7.テッサロニケ事件
ローマは震撼する。かつて銀河帝国と称された星間国家ローマは西ローマ帝国を統治する後継帝ヴァレンティアヌス二世と皇妹ガラ、それに東ローマ帝国を束ねる皇帝テオドシウスが対立する舞台となっていた。東ローマ帝国は遠方ブリタニアの叛乱鎮定に力を貸したことで西への保護権と優位性を主張していたし、対する西では皇帝兄妹の後見人である司教アンブロシウスが世俗レベルでの影響力を駆使している。両者の対立と緊張関係は日々、その度合いを深めていたが双方の国境線にあたるアドリア宙域での遭遇戦が起きたことにより、その溝は決定的なものとなった。混迷するローマにおいて、分かたれた両者の対決は既に内乱ではなく戦争と呼ぶべきものとなっていたのである。
† † †
司教アンブロシウスといえば全ローマに影響力を持つローマ真教の司教である。神なる教えに本来国境は存在しない、どころか東西のローマはもとは一つのローマであったから、そのローマの司教がローマ国内を自由に行き来していることは何も不自然なことではなかった。
事の発端は東ローマが統括するマケドニア星系の惑星テッサロニケで、当時民衆に人気のあった競技である剣闘騎手の一人を衛兵が逮捕し、これに怒った民衆がその衛兵を殺害したことにある。この事件の処置にわざわざ皇帝テオドシウスが自ら当たることになった理由は、たまたま皇帝が当の騎馬競技を観戦するためにテッサロニケに行幸していたためでしかない。首謀者や参加者を罰するその処罰は厳しいものであったが、それは厳格であったというだけで必ずしも不当ではなかった。
だがこれに抗議の意を表明したのがアンブロシウスである。普段はミラノにあるローマ真教の司教がマケドニアの一惑星にいたことは偶然であったとも意図的なものであったとも言われているが、アンブロシウスは皇帝が民衆の俗事にまで採決を下すことは、人民の嗜好と思想に対する重大な背信行為であるとしてテオドシウスに会見の拒否と教会への立入禁止を宣告する。人民を治める皇帝たるものに不可侵な場所を設けること自体が皇帝権力への明確な挑戦であり、しかもアンブロシウスは西ローマ皇帝兄妹の後見人であった。
テオドシウスは激怒するが、剣闘騎手の逮捕に反発していたマケドニアとギリシアの民衆の多くがアンブロシウスに与したことで自体は更に複雑化する。惑星テッサロニケを中心に各地で暴動が起こり、暴動が叛乱の寸前になるに至り治安維持のために東ローマ艦隊が派遣されると、これに呼応して西ローマでも艦隊を動かすことを決める。西ローマの後見人であるアンブロシウスが滞在する惑星に大軍を派遣することもまた、充分な挑発行為となるのだ。事が国家同士の問題になれば、名誉とか誇りという類のものが充分な宣戦布告の契機になることは過去の歴史が証明している。
「くっくっく…まさか生きているうちに祭りが始まるとは、運が良いわ」
そして主星ニコメディアを発ちマケドニア星系へと向かっている東ローマ艦隊、前衛の最先頭にある戦艦ヴァスパシアンでピナル・アルトゥアは好戦的な笑みを隠そうともしないでいた。ピナルはすでに老境にさしかかった熟練の指揮官であったが、誰もが認める軍国的美徳の信奉者でもある。テッサロニケ事件におけるテオドシウスとアンブロシウスのやりとりが演出であることをピナルは充分に承知していたが、たかだか暴動鎮圧に四万隻もの大艦隊が送られる理由を考えれば事態は明白だったろう。
「なあ若僧、貴官もそうは思わんか?」
「不本意な呼ばれ方ですな…だが小官も祭りは好きですよ、御老人」
通信スクリーン越しに答えるコルネリウス・アエミリウスは御家再興を目指す没落貴族の出自であり、野心の先行する青年将校にとっても戦乱は栄達へのまたとない好機である。単なる叛乱鎮定や暴動制圧であれば余程のことがない限り大功を立てることは難しいが、戦場での戦であればそれもあり得るのだ。プライドの高いコルネリウスの返答にピナルは気分を害した風もなく、むしろ嬉しそうに破顔すると哄笑した。
「そうともさ、それではでかい花火見物に行こうではないか!」
† † †
東の大艦隊を迎えるに、西ローマでもほぼ同数の四万隻に達する大艦隊が出動していた。その先頭集団にあるのは「海賊女神」レオーナ・シロマーサ中将の駆る戦艦ダイダロスである。だが金髪隻眼の女性提督は見るからに不機嫌な顔で、連絡シャトルを降りて来訪してきた同僚の姿を見ても、おざなりな敬礼を交わすだけで不機嫌な表情はそのままだった。ぞんざいな出迎えに気分を害した風もなく、カルレット・ザウエルは苦笑まじりの声をかける。
「どうも機嫌が悪そうで。戦場にはいい男がいませんかな」
「ああ、その通りだね」
カルレットとレオーナは西ローマでも屈指の戦績を誇る二人であるが、彼等は同時に軍人としてはあまりにも異質な性格が白眼視されてもいた。謹厳、実直、忠節、献身。こういった数々の軍国的美徳は彼等から最も疎遠なものである。
「アドリアで気分良く暴れられたのはいいが、おかげで妙に出世して仕事まで増えちまった。同僚は年寄りか中年ばかりだし、まさか中将様が装甲服着て敵陣に乗り込む訳にもいかないだろう」
「おや、本当にそうお考えで?」
「もちろん装甲服の手入れは万全だよ」
「そうでしょうな。同僚の魅力ある紳士にも恵まれていることだし、何も問題はない」
レオーナの同僚であるカルレットが図々しくも言ってのけると、海賊女神はやや頬を緩めた。もちろん本当に白兵戦ともなれば、レオーナ個人としてはいつでも銃と斧を手に戦場に出るつもりは充分にある。だが、大軍の中央指揮という立場では流石にその機会はないであろうし、大局を見る立場の者がそれを怠れば、大局のレベルで無駄な犠牲が出てしまうのだ。
二人の中将が肩を並べて旗艦ダイダロスの戦略会議室に入ると、既に集まっていた幕僚達が敬礼を返す。今回の会戦では中将格のレオーナに総司令官の任が与えられ、同格の中将を含む他の将官がその指揮に従うことになる。普通であれば指揮の混乱を招きかねない人事であったが、既に幾度かの戦場で互いに見知った仲とあってはその心配は無さそうだった。
会議室の中央には略図化された両軍の様子が立体映像として浮かび上がっている。三次元空間を現すに通常は三軸方と呼ばれるxyz軸での立体投影図が用いられるが、海賊女神が使うそれは三面方と呼ばれる図法であり、座標軸の代わりに座標面と呼ばれる三枚の正六角形を120度角で交叉させたような投影図を用いる。それは特定時点での相対位置ではなく、連続する航路を算定する場合に有効な手法であり軍人よりも宇宙船乗りが好んで使う立体図法であった。その映像では東ローマ艦隊は横に広く、西ローマ艦隊は厚みを持って陣形を布いている。配置を見るに右翼側は前進、左翼側が後退してこちらの側面を突くつもりであろうか。
「そんじゃヨハンナちゃんは右翼で急進。適当に頑張ってね」
「自分はヨハンナちゃんでは…いえ、了解しました」
ヨハンナ・ガリアヌス少将も本来はレオーナやカルレットの同僚であったが、戦績が劣る彼女は階級も下に留まっており軽薄な上官の命令に異を唱えることもできない。自らそう思うヨハンナの実直さは両中将の目に気の毒に映らなくもないが、性格を問題視するのであれば彼等自身の方が余程問題なのであった。中央、左翼が後退して横展開する敵を引き付けつつ、右翼は前進して敵の戦列に断層を作り側面から攻撃する。作戦自体はしごくまっとうな一翼前進策である、ただ、司令部がまっとうであることを好んでいないだけなのだ。
ギリシア星系にあるマケドニア地方、テッサロニケ星周辺宙域。西ローマ艦隊は先のアドリア遭遇戦を制していたこともあり、明らかに東ローマ領域であるこの地にまでも容易に艦隊を進出させることが可能になっていた。しかも今回は当地であるギリシア星系にも多くの協力者が確保できており、これを機に東に進軍するための橋頭堡を確保したいところである。
重厚な陣形を布いて前進する西ローマ艦隊に対して東ローマ艦隊は左右に広く展開しており、それは突破戦と包囲戦の思惑同士の激突であった。両艦隊から形式的な警告の信号が送られるが、どちらにもそれを聞こうとする素振りすらなく、淡泊なほどに静かで迅速な接近の後、両艦隊に砲火の応酬が始まったのはそれから五分後であった。この大規模な艦隊戦も含めて、後世はこの莫迦莫迦しい原因による衝突をして「テッサロニケ事件」と称するのである。一人の剣闘騎士の逮捕が数万の軍団を死地に赴かせた、だがその事情は当時の人々が考えている以上に作為的かつ必然的であった。
† † †
第一射として両軍の艦列から激しい砲火の応酬が行われる。両者の思惑は西ローマ側が突破、東ローマ側は包囲でありその為の手段として双方が一翼前進を選択していた。右が前進して左が後退することで、反時計回りに敵の側面を突く基本的な戦術である。だが双方がこの戦法を用いる場合、自らの思惑が成立することは同時に相手の思惑が成立することでもある。
先陣を切ったのは東ローマ、ピナル艦隊であった。指揮官の性格を思えば充分に予想できることであり、戦艦ヴェスパシアンを先頭にして奔騰する好戦性のままに前進攻勢に出る。対する西ローマ前衛艦隊にはレオーナが陣取っていたが、海賊女神は実戦において味方を抑制する術を心得ていた。相手の前進攻勢が予測できていたとあればなおさら、艦列を展開して敵を引き付けるくらいは指揮官としてやらねばなるまい。レオーナが嫌う仕事が増えた所以である。
「狙点固定、爺ィの寿命を縮めてやれ。砲撃ぃ!」
レオーナが右手を払うと数万本の熱線が集束しつつ襲いかかり、第一撃で前衛部の殆どを吹き飛ばされたピナル艦隊は、それでも前進を試みようとする。だがこれは完全に逆効果であった。艦列が混乱するままに味方同士が衝突を避けようとする有り様で、そこに第二射が襲いかかると第一撃に耐えた味方が今度は新たな犠牲の列に加わる。口角に泡を溜めたピナルの怒号が艦橋に響き渡るが効果は無く、レオーナは更に艦隊を左右に展開して包み込むように砲火を集束させていった。防護シールドが虚しく突き破られると次々と装甲が破壊され、一瞬にして艦内を熱と光が荒れ狂い爆発して四散する。
こうして前衛でレオーナ艦隊が敵を引き付けている間、西ローマ軍右翼方面ではヨハンナ艦隊が前進を開始していた。戦艦アキピテルを筆頭に陣形を横に布陣、これを迎え撃ったのは不死身のヘクトールことガイウス・アウレリウスである。全軍が右翼を前に出しての一翼前進、ならば左翼にあるヘクトールの選択肢は迎撃策であった。
「二十秒後に砲撃する。主砲、斉射三連」
戦艦ロンデニウムからの指揮により、横列に並んだ砲火が整然として解き放たれる。その一撃は決して重いものではなかったが、極めて正確に、並列で押し寄せる砲火の壁は横列展開するヨハンナ艦隊の前面を叩き、エネルギー中和シールドに均等な負荷をかけて閃光を閃かせる。
その様子にヨハンナの背筋を悪寒が走った、負荷が均等であれば各所でシールド決壊するのも同時である。それは戦線崩壊の一瞬後に全面的な破滅が訪れる典型的な状況であった。集団というものは小さな損害が連続しても耐えることはできるが、大きな損害を一時に被ればそれを建て直すことは困難である。だがここで後退すれば確実に相手の追撃を受けるし、かといってこのまま前進しても更に大きな破滅が待っているだけだろう。ヨハンナは端正な口元を歪めると、艦隊に一時後退を司令した。
「全軍…砲艦から先に後退せよ。重戦は味方を援護、決して陣形を拡散しないこと。補給部隊は先行して後退し、被弾した艦艇を曳航しながら即時改修に入るように。再編成後再突入準備に入るぞ、急げ」
後退する右翼だが、西ローマ艦隊の守勢は右翼だけに留まらなかった。左翼方面ではゼフェル・クレンダス艦隊が、時差をつけて戦場を迂回していたコルネリウス艦隊に側面攻撃を受けて苦戦中となっている。コルネリウスは艦隊を凸形陣に編成しながらも無理に突撃攻勢は行わず、相対距離を保ち集中砲撃によって敵の陣形に不均衡をつくると、そこに戦力を集中して確実に戦力を削り取る策に出ていた。敵に正面する面積を最小限に抑え、かつ集中砲火の対象とならぬように有機的に機動させる。かなりスタミナを要求される戦法ではあったが、コルネリウスはそれを完璧に制御している。その様は正しく鋭い剣先で獲物を切り刻んでいくかのようであった。
両翼が苦戦する戦況を見て、西ローマは後衛にあったカルレット艦隊に指示が出され戦線に投入される。出身が戦闘機乗りであったというカルレットはこうした広域に渡る戦況にあっても敵陣に突入すべきポイントというものがあることを良く理解していた。レオーナ本隊の後ろから出て右方向にまわり、後退しつつある右翼ヨハンナ隊のすぐ左脇をすり抜けるかのように、艦隊を密集させ高速で前進、突撃攻勢を敢行する。行動は迅速で、艦隊の移動も速い。
「ヨハンナちゃんも休んだらすぐに来るんだな。女っ気が減ると戦場が寂しくて仕方がない」
この期に及んでも元同僚の神経を逆撫でするような通信を発してカルレットは前進する。だが、軽薄な通信があろうとなかろうと東ローマにとってカルレット艦隊の投入は座視できる事柄ではなかった。相手の意図は明白で、当初予定である右翼ヨハンナ隊で失敗した一翼前進戦法を今度はカルレット艦隊によって成立させようというのである。東ローマは現在ピナル艦隊が大損害を受けて後退しており、右翼コルネリウスも完璧な艦隊運動で優勢を保っているが未だ決め手には欠けている。今ここで、カルレット隊の突入を許す訳にはいかなかった。
「女っ気がお望みのようで?生憎こちら好みの殿方ではありませんが」
「おや盗み聞きとは女性の趣味に相応しくない」
機能美に優れる戦艦ハイラントのシルエットを中心に、カルレット艦隊の前面に展開したのはダリア・ハルトロセスの遊軍部隊である。カルレットとしてはおどけて見せながらも相手の迅速な対処に心の中で舌打ちせざるを得ない、これで一翼前進戦法は完全に封じられたことになるのであった。一方でダリアも相手の前面に展開し、最悪の事態こそ防いだものの狭隘な戦場で艦隊を横に展開しなければならず、密集して機動力を確保しているカルレット隊に遅れを取ることになる。既に散発的な砲火が交えられ始めていたが、本来展開陣形の真骨頂は艦列を統御しての一点集中攻撃である。
だが狭い宙域で有機的に動き回るカルレット隊の座標を捕らえきれなくなる、その苦戦を承知でダリアが戦端を開いたことにも理由がない訳ではない。相手の一翼前進戦法を遮る、それも理由だが両翼にあるコルネリウスと不死身のガイウス・ヘクトールが優勢にある以上、全体的な戦況としては今の状態は味方に半包囲の好機が生まれたということでもある。ダリアは殊更隙を作って艦列を後退させるが、カルレットも深追いせずに現在の宙域に留まっていた。引きずり込めば左翼のヘクトール隊が更に側背に回り込むことができる、思惑の外れたダリアは一旦安全宙域に達したところで艦隊に再編を命令、自分はひと息つくために懐から景気づけの水が入った瓶を取り出すと口に含んでいた。
「お互いに、思う通りに行くならそんなに楽なことはないのよね…」
>8.剣と盾は悩みを持たぬを見る
>地中海英雄伝説の最初に戻る