9.主よ汝を我ら讃う
後世、テッサロニケ事件と称される騒乱は、表面だけを見れば世俗の剣闘騎手を時の皇帝テオドシウスが処刑した、皇帝が民衆の俗事にまで介入する愚挙であるかのように扱われている。だがその実態が東ローマ帝国を統括するテオドシウスと、西ローマ司教アンブロシウスの対立が表面化した事象にあったということは、当時誰の目にも明らかとなっていた。司教として東西を問わず、民衆への強い影響力を持つアンブロシウスの存在は既にテオドシウスにとって黙認できるものではなく、そして西ローマ司教の布教活動に対する東ローマ皇帝の干渉は東から西への敵対行為以外の何ものでもないのである。
惑星テッサロニケのあるマケドニア星系で行われた両軍の激突は双方に多大な損害を与えながらも、西ローマ軍は当初の目的であったマケドニアおよびギリシアへの進出を断念し、そして東ローマ軍は同星系の維持とテッサロニケの鎮定に成功する。これで双方を隔てる場所はアドリア宙域、そこは先に「アドリア宙域遭遇戦」と称される政治的に引き起こされた会戦が行われた場所であるが、次に行われるであろう対決は、もはや偶然の遭遇を装うことはできないであろうと思われていた。
† † †
アドリア宙域は幾つかの危険地帯こそ存在するものの、全体的には穏やかな空間を幾本もの星間航路が貫いている場所である。イタリア星系とマケドニア・ギリシア星系とを隔て、古来より東西を隔てる重要な宙域としての存在を主張していた。
戦艦アピキテルの私室にあって、ヨハンナ・ガリアヌス中将は思い詰めた顔で船窓越しの星々の海を眺めている。先の会戦での損害と戦績不振は少なくとも彼女にとって無視ができるものではなく、信仰心にも厚い彼女は戦術書と祈りに日々を捧げていた。東西を問わず、ローマでは伝統的に損害の責を指揮官に負わせることはなく、敗戦の責は次の勝利で償えば良かったし、勝者への報償も栄誉によって替えられる。それは人間が常に人民の代表者であり、無謬の存在ではないことを示すためであったが、ヨハンナの信仰心は罪に対する咎を意識せずにはいられない。
「人の力を全て用いても勝利に足りぬのであれば、主よどうぞ私にそれをお示し下さい…」
彼女は知らない。古いローマの神は人を導く者ではなく、自ら生きる人を助ける者であったことを。今や司教アンブロシウスに代表される、新しい教えは古いローマの神々を放逐していたが、彼女の信じる神は人を導く新しい神であった。昔の神々は歴史の中に埋没し、それを知る者は少なく、信仰する者は更に少ない。ヨハンナの同僚であるカルレット・ザリエルも昔の神を知っていてももはや信じてはいない、そんな一人だった。最も、彼は昔の神どころか今の神にさえも敬意を払っているとは言いがたいが。
「かつて古いローマの祭りでは万人が自由だった。誰でも好きなモノを食い、好きな所へ行けて、誰と恋を語ることだってできた。未亡人よし娘っ子よし、人妻もまたよし、とね」
「おやおや、あんたも戦場よりベッドでの戦いがお好みという輩かい?」
「それはもう。勝つことも負けることもある戦よりも、負けない戦が好きなのは致し方ありますまい」
映像越しに、脚色した古い詩人の言葉を投げ合いながら、西ローマ艦隊総司令官である「海賊女神」レオーナ・シロマーサは同僚であり部下である将官の不埒な言に小さな笑みを浮かべている。かつてカルタゴ宇宙連邦を撃破した時代には、ローマは拡大の途上にあった。後に拡大した版図を巡ってアントニウスと派遣を争ったオクタヴィアヌスがローマを完成させ、偉大なる皇帝アウグストゥスとなった。だが、完成したローマは長い統治の時代を経て今は東西に分裂し、互いが争いを求めている。少なくともローマの軍人がローマ以外の者とだけ戦っていれば良い時代は、遠い昔に過ぎ去ってしまったようだ。
東西ローマ軍がそれぞれアドリア宙域に艦隊を進めていることは既に確認されている。そこに戦略上の意図は無く、西ローマの目的はテッサロニケを経て勝勢に意気挙がる東ローマを討つこと、東ローマのそれは勝勢を活かしてアドリア宙域に進出することであって、それはただ政略上の決定であり現状に身を委ねた結果の選択に過ぎないのだ。だが、戦場にある将官や兵士たちには共通の予感めいたものがあった。
「これが政略上の激突であれば、この一戦で優劣は決まる。西が勝てば教会が皇帝を抑えるし、東が勝てば西はその保護下に入るだろうよ。まあ白黒はっきりしないよりは余程いいさ」
それだけ言うとレオーナは全軍の編成案と戦場までの航路をカルレットに伝え、後は部下に任せたとばかりに通信スクリーンから姿を消してしまった。既にアドリアへ向かう星間航路に入ったとはいえ、戦場予定宙域まで未だ数日はかかるであろうし途中で中継基地への立ち寄りもある。非番の日は部下の部屋になだれ込んでベッドを伴にしている、とまことしやかに噂される総司令官殿もあれで苦労をしているらしい。その言葉を口には出さず、ひと息を吐くとカルレットもまた部下に編成と航路を任せて艦橋を後にすることにした。彼にしたところで謹厳でも謹直でも無い、軍人としてはあまりに異端な総司令官の右腕なのだ。
† † †
テッサロニケの制圧とマケドニア、ギリシア両星系の鎮定により東ローマはこの際に西ローマを屈服させるべく、アドリアに軍を進める。その意図が会戦の結果そのものによって政治的な優位を得ることにあることは疑いようもない、莫迦げた見栄だ、と思いつつも東ローマの誇る四人の指揮官は艦列を並べ軍を進めている。戦の根幹にもとる、と言われながらも互いに連携して戦歴を重ねてきた、東ローマの四将軍の艦列であった。
「敗軍が攻めて来ると?返り討ちだ返り討ち」
戦艦ヴァスパシアンの艦橋で豪快に笑う、ピナル・アルトゥア中将の豪語も故なきことではない。先のテッサロニケで苦戦の末に、常軌を逸した突撃戦法によって味方を窮地から救い出したのはこの老提督なのである。四将軍はその位階こそ中将と同じであったが、彼らの個性となれば四者四様であった。粗野で神経質な老人ピナル、没落貴族出身の若い野心家コルネリウス・アエミリウス、酒は命の水と称する女性指揮官のダリア=ハルトロセス、そして彼ら個性的な三名の中にあって常に泰然としながら最大の戦果を上げ続ける「不死身の」ガイウス・ヘクトールである。通信回線を介したピナルの放言に、珍しく声を上げたのがこの不死身のヘクトールであった。
「そうだな、返り討ちにできればそれで全て終わる。だが少々骨が折れそうだ」
この会戦の意味を理解していない者は彼らの間にはいなかった。互いに堂々と布陣して艦隊戦を挑む、その目的は勝利して国家が政治的な優位に立つことである。そしてこの莫迦げた目的のためには、戦闘にはより明確な結果を求められそしてより激しく行わなければならない。無論、犠牲を少なくして戦闘を適度に切り上げるという手もあるだろうが、それは再戦の実現を確実にするだけのことであり、そのような激突が繰り返されることは双方の国力に多大な損害をもたらすだろう。そうなれば東西のローマがともに弱り、周辺の小国に介入する隙を生み出すだけである。
難敵を相手に正面どって戦うこと、軍事ロマンチシズムにあふれたその状況は、叶うことであれば国同士の思惑のないところで迎えたかったことであろう。だが、戦争は常に国同士の思惑によって引き起こされるのだ。
† † †
東ローマ軍と西ローマ軍は双方が予想していた通り、アドリア宙域を貫く航路のほぼ中間点で対峙する。その場所で対峙するために、双方が無言のままに距離を保ち進軍を続けた結果であることは言うまでもないであろう。両軍の陣形は正統な横展開、後衛に遊軍を配備したものであり艦艇数もほぼ同等。東ローマを率いるは不死身のヘクトールを始めとする四将軍であり、西ローマを指揮するは海賊女神レオーナ率いる精鋭軍である。レオーナの旗艦ダイダロスから、東ローマ軍に向けた放送が流れ出した。
「降伏せよ、何れにせよ攻撃はする」
これが後々問題になった「レオーナ勧告」である。耳にした誰もがそれを冗談だと認識し、しかも内容は星間条約にあまりに抵触しすぎる過激なものであった。その言葉に流石に絶句して声も出ない者もいれば、逆に思わず声をあげて笑いだす者もいる。だが東ローマからはこの過激な放送に対する返信はなく、明らかな戦闘態勢を整えたままその距離はやがて狭まっていた。ヘクトールにすれば相手のペースに乗ることを嫌ったのかもしれないが、彼は後々までその時の感想を語ることはなかったという。
反応が得られず、しかも整然とした艦列を崩すこともなく充分な迎撃体勢を布いて前進を続ける敵を前にして、レオーナは心の中で小さく肩をすくめる。こちらの目論見は敵の誘い込みにより迎撃戦を成功させることであり、その為の挑発でもあるのだが、ことはそう簡単にはいかぬようだ。
西ローマ艦隊は左翼をゼフェル・クレンダス中将、中央をレオーナ自身が、そして右翼をヨハンナちゃんことヨハンナ・ガリアヌスが指揮する。対する東ローマ軍は右翼を不死身のヘクトール、中央がピナル、左翼がコルネリウスの指揮となっていた。双方が陣形を布きつつも互いの連携を保ち、ゆっくりとした迎撃戦の速度で距離を詰めている。艦列にはわずかの乱れもなく、幾何的に整然と並んで砲戦の距離に入る、双方がその時を息を潜めつつ待っていた。精密時計で測るかのように相対距離が縮まり、砲戦開始までの予測時間も秒刻みで短くなっていく。
「…撃て!」
射程距離に入った瞬間、双方の砲火がほぼ同時に戦場を往来したが、星間航路を常はありえぬ数万本の光条が行き交っているにも関わらず、戦線には奇妙な程にダイナミズムが欠けていた。双方が万全の体勢で、万全の防備を整えて放った一撃は艦隊前面で完全に弾かれてしまい、飽和したエネルギーの乱流が戦場を走り艦艇を揺り動かす。だが双方がこの機に一気攻勢を図るのではなく、体勢を立て直して更なる砲戦に備えようとしていた。こうして東西ローマが雌雄を決すべく争うアドリア宙域会戦は、大規模ながらも慎重な均衡の中で幕を開けたのである。
「こちらは流れの川下になる。下手な鉄砲を数撃って見るのも手だな」
危うい程の均衡を崩すべく、最初に動いたのは東ローマ艦隊左翼、コルネリウス・アエミリウスであった。放散されたエネルギーの流れを読んだコルネリウスは、その影響が自分たちの眼前の戦場において最も激しくなるであろうことを予測してそこに攻勢の度合いを強めたのである。敵の動きを読むのではなく、そこに近づいた敵がエネルギー流の影響で艦列を乱すであろうことを予測しての砲撃であった。これに晒された西ローマ右翼ヨハンナ隊は損害こそ少ないものの、機先を制され出鼻を挫かれてしまう。
(願わくば…幾万の屍と勝利を捧げんことを)
守勢に立ちながらも、ヨハンナには下がるつもりはないように見える。若いコルネリウスとしてはここで相手の後退を誘い、更に攻勢に出るつもりであったが相手の強固さ、或いは頑迷さに肩をすくめたい気分であったろう。ヨハンナが名誉の為に退くことができないのと似た意味で、御家再興を目指すコルネリウスは栄誉の為に進むことを欲している。激しい砲撃が続くが、両軍が距離を保っているために致命的な展開とはならず、小さな出血を繰り返す状況が続いていた。戦況に血気を制限せざるを得ない、ヨハンナの攻勢が抑えられてややコルネリウスが優勢である、という程度には言うことができたかもしれない。
一方で、他の戦場では膠着しながらも戦況に少しずつ差が現れはじめていた。互いに距離をおいての砲戦、ともなれば堅実に味方を制御する能力の比べ合いであり、精神の削り合いとなることが多い。それはそのような展開が苦手な者にとっては困難を要する展開であろう。
「何というツマラン戦いだ!敵は向かってこないのか!?」
いつものように艦橋で怒号と唾を飛ばしながら、ピナルは鈍重な戦況に不満を感じざるを得ない。その思いは彼の正面に展開する海賊女神も等しくしていたであろうが、彼女はまだしも総司令官という立場上、自分の好戦性を制御する術を知っていた。
「闘いてぇ、闘いてぇ。死ぬなら先に死にてぇでも死ねねぇ。じゃあ闘うか」
不謹慎な鼻歌を不機嫌そうに唄いながら、レオーナは腕を組んで攻勢のタイミングを辛抱強く待っている。彼女を知る幕僚たちから見れば、驚嘆すべき司令官閣下の自制心であったろう。このとき相手が老人であれば積極的になる気もおきないのだ、とは彼女の見えないところで部下たちが囁いたと言われる伝説である。陣形を合わせ、正確に距離を保ち、整然とした砲撃を交わす。互いの損害は少ないが、陣形や相対距離が崩れればたちまち負荷がかかって戦列が削られる。時とともにレオーナは優勢を、ピナルは劣勢を確信するようになっていた。
東ローマ左翼では膠着、中央では劣勢、では右翼ではどうであったか。「不死身の」ヘクトールが率いる精鋭部隊はゼフェル・クレンダスを圧倒とはいかぬまでも完全に抑え込んでいる。士官学校の学生然としたゼフェルは敵の攻勢に晒されると落ちつかなげに視線を泳がせながら、味方の戦線を維持すべく懸命に指揮を行っていた。
「横列を維持、陣形を崩すな。このまま戦況が変わるまで…」
「前線に負荷が集中しております。このままでは」
「あ、ああ。分かっている、後続部隊と入れ替える準備を」
如何にも自信なさげなゼフェルに対する、ヘクトールは無言のまま艦橋で腕を組み戦況を前にしている。状況には一切の奇策が通じる余地はなく、今は敵を倒すよりも味方を減らさぬことであろう。そしてこの状態で、局面打開には二つの方法があった。一つはこのまま膠着状態を推移させて優位な体勢を時間をかけても成立させる方法、もう一つは定番だが別働隊による遊撃戦による戦局の変化である。戦艦ハイラントの艦橋で、ダリア=ハルトロセスは既に戦場を大きく迂回しつつあった。
「戦線が膠着している。景気よく行きましょう」
別働隊による側面攻撃は戦場における必勝の型のひとつである。指揮卓で景気づけのグラスを煽って、突撃を敢行する様は些か演出過剰なきらいもあったが味方に勢いをつけるには充分であった。眼前の戦場を捕らえ、全艦に一斉砲撃の準備を行う。上げた手をダリアが勢いよく振り下ろそうとした瞬間、オペレータが悲鳴を上げた。
「2時方向よりミサイル軍、接近!」
「…早いね、中年は」
それが西ローマ軍後衛、カルレットの即応による急襲であることをすぐに理解したダリアは、直ちに急襲を断念して戦列を揃えると敵軍に向き直る。その流れるような動きは見事なものであったが、中年と称されたカルレットにすれば目的はダリアに急襲を断念させることのみで良かったのである。
「長距離射撃だけでいい。ご婦人を焦らしてさしあげろ」
カルレットの号令により西ローマ軍は万全の体勢で艦列を整えると、距離を保っての砲戦に終始する。戦場を迂回して長駆してきたダリア艦隊にすれば鋭鋒をすかされた恰好であり、突撃戦法を止められて勢いを削がれた感は否めない。いっそ当初の思惑どおり景気よく突撃すべきだった、と今更の後悔がダリアの脳裏をよぎっていた。
こうして全体として戦況は膠着しつつ、だが連続した砲撃による交戦は続いていて双方が艦列と神経とをすり減らされていく。こうなれば局面の変化はゆるやかな状況の変移を待つしかなく、各指揮官は苛烈な戦闘指揮を続けながらも、奇妙にダイナミズムに欠けた状態を引きずったまま鈍重な戦闘に耐えるしかなかったのである。神も主も人に答えることがないまま、幾万の死も、勝利も未だおぼつかない時が過ぎていた。
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