「琉球国王のルーツをさぐる」(2) − その後の感想・考察など − 

   「琉球国王のルーツをさぐる」を終えましたが、その後もツイッターでしばらく感じたことを呟いてました。
  そのツイートをまとめ、また「新事実」なども見つかり、加筆もしてみました。


 ⇒ 第一尚氏王統の滅亡(メモ) へ飛

 ⇒ 人骨のDNA分析で「西ヨーロッパ・中央アジア 由来」(南部・玉城「神座原古墓群」) へ飛ぶ




2022年1月11日

折口信夫が、佐銘川は寒川が変じた、と気付かなかったのは、当時は姓名ビッグデータが無かったからにすぎない。
従って、伊平屋島にさめかわの痕跡が無いので、渡嘉敷島の「さめか嶽」の神名と判断し、大和の根拠は薄いとした。
肥後佐敷に求めてればと残念だが、当時(『琉球国王の出自』昭和12年)は、まだ大字辞典・地名辞書の時代で限界があった。


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折口信夫は、与那原、友盛御嶽いべの条に附載した、たじよく魚のところで出て来る「さめがというは人の名なり。」について論考している。

(折口信夫全集 第16巻 中央公論社 P40)
『佐銘川・鮫川など書くと、如何にも現実にありそうな泉地の名と言う風に感じられるが、
佐敷尚氏或は、孫姓平田等の太祖の名が、どうしてそう称して居たのかは明らかでない。
地名・泉名だとすれば、歴史的に考えれば、当然伊平屋島伊是名に求めるのが至当らしいが、此れは望みが無い』

(同上 P52)
『大和と琉球との間に、共通の而も、日本出らしいものが見られる。或は”さめ川”の名の如きも、そうらしい気がせぬではないが、
此は尚、慶良間群島の中にある”さめか御嶽”の名で、大和要素の根拠は薄くなってくる。』

(同上 P53)
『苗代大親の父なる「鮫川大主」の名は、私の考えでは、”さめか嶽”の神名なのではないかと思われる。』


論考の末に慶良間諸島の「さめか御嶽」の神名と判じ、大和の根拠は薄い、と考えてしまった。
当時は「鮫川大主」の大和名を探るのは無理だった。
推定した大和名をチェックしようにも、ウェブ上の「姓名ビッグデータ」が無いからだ。


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2022年1月8日

尚巴志が沖縄島の倭寇船団の棟梁になったのは、大里按司を滅ぼし、その座を奪ったからと推察してる。
倭寇仲間30余の按司たちと共謀して大里按司を滅ぼし、その後すぐに皆で中山王を襲い滅ぼしている。
巴志にとって大里按司は頭の上の重しだった。
彼を滅ぼしてから急に好戦的になり、三山征服に乗り出している。


尚巴志たちが北山征服に乗り出した動機は何だろう。
両山は地理的に離れており、十分平和共存が可能なのにそうで無く、滅ぼして 一島支配に乗り出すには、奪うものがあったからで、
それは最大の貿易品・硫黄の利権だろう。
北山王(今帰仁按司)は、琉球唯一の産地・硫黄鳥島を保有していた。
それを購入するより 自らのものにする、が北山征服の野望だったのかもしれない。

尚巴志は北山を滅ぼしてから、約12トンもの大量の硫黄を明に献上している。
産地・硫黄鳥島が中山王の直轄地になったことが窺われる。
この朝貢に対して、数倍の価値の返礼品が下賜されたはずで、硫黄は計り知れない利益を生み出している。


琉球史での最大の疑問は北山の扱いだ。
勝者が編纂した正史「中山世鑑」には、北山王は勇猛果敢だが思慮が足らず、臣下から裏切られる存在に記されている。
ところが「おもろさうし」では真逆で、豊かに富み栄えた土地で、人々は酒を酌み交わして笑いさざめき、
今帰仁按司は霊性と豊かさで最大級で賛美されており、両者の落差に驚く。 (『おもろさうしと群雄の世紀』今帰仁按司 )

大和〜琉球〜福建の交易路の、大和からのゲートウェイは天然の良港・運天港。
硫黄を有し、交易港・運天港を有し、対明・対大和の中継貿易の要地として繁栄した北山が「おもろそうし」には描かれている。


     運天港      運天港  2000.05.04撮影



2022年1月10日

北山との戦を、『中山世鑑』から見る。

1416年
3月11日 中山軍は首里を出発(大将:浦添按司・越来按司・讀谷山按司、2000余騎)
3月12日 名護に到着し二手に別れ 北山王の今帰仁城へ向かう。
    大手:浦添按司・國頭按司・羽地按司 2700余騎
    搦手:越来按司・讀谷山按司 800余騎(名護按司の案内で山路経由で)
    他に大船24艘

    城に籠って迎え撃つ北山軍は、300余騎 『一騎當千兵猶三百餘騎有』

3月13日 3000余騎で総攻撃開始。攻撃は失敗。「百曲り」と呼ばれた曲折した城壁を誇る今帰仁城は落ちず。
3月14日 同上
3月15日 同上 3日にわたる攻撃にも城は落ちず。

『城中ノ兵二百餘人討レケレハ 寄手ハ五百餘人討レニケリ』と分が悪い。
 但し、兵数に大差があり、最後は『敵モ 矢種ヲ射尽ケルニヤ 大刀長刀ノ鋒ヲ並テソ 懸出ケル』と。

3月16日 この日も早朝から攻撃するも撃退され、
    城を良く知る(裏切り)羽地按司の指図で、配下の精兵20名を急峻な南西方面から忍び込ませ、城に火をつけた。
    それに合わせて、大手・搦手から3000余騎で総攻撃。
    覚悟した北山王は、『兄弟一族只十七騎 三千餘ノ真中ニ懸入リ 面モ不振火ヲ散シテソモメ合ケル』。
    そして 最後に北山王は自害して 戦は終わる。



百曲りと呼ばれた曲折した城壁



最新の今帰仁城の動画 (2022年2月 沖縄タイムス)
 修復中の背後の城壁〜正面の百曲り、正門(平郎門)




最期の今帰仁城主・攀安知(はんあんち)の気分になって。


背後の海は、交易船が行き来した海。




2013.12.20撮影
ボランティアガイドさんのお勧めで撮って頂いた。



この激戦の勝利を、正史『中山世鑑』はこう結んでいる。
『偏ヘニ中山王ノ徳天理ニカナヒ御座ケルニ依テ 天ヨリ與ヘ給ヘヌラントソ人々申令レケル サテコソ琉球國又一統シテ目出度御代ニハ成リテケル』
今帰仁は『おもろさうし』では『みやきせん』と表記されている。


2022年1月11日

今帰仁に「仲原馬場」がある。
昔、運天港から、今帰仁村役場を経て 今帰仁城への505号を走ってたら、大木の松並木があり、昔の馬場跡とで驚いた。
その当時は 本島に馬が居た事は想像外で、ましてや立派な馬場がこの辺境の地にあるとはウソだろう、と思った。
仲原馬場 幅30m、長さ250mの馬場周囲に、高さ1mの壇を石積みで築く 県指定史跡



広報なきじん によると昔は今泊や天底にも馬場があったと。
『坑球諸島航海日誌』(1614〜15年)に沖縄の競馬が記されてるが、それ以上は文字資料の少ない沖縄では遡れない。
馬場を造るのは普通の事では無いので、仲原馬場は北山王の今帰仁城時代まで遡れると考えている。




この当時、八重山諸島では ..


2022年1月26日

NHKTV ブラタモリ 石垣島 を見た。
何故 隆起サンゴ礁の石垣島にだけ広大な水田があるのかが分かった。
サンゴ礁段丘は初耳だった。礁嶺、礁原、礁池(Moat)、礁湖(ラグーン)など ふむふむと頷いた。


最後に、海を臨む段丘上に、周囲を石垣で高く囲った居住エリアの遺跡が出て来た。

フルスト原遺跡

『眼下に宮良湾を望む標高25m前後の石灰岩丘陵上にあります。
指定面積は、12.3ha。
敷地内には、屋敷囲いの石垣や、古墓、御嶽などがあります。』

外敵から村を守るためで、600年程前の集落跡と。
600年前は、海からの侵略の危険がある乱世だったようだ。

今から600年程前は、西暦1422年前後頃になり、尚巴志が北山を襲った(1416年)頃になる。
海賊からの略奪を防ぐ為の防壁なのだろうか、それともこの集落自体が海賊集落で、略奪品を守るために防壁をつくったのか?
琉球列島は戦国乱世で、倭寇が猖獗をきわめた時代だ。


2022年1月30日

HKTV ブラタモリ 竹富島 を見た。
チャート岩を核として琉球石灰岩でできた島の視点は新鮮だった。
竹富島の核となる ムーヤマ(六山)の伝承が紹介された。

今も島には6つの御嶽があり、
島民はそれぞれの御嶽の氏子となっている。

ここでも約600年前に集落が作られ、やって来た先は 屋久島〜徳之島〜久米島〜本島 の島伝いの人々と。
西暦1422年頃の琉球列島は、倭寇活動が活発で、移住者も多かった時代のようだ。


竹富島の最初の集落は新里村遺跡で、伝承が残っている。


『他金(たかね)殿は はじめは島の北端に新里村を建て 井戸を掘って居住していた』
6人のうち最初に島に来た人物は、竹富島の地元名称「タキドゥン」の語源となった「他金殿」だった。

「他金」姓は、ビッグデータで調べると、「他金」は存在せず、「高嶺」姓の可能性が高い。
竹富島、久米島、本島に見られる姓だ。





2022年2月15日

 第一尚氏の成功は、三代にわたって傑出した人物が輩出したことにある。
 ・始祖の佐銘川大主は、肥後佐敷〜伊平屋島〜島尻佐敷と渡琉を実現し、一族の基礎を築いた。
 ・二代目の尚思紹は、根拠地・佐敷の地を栄えさせ、富国強兵に努めた。
 ・三代目の尚巴志は、按司たちの信望を集め、琉球三山の統一を果たした。

始祖の佐銘川大主こと、寒川某は 統率力のある優れた指導者だった。
船規模は不明だが、20丁櫓あたりの船 1〜2隻で、数10名の仲間を引き連れ、800`程の海を渡って、伊平屋島、島尻佐敷に根拠地を築いた。
彼には右腕となる 信頼する副官が居たに相違ないが、その名は伝わっていない


ところが、手掛かりがあった。またしても折口信夫で、
『佐銘川・鮫川など..佐敷尚氏或は、孫姓平田等の太祖の名が、どうしてそう称して居たのかは明らかでない。』、と。

孫姓平田は、居住地の字名に由来する姓と思っていたが、肥後佐敷から一緒に来た仲間の大和名では? と、ヒラメイた。
名字由来net」で平田姓を検索すると、葦北郡芦北町の佐敷と湯浦に見られた。
寒川と平田は同じ村(佐敷郊外・湯浦)出身で、平田氏は寒川氏と共に渡琉の計画を練った同志だった。(平田氏は寒川氏の一族かもしれない)

頭領・寒川某が信頼する副官名は平田某で、苦難を共にし成功に寄与した為、孫姓がその(補佐役の姓)平田と称された、と推理する。
折口信夫の時代ではわからなかった、佐敷尚氏と孫姓平田氏の太祖の名の由来は ここに明らかになった。




2022年2月18日

寒川党が新天地を求めて、肥後佐敷から渡琉したのは、時代の空気だったのだろう。
海の民にとって、移住自体は珍しい事ではない。私が訪れた2か所もそうだった。
@高知県大月町竜ケ迫の海辺の段々畑集落は、伊予方面からやって来た人たちが住み着いて出来た集落だった。
A愛媛県愛南町外泊の海辺集落は、幕末に隣の中泊集落の指導者の発案で、次男三男が開拓し分家移住した処だった。 県指定:「文化の里」石垣の里 外泊

時代の空気で、夢と希望を抱いて多くの移住が発生したのは、ハワイ移住、南米移住、満蒙開拓、などで周知の事。
中には琉球国王のように、漫画「冒険ダン吉」のモデルとなった(島の酋長の娘と結婚し)南洋諸島の大酋長を務めた伝説的人物・森小弁も出てきている。
中国福建との間の南島路が活発になり、琉球という新天地が身近になったこの時期も同様だった。

時は南北朝の動乱期。
後に太祖となった寒川と平田は、肥後佐敷の地侍の次男三男(漁師・農民の次男三男も?)を糾合し、遥かな新天地へ旅立った。
本島から更に400〜500`遠方の石垣島・竹富島の入植例にあるよう、それはこの時代の空気だったのだろう。
肥後からは、寒川、平田の他に、望月、大里、立花、矢倉など 多くの武士たちが琉球に渡って行った。
寒川党が他と違うのは、三代で 琉球を支配し、初代の琉球国王となったことだ。





2022年2月23日

沖縄の名城を歩く 上里隆史・山本正昭 2019.3.1 吉川弘文館」で、寒川党が築城した 伊平屋島・田名グスク、島尻・佐敷上グスクの頁を開いた。
前者は、尾根など地形を利用した特異なグスク、後者は、土で築かれた琉球では例外的グスク と記されていた。
一般的な琉球のグスクは、眺望の良い丘陵の上に、琉球石灰岩の切石による高い城壁を巡らせたのが普通なので、両グスクは大和風なのだろう。

尚巴志が滅ぼした大里按司の「島添大里グスク」。

丘陵上の典型的なグスクだ。



佐敷上グスクは、台地から海岸へ下る斜面中腹(標高約10mから50m前後)の、舌状に突き出た丘陵端部に、
斜面を切り崩し4段の平場(郭)を造成した「土で築かれたグスク」で、大和の一般的な中世城郭の構造をしてる。

海に面した斜面には石を貼り付け(貼石状石列)土留めとしている。
この為、海を通る船上からは、丘陵の中腹を囲む石積城壁のように見えただろう。


この地は琉球石灰岩が産出しないため、土の城となった。



寒川党の築城ノウハウの源は 肥後芦北の佐敷城なので、それはどんな城か調べた。(熊本県の中世城跡.pdf p273)
(現在の佐敷城跡は近世・加藤清正の築城で、中世の城は「佐敷東の城」。)


佐敷東の城」は標高161m(下の集落から約155m)の山城。
長い尾根上の約50m間隔の3つの小山の頂上部を切り崩して、下から 本丸、二の丸、三の丸にしていた。尾根に大きな堀切がある。


田名グスク(標高180m)はこの山城に似てるし、佐敷上グスクの郭の造成も似ており、両グスクは寒川党の築城、と考えても違和感は感じられない。
むしろ、田名グスク・佐敷上グスクは寒川党により築城された、まだ大和の影響が強く残ってるグスク、と云えよう。

渡琉時期の推定により、田名グスクは1340年〜1350年頃、佐敷上グスクは1350年〜1370年頃と、三山時代で唯一「築城時期」が特定出来るグスクだ。
第一尚氏の居城は、伊平屋島・田名グスク 〜 佐敷上グスク 〜 島添大里グスク 〜 (浦襲グスク) 〜 首里城 と推移した。



2022年4月1日

2022年2月18日の朝日新聞に、
グスク時代、本土から沖縄に 人の活発な移動があったと見られる。』という記事が掲載された。

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要旨は
・グスク時代(11〜15世紀)の人骨のほとんどに、本土の中世(鎌倉〜室町)人と見られる人骨が出土している。
・今帰仁で発見されたグスク時代の26体の男女人骨のうち、男性は、大柄で屈強な体つきで、これまで発見された沖縄のどの時代の人骨とも違っていた。

⇒「琉球国王のルーツをさぐる」で展開してきた 本土からの渡琉武士の仮説が、人類学から 裏付けられた。


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琉球国王のルーツ探しは中国文献では無理。人を捜すには それにふさわしいツールがある。
今回は、ハードボイルド探偵が、わずかな手がかりから人探しを依頼された時に用いる、人名データベースからの探索だった。
そして、第一尚氏の太祖は 大いなる眠り から醒めた。






2022年4月5日

変な話だが 夢の中で、”第一尚氏のルーツを辿ったのなら、その最後を記すことも必要だろう”、という声を聞いた。
そこで メモに纏めてみた。




 第一尚氏王統の滅亡(メモ)


 第一尚氏の最後は むごたらしい悲劇で終った。
 第二尚氏はそれをひた隠しにしたが、現地(知念半島の村々)ではまだ、第一尚氏の頃のほとぼりが感じられた。琉球王権の源流 谷川健一 2012




 第一尚氏王統は、尚思紹(1406年)から7代続いた後、クーデターにより 1469年に滅亡する。 7代63年間だった。

第6代 尚泰久(1454〜1460)
 ・護佐丸・阿麻和利の乱(1458)
 ・万国津梁の鐘を造り首里城正殿に懸ける(1458)


第7代 尚徳王(1461〜1469)
 ・国際的な中継港・マラッカ王国(マレーシア)に使者を派遣して交易を始めた。(1463)
 ・2千の兵を率いて奄美(喜界島)へ遠征し琉球王国の版図に加えた。(1466)



 第7代尚徳王の世に、臣下 金丸(55歳)が、主君 尚徳王(29歳)を毒殺し、王権を簒奪した。注1
 (謀反人 金丸は第8代尚円王と称し 第二尚氏王統の始祖となった。)

 ・尚徳王と共に、王妃と、7,8歳を越えた幼い長子 佐敷王子と乳母も殺害された。(注2
 ・尚徳王の姉の百十踏揚(
ももとふみあがり)と、弟の八幡加那志は 玉城村へ逃げ隠れた。
 ・王家の忠臣である百十踏揚の夫・鬼大城(越来賢雄)は金丸軍によって知花城で殺害された。(百十踏揚の最初の夫は阿麻和利)


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 歴代王の遺骨は首里の天山陵にあったが、クーデターによる焼き討ち(注3)に遭う前に、旧臣らによって持ち出され遠隔の地に隠された。
 ・尚巴志の遺骨は、忠臣(平田之子、屋比久之子)らにより読谷村伊良皆の佐敷森に(第3代尚忠、第4代尚志達と共に)隠され、今もそこに眠っている。
 ・尚徳王の父 尚泰久の遺骨は、伊波の乞食墓に隠され、第二尚氏の目から逃れていたが、明治41年に玉城村の当山に改葬された。
 ・尚徳王の遺骨は不明。那覇市識名に尚徳王御陵跡があるが、実際は不明。

・尚徳王の弟の八幡加那志の墓は玉城の當山にあり、今も子孫が墓を守り続けている。

・尚徳王の姉の百十踏揚の墓は玉城の富里にある。 
 遺品のカンザシが伝えられており、一族の祭りの際に今も拝まれている。

・尚徳王の遺臣が今帰仁に逃れ、今帰仁間切の下運天の「百按司(ももじゃな)」の墓は、
 その遺族の墓と伝えられている。(球陽巻2)


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 クーデター首謀者 金丸は、伊是名島の百姓の出で、妻と幼い弟(後の9代 尚宣威)を連れ首里に流れ来て、27歳で(6代)尚泰久の家人となり、
 その後取り立てられ「御物城御鎖側」に任じられた。これは交易で得た宝物庫の管理と、王府の交易業務を担当する「貿易長官」であった。
 職掌柄 久米村と最も親しく、彼らに擁立されたという解釈がある。
 私は、金丸の若い正室オギヤカ(宇喜也嘉、30歳年下、尚宣威を半年で退位させ13歳の我が子を10代尚真に立てた)の強い影響があると感じている。(注6

 謀反の原因は、畢竟 朝貢貿易がもたらす巨額の利益の配分への按司たちの不満と推察する。
 冊封王朝の交代は、手続きし宣言するものだが、李氏朝鮮と違って金丸がそれをしなかったのは「隠したい後ろめたさ」の為だろう。(注4
 酷いことに宝物や領地、首里城の他に、姓も家紋も乗っ取り 尚氏になりすまし、王統の簒奪は無かったと糊塗し、明に金丸「尚円」の継承を黙認された。

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 第一尚氏と第二尚氏の確執は根深く、明治の琉球処分(1879年)で第二尚王朝が無くなってからも、
 ・第二尚氏の子孫は、大正末年(首里城正殿を拝殿とする)沖縄神社(
県社)創立の際、自分の祖先を神と祀っても第一尚氏を合祀することを拒否した。(注5
 ・第一尚氏の子孫は、昭和13年(1938年 尚巴志王500年祭を機に)、佐敷上グスクに 一統をまつる「月しろの宮」を建立し、祭祀を続けている。



私は、半年前に「月しろの宮」を詣でた際は、まだこの経緯を知らず、
近年子孫によって建てられた新しい建物、とで関心は薄かった。

今は、謀反により滅亡し、(琉球処分までの410年間)長い間隠れて来た一族の悲劇と、
やっと父祖の地に還ってきた一族の祭祀場に、深い感慨を覚えている。


← 月しろの宮 (2021年10月12日撮影




 肥後から渡琉してその地位を切り開いた第一尚氏の太祖と、謀反によってその地位に就いた第二尚氏の太祖、 両者の格の違いには驚くばかりだ。




 第二尚氏の成立経緯は、沖縄のその後に大きな負の影響を及ぼし、現在にまで続いている。 それは無意識に染みついた過度の中国崇拝である。

 第一尚氏は「按司襲い」であった。実力で按司たちを支配していた。
 明の皇帝から琉球国王として冊封されたが、それは実力を認められ、倭寇活動を行うより朝貢貿易の方がはるかに利益が大きかった為であった。

 第二尚氏は「按司襲い」では無く、謀反によって「国王」を簒奪した。簒奪した権威を支えてくれるのは、中国皇帝の認可しか無い。
 この為、冊封による「中国の権威への依存心」が強まり、中国こそ権威の源泉・文化の源泉という、中国至上の考えが王国内に広まった。
 これが、第二尚氏の背負った(権威を中国に頼り、自立心が希薄な)負の遺産であり、現在の沖縄の知識人の間にも影響を与えている。

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 注1:中山世鑑では「29歳にて薨じ給ひける」とだけ記されている。 毒殺説は、富村真演「尚円王考」、村井章介「古琉球」。
  正史は「王、暴虐日に甚しく、金丸諌むれど聴かず」と。又金丸はクーデターを知らず、王位就任を固辞したが強い要請で推戴された、と記している。

 注2:クーデターは、国王が亡くなり、幼い王子を後継者に立てるため(首里城正殿前の御庭で)群臣を集めた場で挙行された。
  「中山世鑑 巻四」によると、 『その場に何処からか白髪の老人が進み出て、先王の尚徳は自暴自棄の者で...民を虐げた暴君であり...
  天が悪を善に転じよとの機会なれば、早く世子を殺して、徳のある金丸を立てるべき、と煽動した。群臣一同は頷き、その声は四方の山に響き渡った。
  世子は7,8〜10歳で 乳母に抱きかかえられて王妃と共に(城内の聖域「京の内」のなかの)真玉グスクに隠れた。
  武士たちはそれを追って、三人を絞殺し 棄てた。』 と記されている。

  →正史通りだとすると、当時の人々は『早く世子を殺せ』の扇動で、嬉々として人殺しを容認するような野蛮人になる。それも幼子殺しの。
  それとも 群臣の中に誰かに命令された者達が居て、扇動者に呼応して追跡し、聖域内で殺害した、と考えるべきか? 
  記述からは(いくら隠そうとしても)世子が人前に出て来る機会を狙っての、周到に仕組まれた殺人、という冷酷な意志を感じる。
  これは臣下・金丸によって仕組まれた、主君一族抹殺の謀反クーデターに間違いはない。(2022年12月13日)

 注3:天山陵の焼き討ちは、琉球王国を建国した尚一族の先祖を抹殺する、許しがたい非道な行為であった。
    天山陵は、第一尚氏の関係者と文化保護団体らによる、再三にわたる要請にもかかわらず、文化財には指定されず、私有地となっている。
    対照的に、(約500メートル離れた場所の)第二尚氏の陵墓・玉陵は世界遺産に指定されている。 (2022年4月5日)


注4:
王朝交代については、尚巴志が中山王武寧を攻め滅ぼして、父思紹は武寧の子、と明に詐称したが、これは三山時代の背景があってのこと。
朝貢貿易は北山、南山も認められ大型船も下賜されており、尚巴志が中山王統の継続を装わないと新規参入は困難で、利権が他山に移る可能性があったからだ。

統一王国成立後の金丸時代では、手続きさえすれば(他に対象が無いので)、新しい王朝の冊封が受けられた。高麗から李氏朝鮮への前例もある。
明が琉球に対して、王朝交代を理由に朝貢貿易を禁止することはあり得ない。倭寇時代へ逆行してしまうからだ。

正史が語るように、金丸はクーデターとは無関係で人々から是非王にと推戴されたから、と明に納得してもらい新王朝を開設すればよいだけ。
もっとも、「首謀者のいないクーデター」などは 古今東西 聞いた事がないが(笑) (2022.04.14)


注5:大正14年(1925年)に、首里城跡に、荒廃し解体予定だった正殿を大規模修理し、それを拝殿とした沖縄神社が造営された。
 祭神は第二尚氏の始祖金丸尚円王らで、正殿を創建し、琉球王国を建国した(第一尚氏の)始祖尚巴志は祀られていない。何故か異様に感じられる。
 
注6:オギヤカには謎が多い。20歳のとき50歳の金丸に嫁いだが、(王妃・側室は通常出自が伝わっているが)誰の娘か不明である。
 私は金丸に嫁いだ時期から考えて、御物城御鎖側役(貿易長官)であった金丸に、久米村から提供された中国人娘だったのではないかと勘ぐっている。
 久米村は金丸を支援するので、手を組んで将来に当たろう、という証かもしれない。

 (神人)渡久地十美子著「宇喜也嘉の謎」には、神がかりで聞いたとされる事柄が色々と記されているようだが、入手できていない。
  禁忌となっている秘事は文書では出てこなく、秘かに語り継がれて、神人の言葉として現れることがある。
  金丸は(オギヤカとの間に子を成した程で)先妻との間に男子が居てもおかしくないが、その男子と糟糠の妻の運命、の悲惨な伝承も語られてると。
           (2022.12.05)






2022年4月11日

やっぱ なりすまし は許せない。
しかも朝貢貿易の利益大事に目が眩んでの、国をあげてのなりすましとは驚く。なりすまされた側が可哀そうだ。
琉球王国の国王は、「尚氏」と「なりすまし尚氏」からなるが、第一、第二と番号をつけてるので なりすまし感が欠如してる。

番号でなく、ここは、 寒川尚氏 1代〜7代、 金丸尚氏 1代〜19代、と呼ぶべきだろう。
寒川氏は定着に時間がかかるので、尚氏、金丸尚氏とすべきかな。いずれにしても番号は変だ。
冊封側の中国ならば尚氏だろうが、ここは日本なので実態に合った呼称が基本。


2022年4月18日

金丸の謀反について、その心の内にわけ入ってみよう

私は按司の出身ではなく領地は無い。先代から賜った内間領は一代の功績によるもので、私の死後は 捨扶持を除いて国王に没収されるだろう。
我が子はまだ4歳で、行く末について若いオギヤカから 早く手を打てと 夜毎に迫られている。
地位を利用して久米村と結託して交易の利益を簒奪してたことも 新国王にはそのうち露見するだろう。

これまで有力按司たちには、過分の付け届けを怠ったことはない。
今なら、現国王への不満分子の按司たちを集めたり、長い付き合いの久米村の商人たちの支援が見込まれる。
私も年だし、この際 思い切って...


2022年4月20日

王殺し あるいは 国王弑逆」の世界事例のなかでも、臣下 金丸による「琉球国王の王殺し」は 最も非道なケースといえる。
王殺しは通常、身内による継承がらみがほとんどで、臣下の王殺しには新王朝を開くケースもある。
しかし、王朝を乗っ取って なりすますケースは例をみない。しかも、乗っ取った王統の祖先の陵墓を破壊してまでは。

事実を改竄し、正史では金丸の謀反は無かったとし、尚氏の遺族を弾圧して真実を秘匿し、琉球処分までの410年間世の中を欺いてきた。
勝者編纂の正史教育の為、むごたらしい真相を知る人は今もわずかだ。まさに世界の王殺しのなかでも ギネス級の残虐さだ。



2022年4月22日

「百按司(ももじゃな)墓」遺骨の返還請求訴訟の結果が 4月21日に出た。 返還請求は棄却された。
原告5人のうち2人は、第一尚氏の子孫だった。

「百按司墓」は、
第一尚氏の遺族の墓であると正史「球陽」巻二に伝えられている。

当然、遺骨は「百按司墓」に返還されなければならない。






← 沖縄タイムス(2022年4月16日)


私は、遺骨の返還の是非で終らせず、その背後にある、
「ここに遺骨を隠さねばならなかった」第一尚氏一族の、琉球正史から隠されてきた悲劇の実態を 広く知ってほしいと願う。

北山を滅ぼした(1416年)尚巴志は、次男の尚忠(後の第3代王)を北山の監守とし、以降一族の子弟が今帰仁の監守として封じられていた。
金丸の謀反(1469年)で尚徳王が殺害され、遺臣が今帰仁に逃れ、監守の一族と共に、彼らの墓は金丸らの追求から逃れて隠されねばならなかった。

「球陽(1745年)」によると、『墓の中には骨が多数あり、木棺が数個残っていてその中に骨が収めてある。木棺の作りは美しく、そこにみな、
巴の字の金紋を描いてある。やや新しい木棺には、弘治13年9月某日(1500年)と書いてある。 これから推して、尚徳王の遺族は尚真王の時代に老い、
死んでしまったのであろう。
』と、「球陽」は言う。  王の遺族のもっとも年少者が、金丸謀反の31年後のこの年に死んだ。

崖の中腹の岩陰に墓が作られ、木棺に遺骨が眠り、「百按司墓」と祀られていたのは、(第二尚氏の追求から逃れる)第一尚氏の遺族の隠された墓だった。
そして第一尚氏一族の悲劇は、現在もまだ続いていることが、今回の一族の遺骨の裁判で知られることになった。



「百按司墓」26体の遺骨は、(2022.2.18付)朝日「今帰仁で発見されたグスク時代の26体の人骨」(本土の中世人と見られる人骨)と同じ遺骨か?
     もし同じなら
       
百按司墓の26体の男女の遺骨は、(沖縄の在地人の骨格と違って)本土の中世人の男女の遺骨となる。
       
百按司墓は第一尚氏の墓なので、第一尚氏は 本土の中世人となり ⇒ (南北朝時代に)肥後佐敷から渡ってきた寒川武士団 の仮説が裏付けられる。



2022年4月25日

沖縄2紙の「百按司墓」訴訟の報道 は対照的で、琉球の歴史を今に引きずっている感がする。
・百按司墓について ⇒ 新報は「風葬墓」、タイムスは第一尚氏の一族らをまつる「百按司墓」
・原告について ⇒ 新報は、「子孫に当たる住民ら」、で「第一尚氏」という言葉は社説には一語も出さない。
  タイムスは、「判決は、原告の一部を第一尚氏の子孫と認めた」、と第一尚氏を出している。

琉球新報は第二尚氏の尚順(最後の国王・尚泰の四男)の創設で、(始祖金丸の謀反に由来する)第一尚氏の子孫の事は、今でも意図的に隠したがるようだ。
・琉球新報社説(2022.04.23) https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-1506159.html
・沖縄タイムス社説(2022.04.23) https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/947367







2022年5月21日

ビッグニュース
が飛び込んできた。

 沖縄南部・玉城富里「神座原古墓群」の78体の人骨で、石厨子にあった人骨3体のミトコンドリアDNA分析を行ったところ、
 1体からは沖縄を含む日本、1体からは西ヨーロッパ・中央アジア、1体からは朝鮮半島 に由来するミトコンドリアDNAが検出された。
 この3体は、琉球王朝前期(1400〜1600年代)の男性の遺骨と。


このニュースには正直 驚いた。

@この南部の地は、第一尚氏一族が、金丸の謀反(1469年)により逃げ、隠れ住んだ地。
 玉城富里は、殺害された尚徳王の姉の百十踏揚の墓があり、近くの當山には弟の八幡加那志の墓がある。
 石厨子の3人は、第一尚氏(尚徳王)と親しく関係していた外国人だろう。

Aこの時代(6代尚泰久、7代尚徳王)は、万国津梁の鐘を造り、マラッカ王国に使者を派遣して交易を始める(1463)等、交易を更に拡大させた時代。
 西ヨーロッパ・中央アジア由来の人物は、イスラム系のマラッカ王国から来て、交易のために王家に仕えていたマラッカ人の可能性が高い。


彼は何故、(殺害された尚徳王の遺族と共に)南部に逃げたか? 
<私はこう考える。>

・金丸の謀反は、開明派(第一尚氏)と保守派(金丸尚氏)の抗争だった、と。

第一尚氏は、沖縄島の倭寇の棟梁であり、交易を求めて渡琉してきた気風も残っており、国際的な交易の拡大に積極的だった。
・尚巴志は、東南アジアとの交流(1419年暹羅(せんら、シャム:現在のタイ)、1428年パレンバン(現在のインドネシア))を開始した。
・その後、万国津梁の鐘を造り、尚徳王は奄美を支配し北方交易を拡大し、マラッカ王国に使者を派遣して南方交易を始めた(1463年)。
若い国王尚徳は、祖父・尚巴志に倣って 更なる交易の拡大を志向していたのだろう。

第二尚氏の祖・金丸は農民の出身であり、事務官僚として出世を遂げ、久米村と密接な関係にあった。
久米村の商人は、中国との朝貢貿易が主体で、王国の交易網が華僑ネットワーク外に拡大することは、利益が脅かされることで反対だった。
(奄美、)マラッカ、更にマラッカの西方などへの交易拡大は、ライバルの新出現となり、これは阻止せねばならなかった。

西ヨーロッパ・中央アジア由来の)マラッカ人は、久米村の中国商人とは対立した ライバルとなる立場に居た。
従って、金丸クーデターに際して、王の顧問として身の危険を感じ、第一尚氏と行動を共にしたものと推察する。
もう一体の朝鮮半島系の人物も同じだろう。第一尚氏は、交易の為に外国人顧問を重用する開けた王政だったようだ。

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想像を逞しくすると、石厨子にあった人骨3体は、マラッカ人、元高麗人、博多商人 の交易顧問だったかも。
尚徳王は、国際的な中継港として繁栄していたマラッカ王国の情報を彼(マラッカ人顧問)から聞き、マラッカ王国のイスラム・ネットワークを利用した
西方イスラム諸国との交易を、具体的に検討していたのかもしれない。
(マラッカ王国は1511年 ポルトガルによって滅ぼされた。)

海洋性気質の尚徳王と、島の農民気質の金丸とは、「リスクを伴う広い世界への夢」と、「久米村と組んだ既存利益重視」という考えの違いが大きすぎた。
正史では尚徳王を悪者扱いにしているが、それは金丸正史に都合よく事実を曲げたものだ。

今回のDNAの結果の新事実について、沖縄の歴史学者の見解を聞いてみたい。


疑問(5/23)
大交易時代と称されているが、それは第一尚氏の尚巴志、尚忠、尚徳が目指したもので、金丸の謀反により 志半ばで阻止されてしまった、のだろうか?
金丸と久米村にとっては、冊封下での明との朝貢貿易の促進が最重要であり、それ以外の交易先の拡大などは関心は薄かった、と思える。


 大交易時代と云われる内容を拾いだした。(出典:琉球王国交流史・デジタルアーカイブ →「歴史年表」)
 2代 尚巴志 在位(1422〜1439 18年)
  ・1419年 シャムへ使者を派遣 その後、毎年のように18回派遣。
  ・1428年 パレンバンへ使者を派遣。  3回使者を派遣
  ・1430年 ジャワへ使者を派遣。  2回使者を派遣
 3代 尚忠 在位(1440〜1444 5年)
  ・1440年 ジャワへ使者を派遣  毎年のように4回派遣
 4代 尚思達 在位(1445〜1449 5年) 使者派遣無し
 5代 尚金福 在位(1450〜1453 4年) 使者派遣無し
 6代 尚泰久 在位(1454〜1460 7年) 使者派遣無し 金丸が貿易長官として王を補佐した時代。
 7代 尚徳  在位(1461〜1469 9年)
  ・1463年 マラッカへ使者を派遣 計5回
  ・1463年 スマトラへ使者を派遣 計3回
  ・1464年 シャムへ使者を派遣  計3回
 ※その後、第2尚氏時代に新たに交易開始したのは、3代尚真の時代にパタニ、スンダへの使者派遣。

 @これを見ると、東南アジアとの交易拡大の基礎を築いたのは第1尚氏であったことが明白だ。
  ・シャム、パレンバン、ジャワ、マラッカ、スマトラとの交易を行っている。
 A6代尚泰久を補佐していた貿易長官・金丸は、交易拡大には背を向けている。久米村との関係を優先してることが見てとれる。
 B4代、5代、6代と東南アジア諸国への使者派遣は無かったのが、7代の尚徳王でまた、マラッカ、スマトラ、シャムへと活発に再開された。
  久米村と、久米村と組んだ金丸にとって、これは早いうちに阻止しなければ、と危機感を抱いたのだろう。

感想(5/24)
最近の歴史は、文献・考古学資料・神話伝承に加えて、DNA解明による「吃驚する発見」が加わって、一段と興味深い。
今回の人骨のDNA分析での新事実は、王室には忠実な外国人ブレーンが居た、ということで、尚徳王のイメージが変化した。
金丸正史での暴虐な王とは異なり、顧問団を擁し、世界を相手に交易する琉球を築こうとした英明な国王、という面が、判明したことは喜ばしい。
志半ばで殺害されたが、IFと想像すると、遥かなイスラム圏からの文物・ムスリム商人も多く集まる、世界に大きく開かれた琉球の姿が見られたはず、と残念だ。







2022年5月25日


 神座原古墓群の石厨子に納められていた3人の人骨については、何らかの伝承があったハズ、だ。
 また、神座原というフツーではない名称は、何かいわくがあることを暗示してる。
 「土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム(DJM)」にDNA鑑定を依頼したのは、その伝承の真偽を確かめる為だったのでは? と考えた。

 どんな伝承が伝わっているのだろう?


そこで 南城市教育委員会に 伝承等について問い合わせた。
今朝(5/25)回答があった。
     ↓

@神座原古墓群の資料は無い。
 『旧玉城村や南城市関係の市・村史などの公文書や地域の字史にも神座原古墓群について記録がなく、行政としても把握していない』と。

A石厨子の人骨の伝承は、市は全く関知しない。
 この件は、『納骨堂管理者が直接(DJM)館長に依頼したもので、今回市は館長より記者発表の場設定を依頼されて対応しただけ』と。

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知念半島や玉城の村々に隠れ住んだ第一尚氏の一族は、琉球処分までの410年以上を出自を隠して暮らし続けて来た。
出来事も文書記録には残さず、口伝えによる伝承だけで、外には隠されてきた。

遺骨と言い伝えを代々守り続けて来た墓守人は、今もその習慣を守っているようだ。
今回のDNA鑑定の依頼は、管理者が一族の了解を得て、月代の宮にも報告して行われたわけで、結果は、一族にとって意味が明白なのだろう。

長い間守られてきた伝承の謎は、そうしたく無ければ わざわざ公表しなくてもいい、と思っている。
何しろ、私には真相が見えているからだ。






2022年5月28日

今回の事は、『骨が語りかけた』、が発端だろう。
ある日、厨子の遺骨を拝んでいた者の心に、骨が語りかけた。”言い伝えをご存知でしょう。どうぞDNA鑑定をしてください”、と。

対象が語りかける、は、感応する能力がある人にはあることだ。
その人は気になって、墓守人・納骨堂管理者にその話をし、管理者は知識がある一族の者に相談した。
骨が自ら語った、という契機が無いと、祟りが気になる行為は執れない。
ここは東京のような大都会と違って、神話伝承がまだ濃厚に生きている南部の地なのだ。

 ・・・・・

管理者が、一族の了解をとってDNA鑑定を依頼したのが 2019年なので、発端はその数年前のことだろう。
その頃、人骨のミトコンドリアDNA解析によるルーツ解明が、国内で行われ始め、紙面を飾ることがあった。
隣の糸満市では、「土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム」が縄文後期の人骨の調査を行っていた。

骨(側頭骨、歯)から、ミトコンドリアDNA分析により年代と共に 母系のルーツが判明する、という新事実。
厨子の遺骨は大切に扱われてきて、DNA鑑定が可能かも。なら伝承内容が確認できるし、遺骨がそれを望んでいるようだ、と。
これは、一族の祭祀に係る私的なもので、皆で費用を出し合って依頼しよう。

経緯については上記のように推理した。

 ・・・・・

言い伝えの内容は不明だが、
遠い西方の異国から3人の賢者が国王の求めに応じて、国王を助ける為に 遥々琉球の地にやってきた。
この墓は、国王の傍らに仕えていたその外国人の墓、とか、それに類する神話の衣をまとった伝承だろう。







2022年6月22日

特別展「琉球」


沖縄の本土復帰50年を記念して、かつての琉球王国ゆかりの文化財などを集めた特別展が、東京国立博物館で開催(5/3→6/26)されている。
上皇ご夫妻 や 秋篠宮ご夫妻がご覧になられてる。




サイトで構成と内容を見てみた。
一部に歴史的事実と異なる、偏向した書き方がなされており、驚いた。


展示構成1: 万国津梁 アジアの架け橋 

中国との朝貢貿易を柱に、東南アジア各地との交易を開始し、中継貿易によりアジアの架け橋と言われる立場を確立したのは第一尚氏である。
首里城の築城も、那覇港の整備も、万国津梁の鐘の鋳造も、大交易時代も、第一尚氏の功績なのに、これは無視されてる





展示構成2: 王権の誇り 外交と文化


第二尚氏の時代は、王国の海外中継ぎ貿易ではなく、

王権の安定化をめざした国内中心・朝貢貿易中心の時代だった。


『琉球国王尚氏は、1470年からおよそ400年にわたり琉球を治めました。』

これ↑は 国王を弑逆した謀反人・金丸尚氏からの治世で、史実とは異なる嘘である。
琉球王国の成立は、尚氏(第一尚氏)の1429年から が正解で、教科書にも記載されてる。
あまりに初歩的なミスであり、恣意的にそう記した、としか感じられない。


王家の誇りでは、尚家伝来の王家の宝物が展示されている。

国宝・千代金丸も刀剣ブームの影響で人気が高いようだ。
しかし、千代金丸は北山王・攀安知の宝刀で、尚巴志が攻め滅ぼして所有したもの。
第二尚氏の宝物には、盗んだ第一尚氏の宝物が多数含まれていることは、意図的に隠されている。


エピソード: 尚円王金丸のアザ >

クーデターで金丸の王位就任を推挙した人物に、泊村の住人・安里大親(アサトウフヤー)が居る。
彼は、金丸の足に金のアザがあり、容貌が常人とは異なり偉人相なので推挙した、と語る。
クーデター後、金丸により安里村の地頭職に取り立てられた。



私見  第一尚氏と第二尚氏の違い

第一尚氏
 海商たちが築いた王国。
 交易の拡大が彼らの存在基盤なので、アジアの架け橋といわれる中継貿易により、第一尚氏は王国の繁栄を招いた。
 自主・独立心が旺盛。中国との冊封関係も、朝貢貿易の利益の為の手段でしかなく、沖縄島の「按司襲い」の権威が存在基盤となっている。


第二尚氏
 王国ではなく、国王一家の維持・繁栄が目的だった。(玉陵には、金丸と妻オギヤカの血を引く者のみが許される、と記した石碑がある。)
 農民出身の気風で、久米村と手を組んだ朝貢貿易に戻り、東南アジアとの中継貿易は姿を消していく。

 クーデターにより王権を簒奪したため、その影響が第二尚氏の体質を規定した。
  @クーデターで奪った権力は、クーデターにより失う恐れがあった。 その為、内政中心で中央集権化を進めることになった。
  A謀反で得た王位で権威が全く無いので、王の権威を中国からの冊封とその儀式に頼り、中国の権威を必要以上に美化しそれに倣う国風になった。
   これは、クーデターの後ろ盾となった久米村にも好都合だった。
  B王権簒奪を隠蔽するため、第一尚氏を完全に抹殺する必要があり、彼らを迫害し続け、歴史から抹殺しようと企てた。
   その影響は今も残り、天山陵の史的価値の無視、沖縄神社創立の内容、百按司墓の報道姿勢、琉球展などに見られる。





本編: 『佐敷から 琉球国王のルーツをさぐる



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