シュールな『恋人』

 

恋人

 

1999年3月22日
(1993年3月23日追加更新)


昨年暮れのある日、メールの中に画像ファイルが添付されているものがあった。差出人を見ると、これまでにも何度かメールの交換をしているKさんからである。朝起きぬけで、まだ半分ねぼけたまま、メールに添付されているファイルを先に開くと上にある画像が2枚現れた。

Kさんとは近々オフ・ミーティングすることになっている。お互い顔も知らないので、オフ・ミーティングに先立ち写真でも送ってきてくれたのかと思ったが、それにしても変わった趣味だ……、風呂敷をかぶったままキスしている……。Kさんが酔っぱらったときにでも彼氏とふざけて撮ったものを送ってきたのかと思った。もう一枚は風呂敷をかぶったまま2人で正面を向いている。この2枚をながめていると、Kさんて少しアブナイ趣味の人なのかしらと不安になってきた。

メールを読み直すと、あの画像は本人の写真ではなく(汗)、シュールレアリスムの画家ルネ・マグリットの、『恋人』であることがわかった。だいぶ目も覚めてきたので、もう一度画像をながめてみると、確かに写真ではなく、「絵」であった。

私自身はマグリットの絵を見るのは初めてであったが、絵画の世界ではよく知られた人のようである。シュールレアリスムの画家であるから、「切り口」は一風変わっている。別段シュールレアリスムでなくても、絵画、彫刻、音楽、映画、詩、小説……、表現方法は何であれ、芸術と呼べるものは作者の世界観が、その人独自のフィルターを通して表現されている。その人の魂が感じたものを作品として吐き出している。「独自の世界観」というだけなら、何もシュールレアリスムに限ったことではないが、シュールレアリスムの場合、その切り口は現実離れしたものが多く、見る人を困惑させる。その困惑こそが狙いであり、常識の崩壊が起きる。それが契機となり、未知の世界へと導く糸口の発見につながることもある。

絵画に限らず、「芸術」と呼ばれるものであればどのよう分野でも、自分の頭の中で作り上げている世界観を表現するとき、他人にどのようにして伝えるか、その方法論は数限りなくある。しかし、「作品」という目に見える形で、しかも他人にも理解してもらえる形で表現することは容易ではない。

多くの人が経験していることだが、見慣れていたはずの風景が、あるとき突然今までとは違ったように見えることがある。それ自体は変わっていないのに、見る側の視点、興味の対象、価値観の変化などで、ある瞬間、それまでとはまったく別のもののように見えることがある。

円錐を切るとき、切り方によって、切り口は円、楕円、双曲線、放物線など、様々に変化する。しかし、実体は何も変わってはいない。

何かの作品に接したとき、見る者のイマジネーションを刺激し、色々と考えさせ、妄想を引き出し、その中から何かの気づきを生じさせてくれるものがある。禅の「公案」のようなものだろうか。「公案」自体には何の意味もないのだが、意識の片隅にでも置いて、それについて考え続けていると、何かの拍子に突拍子もないことを思いついたりする。頭の中で展開していたミクロコスモスが、マクロコスモスとなり、「宇宙」とつながることもある。それを「お悟り」と呼んでもよい。

「お悟り」と言ったところで、この世に絶対的、普遍的に正しいものなど何もないのだから、どうってこともないと言えばないのだが、それでも当人とっては自分の世界が広がることは間違いない。それはそれで喜ばしいことだろう。

この2枚の画像を送ってもらったのを機会に、マグリットの作品を何点か、画集やインターネットでながめてみた。すると、どの作品も人を驚かせてやろうとするマグリットのイタズラゴコロが伝わってきて、ある種、私自身と同質のものを感じてしまった。いっぺんに親しみを感じてしまった。

マグリットの作品によく使われている手法、「視点の変換」を行うだけで、人は今まで現実と思い、疑わなかったこと、目の前に見えていることに確信が持てなくなる。人は見ているようで、実際には物事のほんの一部しか見ていないことがよく理解できる。

人は自分に理解できない何かに接したとき、それがひどく難解で、高尚なもののように思いがちである。しかし、実際にはそのようなことはない。理解できないものなど山ほどあるが、それはたまたまこちらの魂のバイブレイションが、作者のそれと一致しなかっただけである。その作者とは縁がなかっただけである。

今回、私自身にとっては知らない画家であったマグリットを紹介してもらい、シュールレアリスムについても少しは知識が増えた。知識の多寡などどうでもよいのだが、私の中で、今まで知らなかった分野とつながる経路ができたことはうれしい。楽しめる世界がひとつ増えたことになる。

とは言え、いまだに先の2枚の絵が何を表現しているのかは不明である。想像やら妄想はいくらでも湧いてくるが、マグリット自身は何を考えていたのか、彼に訊いてみたいところだが、すでに亡くなっているのでそれもできない。しかし、実際にはたずねることもない。作品は、それを見る者が、自分の中でどうイメージを広げて行くか、それにかかっているのだから、マグリット自身も、他人がどのように解釈したところで、それはそれでよいと思っていることだろう。

ところで、私が一番最初にこの2枚の絵を見たとき、条件反射のように、ある「歌」が頭の中で鳴り響いた。前の晩の酒が残っていたわけでもないのに、何であんな歌が出てきたのかわからない。巨大な「煩悩」の塊りが私にはあるのだろうが、それにしても我ながら嘆かわしい。何の歌か知りたいですか?どうしよう、弱った.......。

あれですよ、あれ。宴会で酔っぱらったオヤジがよく歌っている「数え歌」。私は歌ったこともないのに、何でこんなのが唐突に頭の中に出てきたのかわからないが、とにかく出てきたのは、 「数え歌」の3番、あれがまっ先に出てきた。(汗)

誤解のないように言っておくが、オフミーティングで会ったKさんは、「3番の歌詞」とはまったく正反対で、風呂敷もハンカチもいらない、楚々した美人であった。(汗)

追加更新(1999/3/23):昨日、これをアップロードしたら、「数え歌って何?」というものや、ご叱責のメールが来た。「毒食わば皿まで」。ついでに「数え歌」も紹介しておくことにする。

「魔法都市日記(28)」も参照。


indexIndexへ homeHomeへ

k-miwa@nisiq.net:Send Mail