七.クレオパトラとアントニウス


 銀河ローマ帝国執政ユリウス・カエサルの暗殺犯であるブルートゥスとカッシウスの両名はキリキア周辺宙域で撃砕され、ローマ旧守派の貴族はその最後の精神を絶たれることとなった。それは権威に伴う実力を有していた元老院が権威のみの存在となり、実力を喪失したことの証明でもある。新しい銀河ローマ帝国は三名の執政官、カエサルの養子であり後継者であるガイウス・ユリウス・カエサル・オクタヴィアヌスと、やはりカエサルの有能な副官であったマルクス・アントニウス、同じくカエサルの腹心とされていたレピドゥスによって統治されることとなる。

 オクタヴィアヌスはローマ・ガリア・ヒスパニア方面を、レピドゥスはカルタゴ方面を、アントニウスはギリシア・シリア・エジプト方面を分割して統治した。だがレピドゥスはともかく、オクタヴィアヌスとアントニウスは自分の分け前に決して満足してはいなかったのである。


† † †


 後世、クレオパトラは絶世の美女と称され、アントニウスは軽薄で単純な男と呼ばれることになる。女性ながらエジプト星系の統治者であるクレオパトラが、叛将カッシウスに資金を提供したとしてアントニウスに詰問されたこと、そして行われた会談でアントニウスの統治星域がクレオパトラとの共同統治に変わったこと。その事実だけを見れば女好きとして知られるアントニウスがクレオパトラに篭絡されたと思うであろう。

「閣下はあのような女に帝国版図の統治権を与えるとおっしゃいますか」

 ラルフ・アルトゥア。樽のような体型に禿頭にいつも苦虫を噛み潰したような渋面をした異相の人物である。先のカッシウス軍討伐に際して功績を立てたことと、直言を厭わない性格とが評価されたのか、新領土を統治する立場となったアントニウスの下で新たに将軍号を授けられている。
 ラルフの主張は概ね、他の将軍たちの心情を代弁するものでもあった。彼自身が立体映像で見たクレオパトラは確かに妖艶な美貌の所有者であり、上官がその妖艶さに篭絡されたのだと考えることはごく自然であったのだ。

「貴官はそう言うが、彼女も伊達に一つの星系を支配してはおらぬ。オクタヴィアヌスの儒子を倒すにはエジプト星系の王位と繋がりを持つ彼女の協力は不可欠だ。それに…」

 武に優れ、戦場では並ぶ者のない勇者であるアントニウスであるが、当人は軍人でありこと政治に関しては苦手である以上に関心が薄かった。彼が統治の優秀な補佐役としてクレオパトラを欲し、彼女がその見返りとして共同統治権を欲したというところまではラルフにも理解ができるが、であれば尚のこと共同統治権までを与えたアントニウスの真意は、クレオパトラの美貌にこそあったのではないだろうか。
 ラルフが敢えてそれ以上追求しなかったのは、上官がどういう人間であるかを彼なりにわきまえていたからでもある。クレオパトラが共同統治者となるのであればアントニウスには特に軍部を完璧に掌握してもらわねば、彼女につけいる隙を与えることになる。そして戦場の勇者であるマルクス・アントニウスは軍部を完璧に掌握しているのだ。


† † †


 旗艦アレンタムの艦橋で、アルト=サーディスは不機嫌そうに黒髪に手を当てていた。艦内空調の効きが悪いのか、空気が髪と肌にやや不快な印象を与えなくもない。

(果たして、上手く行くものか…)

 アントニウスがクレオパトラと手を組み、カルタゴ星系の取り込みに成功すればオクタヴィアヌスに対して二方向からの航路を抑えることになる。オクタヴィアヌスにすれば阻止したいところであろうし、何らかの理由をつけて戦端を開くこともありえるだろう。もともと、両者は親密な仲ではないのだ。
 アルトは同僚のルフス・ヘクトール・アウレリウスとともに、艦隊を連れてギリシア周辺宙域を航行している。ここまでは我等の庭だ、という示威行動である。クレオパトラに共同統治権を与えるということは彼女をオクタヴィアヌスら三頭政治の同格に立てるということであり、彼らがそれを見過ごす筈はないだろう。更にカルタゴにあるレピドゥスを懐柔するのであれば、それは明らかにオクタヴィアヌスに対して挑発行為を繰り返しているということだ。両者の対立は避けられず、すくなくともアントニウスには避けるつもりもないらしい。

 だが彼女が不機嫌な理由は艦内の空調のせいでもなければ、急速に先鋭化する状況への懸念でもなかったかもしれない。女性指揮官ながら実力で中将へと出世した彼女にとって、政治手腕とその立場のみならず美貌によってアントニウスに取り入ったかに見えるクレオパトラの存在は単純なものではなかったろう。

「どうした?心配ごとかね」
「…ん、いえ、何でもないわ」

 通信スクリーンから定時連絡を行う、ヘクトールの声にアルトは曖昧な返答を返した。ヘクトールも敢えて追求はせず、彼自身の関心事に話題を移す。

「先程ローマの哨戒にかかった。敵さんがどう出るか、こちらも供えないとな」
「敵、ね…」

 同じ旗を仰ぐ者同士が争う、いちいち気にしていては軍人は務まらないのかもしれない。アルト、ヘクトール両艦隊から後方ギリシアに連絡が入り、アントニウスはラルフを連れて出陣の準備を始めていた。彼にとって間違いなくクレオパトラの美貌に勝る価値を持っているもの、それは戦場における甘美なまでの高揚感であったろう。

 一方ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタヴィアヌスは、ローマ主星系にあって再統一の基礎を固めようと腐心していた。ヒスパニア方面は未だ面従腹背の様相を見せており、形骸無実化したとはいえ名目上の権威だけは残している元老院はことごとくオクタヴィアヌスの足を引っ張ろうとする。執政は統治に専念せざるを得ず、そこにもってアントニウスがクレオパトラと手を結んだこと、カルタゴ方面に手を伸ばしていること、更にギリシア星系方面でアントニウスの軍が挑発的に展開していることが伝えられてきたのであった。

「これは体制への明確な叛逆行為。この際彼らを誘い出して撃滅し、威を示すべきでありましょう」

 オクタヴィアヌスにそう進言したのはテオドラ・ガリアヌス少将である。彼女も自ら武人を自負しており、敵の挑発行為に無視を決め込むほど人間が出来ているつもりはなかった。また、オクタヴィアヌスがローマを抑えている以上こちらが体制派であり、アントニウスを叛乱軍として討伐する大義名分を持っていることも承知している。彼女の主戦論は無責任なものではないが、ローマの問題は即ち彼らがローマにあることそのものによる。今回、出征するとしてオクタヴィアヌス自身は出陣する訳には行かないであろう。ヒスパニアどころかローマ内部で叛乱が起きるであろうことは目に見えている。
 だがアントニウスとクレオパトラの思惑を放置しておけば、いずれギリシア、エジプト、そしてカルタゴまでの交易を掌握されたあげく二方向からの進軍を許す危険がある。敵の蠢動を押さえることは今後政治的に優位に立つためにも有効であるように思えた。

「では…今回はシルウェステルを司令官として艦隊を任せる。ギリシア方面に不必要に艦隊を展開しているアントニウスの軍を解散させよ。可能であれば戦闘を避け、またむやみに戦線を拡大せぬように」
「御意!」

 敬礼をひとつすると、テオドラは統帥本部にあるオクタヴィアヌスの執務室を辞して艦隊司令部へと向かう。総司令官が同僚の少将であるユリアヌス・シルウェステルに与えられたのは残念だが、それは現実の武勲で挽回すれば良いことだろう。

 こうしてギリシア方面軍司令官として選ばれた、ユリアヌス・シルウェステルには中将の辞令が与えられることとなった。もともとオクタヴィアヌス派の将校の中では相応の武勲を認められている人物であり、若いながら堅実な手腕には定評がある。野心にあふれるユリアヌスとしては、思わぬ幸運により手に入った新たな地位に満足する一方で、その地位を実績によって自らのものとする必要があった。

「艦隊司令官としてあのアントニウスを撃破すれば、そのまま新帝国建国の元勲だな。悪くない」

 戦艦ラウレントゥムの艦橋で、ユリアヌスは副官にそう語ると艦隊進発の命を下す。軍人の戦う動機が出世にあったとしても、それを責めることはできないだろう。問題にすべきは現に勝てるか、という事である筈だった。
 ユリアヌスは自らを中央にして右翼をテオドラに、左翼をサタジット・ラリベル、後衛をカリス・レオルグに布陣させる。サタジットはもともとアントニウス派の女性将校であったが、カッシウス、ブルートゥスの叛乱鎮圧後治安維持の任を受けて一時ローマに帰還、その間にアントニウスの「叛乱」勃発によりオクタヴィアヌス軍に取り残される形となっていた。

「宜しいのですか?アントニウス派の将校を重要な左翼になど割り振って…」
「構わん。敵に当てる兵力は必要だし、使えぬなら切れば良いだけだ」

 ユリアヌスが副官と交わした会話が聞こえたわけでもないだろうが、サタジットは自分の立場が困難なものであることを知っていた。ローマ軍同士が相打つことは彼女にとって本意ではないが、そう言える状況でないことも分かっている。左翼前線への配備、不自然な動きを見せれば後ろから砲撃も辞さないということだろうか。そこまでは考えすぎとしても、戦場に出る以上は戦わなければ敵以上に多くの味方が犠牲となるのである。

「敵、軍、ね…」

 複雑な胸中を隠しきれずに小さく呟く。目の前の宇宙空間は依然暗黒の壁面に星々の輝きを映し出していたが、先遣偵察隊からの報告では既にアントニウス指揮による艦隊を発見、進軍が確認されている。

 敵が迫りつつあった。


八.クレタ会戦を見る
地中海英雄伝説の最初に戻る