〜8 長編 大関、福原の謀略〜
翌年(1517年)、大田原胤清が死んだ。那須資房は、それを嘆き、大田原資清に家督を継ぐことを許した。もはや、資清は人質ではなかった。資房の信頼
厚き家臣であった。
山田城にいる那須政資も上那須諸将に守られ立派に育っていき、資房にしてみれば、心配事は来るべき奥州勢との戦いだけであった。
永正15年(1518年)、資房の資清への信頼は日に日に増し、大関宗増と福原資澄(片府田城主)には相当ねたまれていた。また、宇都宮家は成綱が死
に、忠綱が跡を継いでいたが、父以上の野心家であり、このことを利用し那須家を配下にしようと考え、大関宗増に書状を送った。その書状には、
「この忠綱は憂慮している。先日、大田原資清からの使者あり、那須家を乗っ取るのに力を貸して欲しいというのだ。大田原資清は那須資房の最も信頼厚い将と
聞いていただけに言葉を疑ったが、本気のようだ。このようなことで良いのか?那須家は我が母方の生家であるので心配しておる。このことを那須資房殿に話し
ても信じてもらえぬであろう。だから、忠義の臣、大関殿に書状を送ったのである。」
と、書かれていた。驚いた大関宗増は福原資澄(資安)のもとへ相談に行った。
「これは・・・、まことの話であろうか?大関殿。」
「わからぬ。恐らく、宇都宮忠綱の策略であろう。じゃが、これを逆に利用することが出来る。」
「大田原資清を失脚させることが出来る!」
「そうじゃ!」
「では、早速、資房様のところへ・・・。」
「待て待て!気が早いのう!資房様がすぐに信じると思うか?時機を待つのじゃ。その時は福原殿には協力して頂きたいのじゃ。」
「もちろんでござる!楽しみになってきた。だが、黙って時機を待って勝機を逃しては意味がない。ここは調略をもって陥れるべきでござろう!」
同年10月、まず、福原資澄が那須資房へ、おかしな噂があると言って、大田原資清の謀叛の噂を伝えた。
「まさか、そのようなことがあるはずもない。資澄は噂を信じておるのか?」
「まさか!信じておりませぬ。大田原殿は忠義に厚いお方。誰もが、心を寄せておりまする。しかし、それが作戦だとしたら那須家にとっては一大事でござりま
す。そもそも今は亡き大田原胤清殿が嫡男の資清殿を資房様へ人質に出したのも、おかしな話です。娘が二人おりましたので、そのどちらかでも良かったはずで
す。さらに、胤清殿が人質を出すと言った時、他の将たちも子や妻を人質に出すと言ったにも関わらず、胤清殿は上那須家が断絶した罪は自分にあるから自分の
子だけで充分だと言って、それを制しました。これも妙ではございませぬか?」
「うーむ。しかし・・・。」
那須資房は半信半疑であった。しかし、大田原家の策略だとすれば、一大事である。そこで、興野景隆、大関宗増、伊王野資勝に集まってもらった。
「大田原資清が謀叛を起こす噂があるそうじゃな?」
「まさか!聞いたこともありませぬ。それに資清殿は純粋でござる。二心を抱くわけがございません。」
伊王野資勝は資清を信じているので、その噂を完全に否定した。だが、興野景隆も、その妙な噂を聞いたとのことであった。景隆が聞いた噂は大関や福原が流
したものではない。実は宇都宮忠綱も独自に噂を流していた。下那須にしか流していないので、まだ伊王野資勝の耳には入っていないのだ。
「そうか。景隆もそのような噂を聞いたか・・・。」
「はい。しかし、噂は噂です。裏がとれるまでは殿のお耳には入れないようにしてました。」
「で、裏はとれたか?」
「いえ、まだでございます。」
「大関はどうじゃ。先ほどから黙っているが、噂すら聞いたことないか?」
資房の問いに大関宗増は演技力たっぷりに答えた。
「実は・・・。噂ではございませぬが・・・。」
「なんじゃ?申してみよ。」
大関宗増は宇都宮忠綱からの書状についての話をし、さらに従者に白旗城まで書状を取りに行かせ、資房に渡した。資房は震えながら、その書状を読んでい
た。
「お屋形様!そのような書状、信じてはなりませぬ。宇都宮忠綱の策略に決まっておりまする。おおかた、噂を流したのも忠綱でござろう!」
「資勝殿!それだけではないのじゃ!先日の軍議で、政資様の嫁に岩城家の息女を迎えて、結城家を孤立させ、奥州勢の力を削ぐという話をしたであろう?そこ
で、資清が交渉役になったわけだが、資清はまだ若いゆえ、わしも手伝うことを殿に願い出て許してもらったのじゃ。ところが、資清は断わりおった!資清の謀
叛など信じたくないわ!だから、わしも真実を探ろうとしたが、今、思えば、資清は宇都宮に断わられて、今度は岩城家を味方につけ、那須家を我がものにしよ
うとしているのに他ならぬではないかー!」
大関宗増は涙さえ浮かべる迫真の演技であった。しかし、資清が宗増の手伝いを断わったのは事実であった。資清は若いゆえ功を急いだだけなのだが墓穴を
掘ったことになってしまった。
「・・・伊王野、大関・・・・。大田原資清を討つのじゃ。」
伊王野資勝はなおも大田原資清をかばおうとした。
「お待ち下され!今一度、お考え下され!」
「もう、よい!ここまで証拠があっては言い逃れは出来まい!大関!福原とともに出陣し、資清を討て!」
那須資房の決めたことである。もはや伊王野資勝は口出しすることは出来なかった。
大田原資清の水口城では、突然、軍勢に囲まれ慌てふためいた。
「何事だ?これは!」
「殿!大関と福原でござる!
「なに!?何故、大関と福原が!?」
城を囲んだ大関宗増は声高らかに叫んだ。
「資房様の命により、逆臣、大田原資清を討ちに参った!我らの目的は大田原資清だけじゃ!家臣の命は助けるゆえ、城を開けて降伏せよ!」
城には数十名の兵しかいなかった。大関、福原勢は総勢100の兵で囲んでいた。
「なんたることだ!大関の謀略に違いない!弓矢にて射殺してくれようぞ!」
資清は自らも弓矢を持ち、家臣らとともに城外の敵兵らに、矢を放った。すかさず、大関、福原勢も矢で応戦してくる。大田原勢もよく戦ったが、多勢に無勢
である。
「これまでか・・・。あの世でも決してわしは大関を許しはしまい!」
部屋に戻り自害しようとした資清を家臣岡本助左衛門が止めた。
「おやめ下さい!殿!生きていれば再起をはかれます。我ら家臣も耐えて待ちましょう!」
「だが、この状況では逃げることもかなわぬ。ならば、せめて、わしの首を持って行けば、そちたちの命も助かるであろう。」
「我らの命に替えましても殿を逃がしまする。」
大田原勢は城を開き討って出た。大関、福原勢とまともに戦ったのである。士気の高い大田原勢はよく持ちこたえ、大田原資清とその妻子は城を抜け出すこと
が出来た。資清が抜け出せたことを知ると、岡本助左衛門は抵抗を止め、降伏した。その後、資清の家臣らは各地に散り、他家に仕えた者や、百姓になった者等
様々であったが、誰一人として大関家や福原家に仕えた者はいなかった。
城を抜け出せた大田原資清は妻子とともに塩谷郡館野川の長興寺に逃れ、隠匿生活を行なっていた。長興寺は資清の兄である麟道(りんどう)和尚の寺であ
り、また、宇都宮方の芳賀家の川崎城にも近かったので、那須家の力は及ばなかった。しかし、まだ若い22歳の資清は、すっかり元気をなくし、仏門に入り、
永存と名乗るようになったのだ。半年が過ぎた頃、兄の麟道から話があった。
「永存。おまえは俗世間のことを忘れたいと言っておるが、ちっとも忘れられずにいる。そのように中途半端では何事もうまく行かぬぞ。そこで、わしも修行し
た越前の永平寺でおまえも修行しなさい。那須の近くにおっては忘れたくても忘れられないであろう。」
麟道の勧めもあって、永存(資清)は越前の永平寺へ旅立って行った。時は永正16年(1519年)の4月のことであった。
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