡男)、大関宗増、金丸義政、大田原胤清・貴清、他那須の諸将、総勢500騎であった。
那須資永も主力50騎と兵100を率いて蛭田ヶ原に向かい、箒(ほうき)川をはさんで対陣した。大野義隆は必死にろう城策を提案したが、資永の怒りは静
まることはなかった。まず、川を渡り伊王野・稲沢勢が攻めてきた。資永は激を飛ばした。
「よいか!皆の者!!奴らは那須家臣で集まった急造部隊である。統率力も士気も我らに劣る!我らの力を見せつけてやれ!」
資永が率先して戦うことで、兵の士気も倍増である。伊王野・稲沢も奮闘したが、迫力に圧倒されていた。そこへ、芦野資豊も兵を率いて川を渡り、両者、互
いに譲り合わず、互角に戦った。そして、伊王野資勝が那須資永の姿に気付いた。
「見よ!資永がおる!資永を討つのだー。」
戦の目的は資永を討つことにあるので、士気は高まり、たちまち、伊王野・稲沢・芦野勢が優勢となった。
「資永勢は総くずれじゃ!」
資永は大野義隆の意見に従い、城に逃げることにした。もはや、完全に劣勢である。しかし、城まで無事にたどり着けるかどうかも厳しい状況であった。そこ
で、大隈川頼善房昌範がしんがりを引き受けた。頼善房がわずかな兵で敵をひきつけている間に、資永は福原城へ戻ることが出来た。頼善房は得意の槍で、敵方
を次々に切り倒していったが、最後は芦野資豊に討ち取られてしまった。しかし、見事な働きである。無事に主君を城に戻した功績は大きい。
伊王野・稲沢・芦野勢はひとまず蛭田ヶ原に戻り、他の諸将と軍議を開いた。すでに夕方である。楽勝ムードが漂っていた。
「このまま、総攻撃をかけるべきだ。奥州勢が援軍を送る可能性もある。」
と、大関宗増が言うと、
「いやいや、白河結城には今や力はない。今ごろは資永も軍議を開き、和睦を考えていることだろう。明日まで待ってやるのも武士の情じゃ。」
と、大田原胤清が言う。さすがはライバル同士。意見が食い違う。
「では、密かに資永の家臣に使者を送り、資永の首を差し出せば、家臣の命までは奪わぬと提案してはいかがか?」
と、芦野資豊が言えば、
「馬鹿を言え。あの者どもは結城家からの従者であれば、資永と心中する覚悟であろう。」
と、伊王野資勝が言う。こちらは勢力的には芦野が劣るが、隣接した領主であるので、互いに警戒する仲であった。
結局は稲沢俊吉の意見で皆が同意した。つまり、今のうちに夜陰に乗じて城を包囲し、夜明けとともに総攻撃をしかける策である。
しかし、この時は思いもよらない不幸な結末に終わることなど、誰も考えすら浮かばなかった。近隣諸国にも同情されるほどの・・・。
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