東国の辺境に造営された「巨大方墳」舟戸山古墳の謎について
2026年9月5日
1.「日本書紀」の国譲り
| 「二柱の神(フツヌシとタケミカヅチ)は、ついに邪悪な神々や、従わない草木や石の類までを退治して、すべて平定し終えた。」 「それでもなお従わなかったのは、ただ「星の神」である香香背男(カガセオ)だけであった。 そこで高天原は、「織物の神」である建葉槌命(タケハヅチのみこと)を(二神に)追加して派遣したところ、ようやく服従した。」 |
日本書紀の この「星の神」と「織物の神」を祀る神社を捜しました。
出雲か大和に存在するだろう、と思ったら...
何と、茨城県日立市にありました。 常陸国の大甕(おおみか)神社です。
大甕神社だけが、唯一「星の神」と「織物の神」の二柱を同時に祀っていました。
また、日立市には 私の大学時代のクラス仲間のSさんが居るという、ご縁がありました。
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大甕神社は、 紀元元年創祀とされる非常に歴史の古い神社です。 ※大甕神社の祭神 主祭神:武葉槌命(タケハヅチのみこと / 建葉槌命) 地主神:甕星香々背男(みかぼしカガセオ / 星神香香背男) 場所:茨城県日立市大みか町(JR常磐線大甕駅のそば) |
| 『タケハヅチに敗れたカガセオは、巨大な岩に変身し、なおも邪気・妖光を放ち抵抗しました。 この岩は成長を続け、ついに天にも届くほどの大きさになってしまいました。 困り果てたタケハヅチは、神足通(じんずうりき)という強い力を使って、その巨石をパカンと蹴り飛ばしました。 蹴り飛ばされた巨石の破片は、茨城県内のあちこち(石井、鳥名木、辰ノ口など)に飛び散ったとされています。 そして、残った巨石の根元部分が、現在の境内にある巨大な岩山「宿魂石(しゅくこんせき)」です。 タケハヅチは、この岩のなかにカガセオの魂を封じ込め、その上に自らの社殿を建てることで、上から永劫に抑え込みました。』 |
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2.日立に住む友人に大甕神社のことを聞いてみました。
地元のSさんの情報を要約すると、
『大甕神社は、御岩神社と並び称される日立市のパワースポットです。 最近、大甕神社の近くで 57Mの前方後円墳 が再調査され、大和政権とつながりのある有力豪族の存在が注目されています。 ということは、それ以前に大和政権に属さず抵抗していた有力者がいたということであり、その豪族が「甕星香々背男」であろうと思います。 屈服させるのに相当苦労し、再起できないようにと巨岩(宿魂石)下に封じ込めた、という言い伝えがあります。 大甕神社の主祭神は武葉槌尊で、地主神として「甕星香々背男」を祀る社が、境内の5億年前の地層と言われるガンブリア期 の岩石でできた高さ約10Mほどの岩山の頂上にあります。 鎖場もありますが、一気に登れます。』 |
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舟戸山古墳は、 現在は茂宮川が下を流れていますが、 当時は久慈川の河口(港)を見下ろす場所でした 海から船でやってくる人々や、 川を使って内陸へ向かう人々、 陸路を行き交う人々 から、よく見える場所に築かれました。 ここは関東北部の、水陸交通の要衝の地でした。 |
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一辺が 60mの「方墳」は迫力があります。同じ墳長 60mの「前方後円墳」の比ではありません。
方墳の方が、圧倒的な迫力があります。
2.巨大な方墳が許された事情には、大甕神社の存在があります。
古墳時代は、前方後円墳→ 前方後方墳→ 円墳→ 方墳 というヒエラルキーがありました。
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地祇(国つ神)の首長墓は、円墳か方墳になります。 方墳の首長は、天孫族から最も遠い立場に居ることになります。 王権に抵抗した、または服属した時期が遅い、などの立ち位置によります。 方墳の標準の大きさは、15m〜 30mです。 |
茨城大学の田中教授は、 「地方では稀な大型方墳の存在が中央政権との強い繋がりを示しています。 中央に集中する大型方墳の形式や葬祭法が共有されていたことから、被葬者はヤマト王権と結びつき、 地域の交通や物資輸送を担った実務型の有力者とみられています。」 と語ってます。 |
ヤマト政権は、水陸交通のネットワークを形成するため、要衝を支配する首長と(互恵的な)協力関係を結んでいました
しかしながら、このような「特別な大型方墳」を許されたのは、被葬者が「星の神」を祀る民の長という、特別な理由の故と推察します。
・最も身分が低いが、朝廷が注目する特別な出自ー 朝廷に抗った まつろわぬ「星の神」カガセオを祀る辺境の民だったからです。
・最強の武人といわれたフツヌシとタケミカヅチでも平定出来なかった「星の神」は、朝廷内でも畏敬をもたれた存在だったのです。
■結論
巨大な方墳を許されたのは、(日本書紀の「国譲り」に記されるような)、特別な伝承を有する豪族の墓だからです。
「舟戸山古墳」は、「大甕神社」の伝承を基に築造された古墳で、両者は一体の存在です。
「舟戸山古墳」は、地主神となった「星の神」カガセオを祀る豪族の墓なのです。
⇒ 大和朝廷がこの「巨大方墳」を築造したのは、この伝承の持つ力を利用して、朝廷の力を辺境で誇示する思惑からでしょう。
この地の豪族は、臣従の証として、朝廷から工人を派遣してもらって、この古墳を築いたのです。
3.特別な時代背景です。
この350年〜400年は特別な時代で、天下分け目の合戦「忍熊王の乱」(366年)で勝利して
天皇に即位した応神天皇の時代です。
維新の雰囲気の時代で、巨大な墓が造営されました。
370年頃
@巨大な前方後方墳・西山古墳(183m)が、物部首長墓として天理に造営される
A巨大な円墳・富雄丸山古墳(109m)が、奈良・富雄川流域に築造される。
B巨大な方墳・舟戸山古墳(60m)が、ヤマト政権の辺境の地に築造される。
4.伝承の推移について推測しました。
@縄文時代
この地に住み着いた縄文人は、この地で「星の神」を祀り、栄えました。
「星の神」香香背男(カガセオ)の登場
A神武天皇の時代
房総半島先端の安房に四国から移住してきた忌部氏が、海を北上して久慈川河口に至り、織物の技術などを当地にもたらしました。(注1)
「織物の神」武葉槌命(タケハヅチ」の伝承が追加。
B景行天皇の時代
ヤマトタケルの奥州征伐に際し、ヤマトに服従し、伝承を、カガセオがタケハヅチに服従した、と地主神に格下げて2神を祀った。
C応神天皇の時代
「星の神」を祭る一族は繁栄し、350年〜400年のあいだに、朝廷から派遣された工人の指導により「舟戸山古墳」が築造されます。
注1:静神社(那珂市)
久慈川河口に到着して、機織りをもたらした忌部一族は、その後、久慈川河口から上流に移って定着しました。
織物の歴史が始まった静織(しどり)の里(常陸国風土記)。平安時代には、機織り集団「倭文部」(しどりべ)が暮らした土地 ー 倭文郷(しどりごう)。
両者は同じで、その場所は、JR水郡線の 瓜連駅〜静駅の間になります。
その地で彼らが信仰していた社は、「静神社」(常陸国の二宮)になりました。静神社の主祭神は、
建葉槌命(タケハヅチのみこと)です。
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最後に。
大甕神社や舟戸山古墳を見に行くのは、名物のアンコウ鍋の季節、と、日立のSさんと約束しました。
楽しみです。
【資料】
茨城大学 「測量によって浮かび上がった本来の形と中央とのつながり」 https://www.ibaraki.ac.jp/news/n/2026/08/20015001.html
【参考】
@舟戸山古墳のドローン・ムービー: https://www.youtube.com/watch?v=T7d7DvL9E3w
A「古事記と野鳥」3.国譲り神話に鳥が沢山登場 の末尾 http://plaza.harmonix.ne.jp/~udagawa/kojiki.htm#kiji
B私の歴史年表: http://plaza.harmonix.ne.jp/~udagawa/nenpyou.htm
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| 2026年9月5日 | 宇田川 東 |