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2025年 3月5日 |
神武東遷とは (「古代史の復元」)
・日向に在った倭奴国(倭の国)は、大和に在ったニギハヤヒのヤマト国と合併することになります。 この計画は、縄文人の飛騨王国の主導のもとに、出雲、日向、大和の縄文人の間で決められ、全国の縄文人はそれを知らされました。 そして、神武一行は日向から出発します。 ・日向を出た狭野命が大和に入り、ニギハヤヒの孫娘(神の子)に婿入りして神武天皇として即位する大合併計画です。 ・近畿の縄文人は、賛成する者、反対する者もおり、一行は支援や敵対を受けます。 難破してボートピープルのようになった一行を、現地の豪族が何故助けたかは、一行が来るのを事前に知っていたからです。 ・東遷の結果、倭国に初めて神武天皇を盟主とする統一政権が誕生します 。(九州と近畿〜東北まで) この「神武東遷 大和侵入ルート」は、「古代史の復元」で推察されたルートを地図上に落としたものです。 他説もあるでしょうが、私は現地を実際に歩いて考察したこのルートが一番と思っています。 原典は「神武天皇大和進入」 https://mb1527.thick.jp/N3-15-2tousen.html です。 |
神武東遷(1/3) 熊野越えと 高倉下(タカクラジ)
(1)熊野越えまでのコースの概要
■神武天皇一行は、九州の日向から瀬戸内海経由で大阪湾に到着し、生駒山地を越えでヤマトに入ろうとしますが、
孔舎衛坂(下図の上の緑色タグ)で長髄彦に阻まれ、この時 長兄でリーダーの五瀬命が負傷します。
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■そこで、生駒越えを諦め、紀伊半島を迂回して東の伊勢からヤマトに入ろうと計画します。
東遷団のリーダーは、神武天皇ではなく、長兄の五瀬命です。
当時の末弟相続の習慣で、五瀬命は、末弟(4番目)の佐野命をニギハヤヒの国に「入り婿」させるために、東遷団を編成し、率いてました。
負傷し助からないとわかり、泉南市男里の男神社の摂社・浜宮の地で ”報いずして死なむや、と、雄たけび” して亡くなったとあります。
一行は、五瀬命をこの地で埋葬せずに、和歌山市の竈山神社の地(北側に五瀬命御陵が存在)で埋葬しています。
この地での埋葬について「古代史の復元」は、墓守を任せられる人物が男里にはおらず、紀伊国の名草一族の天道根命を頼った。と考えています。
この地は名草戸畔の支配地(薄い水色円)です。ここで、名草一族間の、天道根命の賛成派と、名草戸畔の反対派の争いに巻き込まれます。
そう考えるのは、名草一族からはヤマト朝廷のメンバーが出ているからです。
神武軍は、名草戸畔を殺して、頭を宇賀部神社、胴を杉尾神社、足を千種神社に葬ったと伝わっていますが、単なる虐殺ではないように感じます。
■更に、何故 神武軍は名草の地から、紀の川を遡って大和に入らなかったかが、不思議です。
この時期、すでに大きな非友好的な部族が紀の川筋にいて、遡って行けなかったのでしょう。
その地は現在の「打田」あたりで、図の黒い影円の地域です。古代では那賀郡といわれ紀伊国の中心であり、古くは「奈我」と表記されてます。
ここには創建年代不明の「海神社」があり、祭神は 豊玉彦命で、九州の影響が感じられます。
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■その後一行は、田辺〜周参見〜潮岬の難所を過ぎ〜太地〜那智勝浦を過ぎ、熊野の新宮はそのまま素通りして伊勢に向かいます。
■その途中、仁木島沖で大嵐に襲われ、船団は難破します。
神武天皇は二木島に打ち上げられて無事でしたが、次兄の稲飯命と三兄の三毛入野命はここで亡くなります。
神武天皇は4兄弟の内3人をこの東遷で失います。
■船団は壊滅し、助かったのは少数に過ぎなく、同行者の大半を失った天皇は東へ行くことは無理と判断し、新宮に引き返します。
先遣の偵察船は大嵐に会わずに無事で、九州・速吸門から参加した椎根津彦が率いていたと考えられます。
「古代史の復元」は、九州から神武天皇に従ってきた人員の大半は二木島の嵐で失われており、新宮の高倉下が加勢者を集めてくれたと推定しており、
それでも総勢100人を越える程度で、最大でも数百人が限度であろう。と記しています。
また、熊野の大熊の登場については、独自の見解を記しています。更に、何故 高倉下は布都御魂剣を有していたか、についてもユニークな見解を述べています。
(2)熊野越え
2月6日は熊野・新宮「神倉神社」の火まつり「御燈祭」の日です。
神倉神社は、神武東遷を助けた高倉下(タカクラジ)が祭神で、後の景行天皇の時代に熊野速玉大社に移ったので、この地を「新宮」と呼ぶようになりました。
古事記には次のように記されています。
紀州に上陸したカムヤマトイワレヒコやその軍勢は、熊野の山中で、熊の毒気にあたって皆気を失った。 この時、高倉下(タカクラジ)という男が、一振りの剣を献上したら、眠っていたイワレヒコは目覚め、 剣を受け取ると熊野の荒ぶる神たちは切り倒された。 タカクラジが言うには、「夢の中にアマテラスとタカギが出てきて、(国譲りをオオクニヌシに迫った)タケミカヅチに、 ”葦原の中つ国が騒々しいようだ。私の子供たちも病を得て難儀してるようだから、降りて行ってなんとかしろ”。 というと、タケミカヅチは、”私が降りなくとも、この剣を降ろせば済む” と、タカクラジの倉の屋根に穴をあけて剣を落とした。」と。 目覚めると、その剣(布都御魂剣)があったので持参しました、と語った。 そして、タカギが カムヤマトイワレヒコに 諭して言うには 「天つ神の子らよ、この先には荒ぶる神が うじゃうじゃ居るので行ってはいけない。 天から八咫烏(大きなカラス)を送るから、八咫烏が導く通り その後を追って進みなさい」 と。 言われた通り、八咫烏の後を追っていくと、吉野川の河口に至った。 |
■神倉神社の「御燈祭」は、神武天皇を高倉下が松明を持って案内したことに由来する、との故事があります。
■熊野速玉大社の例大祭(10月)の締めの神事「御船祭」は、熊野川で9隻の早船が上流の御船島を3周する競漕です。
神武天皇一行が、船で熊野川の上流へ旅立ったことに由来する神事と考えられます。
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神武天皇は、熊野越えを終え、吉野川・宮滝の地で体制を立て直し、オトウカシ(弟宇迦斯)などの有力豪族の協力を得ます。
そして宇陀へ入り、高倉山に本陣を置き、ヤソタケル(八十梟師)とエシキ(兄師木)の連合軍を破って、大和入りを果たします。
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<経緯>
古事記では、熊野越えの最後に、阿陀の鵜養の祖「贄持(にえもち)の子」と、吉野首等らの祖「井冰鹿(いひか)」と、
吉野の国巣の祖「石押分(いわおしわけ)の子」が協力者として登場し、その特異な出現の仕方が目を引きます。 (参考1)
@神武天皇は宮滝に仮宮を作り、吉野川流域の豪族の協力を求めて、石穂押分の案内で高倉下、八咫烏などを各地に派遣します。
・八咫烏は、石穂押分に導かれ吉野川を遡り、高見川流域一帯の豪族を恭順させます。
・高倉下は、宮滝から吉野川を下って河原屋に至り、津風呂川沿いに川を遡り山口を経て三茶屋に達し、
ここでオトウカシ(弟宇迦斯)に会い、協力を得ます。これで宇陀市南部地域の豪族は悉く恭順します。
・高倉下は、オトウカシの協力で更に進み、エウカシ(兄宇迦斯)に協力を要請します。(更に宮奥の剣根命を恭順させました。)
・エウカシは、神武天皇を罠にかけるための仕掛けを新殿に造り、恭順を申し出ます。
天皇は、道臣命(大友の祖)と大久米に罠の真偽を確かめさせ、道臣命は罠を知ってエウカシ自身をこの罠に押し込んで殺します。
エウカシの本拠地は宇賀志の宇賀神社の地で、彼の支配地域の豪族たちは恭順しました。
・私は、久米一族はこの時に馳せ参じたと考えます。
彼らは南九州の「阿多隼人」で、神武東遷に先立って移住し、既に吉野川中流域に住んでいました。
当初から東遷団に加わっていた隼人族は仁木島沖での難破により、その大半を失っていたでしょう。
Aこの間にエシキ(兄師木)を中心とする反対派豪族たちは、宇陀と桜井の境に防衛線を張っていました。
そして、その最前線に磯城のヤソタケル(八十梟師)が出陣して来ました。
B南宇陀で八十梟師軍と神武天皇軍との戦闘が始まる前に、宇陀の朝原で戦勝の祈祷が行われました。
その記述が日本書紀に記されています。
『また兄磯城の軍が磐余邑にあふれていた。敵の拠点はみな要害の地にあり、道は絶え塞がれていて通るべき処がなかった。 ...その夜は神に祈って眠った。すると高皇産霊尊が夢に現れて言った。 「天香具山の社の中の土で天平瓦を八十枚作りなさい。あわせて御神酒を入れる器を作り天神地祗を祀り敬いなさい。また厳呪詛をしなさい。 そうすれば敵は自ら降伏し従うでしょう。」 夢のお告げを実行するため、天皇は椎津根彦、弟猾 を天香具山へ派遣します。 椎津根彦は卑しい衣服と蓑笠をつけ老人に化け、弟猾には箕を着せて老婆に化けて出発しました。 敵軍が道を覆つていて通る事は難しかったが、「なんて汚い翁と媼だ。」とあざけり笑い、二人に道を開けました。 そして無事に山から土を持って帰ることが出来て、戦勝の祈祷が行われ、戦意が高揚します。ー略ー 』 |
※地図で「高倉山」==「天の香久山」の経路をみると、確かに敵軍に阻まれている事がわかります。
C神武天皇軍は、人数では敵より劣勢でしたが、ヤソタケルとエシキを個別撃破し、勝利を収めます。そして大和に侵入することが出来ます。
このあたりの時系列的な戦闘の推移は、(古代史の復元:神武天皇大和進入)で詳しく考察されています。
D大和侵入への反対派と賛成派
・反対派は桜井市外山を本拠とする兄磯城。賛成派は三輪に拠点を置く弟磯城。
弟磯城は事代主の子と思われ、三輪氏の祖である天日方奇日方命となる。その妹と神武天皇は合併の政略結婚の予定である。
兄磯城は、自分の娘が結婚相手に選ばれなかったのを理由に合併に反対しているものと推察する。
・饒速日尊の死後、その後継者争いが頻発してたことが見て取れる。
(兄磯城、弟磯城は個人名ではなく、賛成派、反対派の表現かもしれません。)
(参考1)
@井比鹿の地の訪問記 (Kanji Miyahara氏) https://youtu.be/awPNO9fE5nk
A吉野の国巣の祖「石押分の子」の地の訪問記 (Kanji Miyahara氏) https://youtu.be/yd67sh4lx80
神武東遷(3/3) 神武天皇の即位
ヤマトに入った神武天皇は、いよいよ宿敵ナガスネヒコ(長脛彦)と戦うことになります。
周知の話なので、(私が住んでいた)長脛彦の地元の富雄での金鵄伝説を記します。
『イワレヒコ(後の神武天皇)は九州の日向を出発し、現在の東大阪付近に上陸し長脛彦の軍勢と戦うも内陸への進行を阻止される。 ・・・略・・・ 紀伊半島に沿って南下し、熊野村(和歌山県新宮市)付近で上陸し大和に向かう。 タカミムスビの命令で遣わされた八咫烏の案内で、熊野から大和の宇陀に至る。 長脛彦はイワレヒコの元に使いを送り、自らが祀る饒速日命は昔、天磐船に乗って天降ったのであり、天津神が二人もいるのはおかしい、 あなたは偽物だと指摘。イワレヒコと長脛彦は共に天津神の御子の印を見せ合い、どちらも本物とわかっが、戦いを止めなかった。 戦いの最中、金色の鵄(トビ)がイワレヒコの弓の先にとまり、黄金に輝き、長脛彦の軍は眩惑されて戦闘不能になった。 その後、大和の豪族を服従させ、イワレヒコは畝傍(橿原)の地で即位し、初代天皇・神武天皇となられた。』 |
神武軍と長脛彦軍との大会戦が行われ、神武軍が、長脛彦軍を撃破した、とは記されていません。
むしろ不利な状況下で、金鵄の出現により長脛彦軍が戦闘意欲を無くした、と記されています。
私や「古代史の復元」は、金鵄は、饒速日尊と(長脛彦の妹の)御炊屋姫との間に生まれた長男ウマシマジと考えています。
ニギハヤヒの息子が、伯父の長髄彦の説得に現れ、神武天皇に恭順したので、一族は戦意を無くしたのでしょう。
長脛彦は、ニギハヤヒを崇敬していました。
※逆賊として伝えられた長脛彦ですが、地元・富雄では郷土を守った英雄として、添御県坐神社で秘かに祭られ続けています。
(添御県坐神社の宮司さんが語る長髄彦伝承の Youtubeです。)
AD83年1月1日、反対勢力の掃討も終わり、磐余彦は事代主の娘・媛蹈鞴五十鈴姫命との結婚式を盛大にあげます。
(古事記では、イワレヒコは、神の子といわれるイスケヨリヒメを訪ねます。)
二人の結婚で、日向の倭の国と 饒速日の大和の国の大合併が成立し、新生倭国が誕生しました。
■磐余彦は大和朝廷 初代神武天皇として即位しました。その場所は御所市柏原の「神武天皇社」の地です。
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■即位後、近くの「腋上(わきがみ)の頬間(ほほ間)の丘」で国見をして言います、
『なんと素晴らしい国を得たものだ。狭い国ではあるが、蜻蛉(あきつ)がとなめ(後尾)しているように山々が連なり囲んでいる。』
この地は御所市柏原の「須賀神社」の地です。
■神武天皇の「畝傍の宮」址は、「橿原神宮」の地と伝えられています。
神武天皇は即位後、日本中を巡回し、大和朝廷成立への協力を感謝して廻っています。
即位後すぐに、縄文の飛騨王国へ合併の報告に行き、(私の想像では)日向の倭の国の2枚目の神宝「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」と、
饒速日の大和の国の神宝「玉」を献上しています。「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」は日田と飛騨で同じものが出土してます。
■神武天皇はAD121年 橿原神宮の地で生涯を終え、畝傍山の麓の「神武天皇陵」に葬られました。現年齢計算で63歳の生涯でした。
■神武天皇皇后・媛蹈鞴五十鈴姫命の御陵は、(桜田和之氏によると、)畝傍地区の「花園神社」と推定されています。
神話の主たちの系図 (「古代史の復元」から)
(饒速日尊)
大物主神━━事代主命━┓┏奇日方天日方━━━飯肩巣見━━建甕尻━━豊御気主━建飯賀田須━━━大田田根子
┣┫(神の子)
賀茂健角身命━━活玉依姫━┛┗媛蹈鞴五十鈴媛┓
┣━神八井耳━・・
日向津姫┓ ┣━綏靖天皇━・・孝元天皇━開化天皇━崇神天皇━垂仁天皇━景行天皇━X━X━応神天皇━仁徳天皇━
┣━茅草葺不合尊━神武天皇━━┛
高皇産霊神┛
(大山祇命)
※活玉依姫(いくたまよりひめ)=勢夜陀多良媛(せやだたらひめ) その娘の 媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)=伊須気依媛(いすけよりひめ)
事代主命=玉櫛彦命 奇日方天日方=賀茂別雷命 賀茂健角身命(八咫烏)=陶津耳命=三島溝杭耳命 と考える
【 後 記 】 伝承地を辿っていて判明したのは、「神武東征」ではなく、「神武東遷」でした。 強力な武力で豪族たちを征服・支配していった行程とは全く異なります。ヤマト朝廷は征服朝廷ではありませんでした。 神武天皇は、各地の豪族たちの協力を得て、彼らの盟主として天皇に即位しました。 だからこそ、天皇位をみなが大切に支えていったのでしょう。 独裁者では無く、やっと成立した初の連合国家の盟主として。 また、「古代史の復元」が、いつもながら各地の伝承地を丁寧に巡っているのに驚きました。 神武東遷ーそれはまた 壮大な婿入り物語 でもありました。 |
本稿は、facebook「古代史研究会」に投稿(2025年2月)したものを纏めました。
(参考) 私の歴史年表
古代史の復元
神武天皇の東遷コース(九州部分の概略が末尾に記されてます)
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