〜7 新君主入城〜
 
 翌日、大関宗増と大田原胤清は那須資房のいる烏山城を訪れた。烏山城は那珂川西岸約1キロ、標高202メートルの独立丘陵八高山(寿亀山)の主峰を中心 に約80haに及ぶ広大な山城である。下野最大規模の城である。ここで上那須諸将の城と比べてみよう。大田原胤清の水口城は1haにも満たなかった。大関 宗増の白旗城は10ha、伊王野資勝の伊王野城は7ha、稲沢家の稲沢館は1ha、芦野家の芦野城は3ha、福原家の片府田城は1ha、佐久山家の佐久山 城は2haであった。その差は歴然である。

 二人は部屋に通され、資房を待っていた。
「でかい城じゃな。胤清殿。」
「うむ。わしにしてみれば宗増殿の白旗城の大きさにも驚いているのに、烏山城と比べれば小さく感じてしまう。何度か訪れたことはあるが、いつも驚いてい る。この城は完成まで1年もかかったそうだ。」
「ここまでの大きさが必要かどうかは別として、山田城を拡張しなければ、政資様をお迎えしても恥ずかしいぞ。」
「まったく、その通りじゃ。宗増殿。久し振りに意見が合いましたな・・・。」
「・・・・・。」
 その時、資房が興野景隆を伴って現われた。
「遠路はるばるご苦労であった!那須資房じゃ。ささっ、面を上げて下され。堅苦しい挨拶は抜きじゃ。」
「家臣の興野景隆じゃ。大田原殿と大関殿でござりまするな。」
「はは、大田原胤清でございます。」
「それがしは大関宗増でござる。このたびは資房様より有難きお話し頂き、那須諸将いずれも喜んでおりまする。」
「そうか。上那須とて同じ那須家じゃ。遠慮は無用じゃ。わしはのう、昔のように那須家を一統にしたいだけじゃ。」
「そのことで、上那須での話し合いの結果を持って、お伺いさせて頂きました。」
 胤清がおもむろに話を切り出した。
「政資様を君主とする旨は皆が賛成してくれました。ただ、奥州勢が攻めてきた時、本当に駆けつけてくれるかどうか不安に思う者たちもいるのです。ですか ら、政資様を上那須の山田城へお迎えし、その不安を取り除いてもらいたいのです。上下那須が真に一つになるには、これしかありません。また、資房様はじめ 下那須諸将も納得いくように、それがしの嫡男である貴清を烏山城へ人質として差し出しまするゆえ、どうか、お聞き願いたい。」
 大関宗増は冷や汗をかいていた。しかし、資房は意外にも落ち着いていた。
「なるほどな・・・。上那須の意見もっともじゃ。その儀、全て承った。また、嫡男を人質として出す心意気も感じ入った。大切に扱うゆえ、安心なされよ、胤 清。宗増。」

 交渉は万事うまくいき、ここに100年ぶりに那須家が統一されることになった。上那須諸将はまず皆で政資を迎かえ入れるため山田城の拡張・修復工事を行 なった。本来なら上那須の本城は福原城であったが、資永との戦いで燃えてしまったので、山田城に迎え入れるのだ。
 9月になって完成した新しい山田城へ、那須資房が500の兵を率いて入城し、その準備の万端さを見届けた後、烏山の政資を呼び寄せた。政資は150の兵 を率いて入城した。2週間ほど那須諸将と打ち合わせをし、約束通り人質として大田原貴清を連れ、烏山へ戻って行った。
 もともと、大田原胤清が人質として貴清を差し出したのも計算があった。政資が君主とは言っても、まだ若く、実権は資房が握っていた。だから、那須家で力 を得るには資房の近くに貴清を置いておく必要があったのだ。胤清の思惑通りに事は運び、貴清は資房の信頼を得ることに成功した。人質の身でありながら、水 口城へ何度か帰ることも許されただけでなく、資房の一字をもらって資清と名を改めることも許された。以後、大田原貴清は大田原資清と名乗るようになるので ある。

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