ー 七支刀が贈られた背景と、大量の渡来人難民 ー








 
 DNA遺伝子分析によると、日本列島の縄文人の世界に弥生人が侵入し、両者が交配した時期は、3000年程前の弥生時代よりも、
 1600年程前の AD400年代の古墳時代が中心と判明しています。
 この時期、古墳時代(〜飛鳥時代)に、戦乱の半島から平和な列島に、大量の渡来人難民が逃れてきて、日本人の遺伝子に変化が生じています。


 Y染色体DNA分析によると、現代の日本人の先祖は 8割近くが縄文人系統D1bO1b)で、その他1割強が 漢人その他(O2)になります。 
 その他1割強が、AD400年代に、戦乱の大陸・半島から、難民として大挙して逃れてきた
漢人系の難民です。
 その様相を追ってみました。


  (注)Y染色体ハプログループの表記法が変わり、縄文系のD1bは D-M64.1になり、O2もO-M122 になっています。






(はじめに)


無風状態だった朝鮮半島が戦乱に巻き込まれ、その影響で 数多くの渡来人難民が 列島に押し寄せることになりました。

その原因は高句麗の南下とされています。 何故 高句麗が南下を始めたのか? その理由が必要です。

中国北部の諸民族が高句麗を圧迫し、高句麗の南下を促す戦乱が生じた為、
その地域(中国東北部〜半島)に移住していた漢人たちが、一斉に倭国に避難し始めた、と考えられるのです。
漢人たちは、古くは秦の始皇帝(BC221〜BC210)時代、万里の長城建設に大動員され、秦滅亡の混乱で半島などへ流入し、居住してました。

この「半島の戦乱」はどのような規模と経過を辿っているのだろうか? 
高句麗を中心にした視点から、追ってみます。





(1)経過

204年〜313年の109年間、漢人によって朝鮮半島の中西部に帯方郡が置かれました。
楽浪郡の南半を割いた数県と、東の濊、南の韓、南端の倭(半島南端)がこれに属しました。

・189年 後漢末、中国東北部の遼東太守となった公孫度(漢人)は、後漢の放棄した朝鮮半島へ進出、平壌付近にあった楽浪郡を支配下に置いた。

・204年 公孫康は、楽浪郡18城の南を割いて帯方郡を分置。土着勢力の韓・濊族を討ち「是より後、倭・韓遂に帯方に属す」と統治体制を築く。

・237年 公孫氏は魏に反旗を翻し独立を宣言。遼東の襄平城で
燕王を自称。帯方、楽浪も燕に属した。

・238年 
魏の司馬懿は四万の兵で公孫氏の襄平城を囲み、兵糧攻めにし、和平を許さず、公孫氏を滅ぼす。 
      司馬懿の戦後処理は苛烈を極めた。中原の戦乱から避難してきた漢人の人々が大量に暮らしていた遼東は、反魏の温床にはさせないと、
      襄平の住民を、避難民と地元民を分けさせた。次いで、地元民の15歳以上の男子7000人余りを殺して「京観」を築き、
      さらに公孫淵の高官たち2千余人も殺害した。

⇒このジェノサイドで、半島北部の人心は将来を不安視するようになった。漢人系の人々は反動(報復)を怖れるようになった。

・239年 卑弥呼は難升米を遣わし、魏に朝貢する。


4世紀初め以来 中国の北半分は「五胡十六国」の分裂時代に入り、遼東地域は
前燕 (鮮卑族) 王朝が占めていた。




・313年 遼東を征服した
高句麗(ツングース系貊族)が南下して、楽浪郡を征服し、漢民族の直接支配が終わった。

⇒ 中国の戦乱を逃れて流入した漢人や、楽浪郡の多くの漢人系は、高句麗により中国本国から切り離されたので動揺が生じ、
  戦乱のない列島へ難民となる直接の契機になった。



・333年 
前燕(鮮卑) の幕容廆が死去し、慕容皝・慕容仁が後継で争い、慕容仁の家臣が高句麗に亡命し高句麗が反対勢力の受入先になり、
     前燕はそれを危険視し、高句麗に対し軍事行動を起こす。

・339年 前燕は高句麗に侵略する。

・342年 
前燕は高句麗を攻撃し、王都・丸都を占領。高句麗の故国原王は単騎で逃走。
     丸都を制圧した前燕軍は前王・美川王の墓を暴いてその遺体を持ち去り、王の母と妃を拉致し、財宝と人民を略奪し去った。

・343年 高句麗は前燕に服属し、美川王の遺体を受け取ったが、母親は355年まで人質で帰されなかった。

・344年 前燕は宇文部を滅ぼし、東北方面に確固たる地盤を築く

・364年 前燕は、東晋(漢族)から洛陽を奪い、366年までに淮北をほぼ制圧し、全盛期を迎えた。

  〜〜〜〜〜

・369年 
東晋が、遼東地域の前燕への攻撃にふみ切った。

・369年 前燕が動けない状況を見計らって高句麗の故国原王が2万の軍をもって南下した。百済の近肖古王は、雉壌で迎え撃ち撃退した。

・369年 
新羅遠征軍(荒田別・鹿我別の東国軍中心)は、新羅金城を落とし、加羅国等7カ国を平定し、南蛮の耽羅(済州島)を滅ぼして百済に与えた。
      このとき、百済王 肖古と皇子 貴須は4つの邑を降伏させ、倭国軍と合流し、百済国に行く。

・369年 
百済は、東晋による前燕への攻勢情勢をみて、東晋に接近し、冊封を受けて東晋の同盟下に入り、「七支刀(参考)」を賜る 。

・370年 
前秦(氐族)は、6万の軍を動かして前燕に攻勢をかけ、前燕も40万の軍で対戦した。
       しかし、主だった都市が次々と攻められ、11月には苻堅率いる10万の侵攻を受けて首都は陥落し、
前燕は滅亡





・371年 前燕の滅亡で背後の憂いがなくなり、
高句麗が百済に侵攻。
     
百済は逆襲し、兵3万で平壌城を攻める。高句麗王は流れ矢にあたって戦死

・372年 百済は正月に東晋に朝貢し、その六月に鎮東将軍・領楽浪太守に封じられる。
    
百済は倭国と同盟を結び、「七支刀」を倭国に贈る。(同盟の成立)  東晋ー百済ー倭国 (同盟関係)

・377年 高句麗は新羅・奈勿王を随伴して前秦に朝貢。          前秦ー高句麗ー新羅 (同盟関係)

・383年
 淝水の戦い 前秦(長安)苻堅が、天下統一を目指して 歩兵60万、騎兵30万の軍勢を動員して東晋(南京)(8万の兵)を突こうとし、淝水で大敗する。
      前秦は、351年建国 〜 383年 淝水で大敗 〜 385年 苻堅は殺害される 〜 394年滅亡 を辿る。

・385年 前秦の大敗で高句麗は兵4万で遼東を襲い、遼東・玄菟を落とす。




⇒ 上記の一連の戦乱で、半島在住の漢人系住民に深刻な動揺が生じ、これが380年代以降の、大量難民となる契機になった。


 
 @380年 辰韓から、
弓月君が127県18,670人を引き連れ来日 秦始皇帝三世孫の後裔
       弓月君は、
秦氏の祖と言われ、秦氏は、応仁天皇の時代から登場する一番古い漢人系氏族です。

 A386年 帯方郡から、阿知使主が一族17県の民を引き連れ来日 両者は倭国の朝廷の助けを受けて移住。
       阿知使主は、
東漢氏の祖と言われ、東漢氏は応仁天皇の時代から登場する一番古い漢人系氏族です。


  この時代の大陸/半島の住民は、戦争に動員させられました。なかには、耐えかねて他国に逃げ出す例も記録に残されてます。
  (373年 百済の禿山城主が新羅に投降。 399年 百済は、高句麗征伐の為に兵馬を大いに徴発したので、民はこれを嫌がり新羅に逃げた。)
  弓月君の大移住には途中 新羅が妨害し、朝廷が数年がかりで実現しました。

  この後、高句麗・好太王の時代(391〜412年)に半島は全面的な戦争状態になり、更に多くの難民が倭国に渡来しました。
  難民となった彼らは、朝廷の使役に従って、土木工事に従事しました。
  5世紀出現の200m級巨大前方後円墳群・佐紀盾列古墳群、その後の更に巨大な百舌鳥・古市古墳群は、これら渡来難民によるものと推察します。
  当時の農民は人民(おおみたから)であり、ご陵の造成に従事するより、難民を養えるだけの食糧増産の方が重要な役目です。


渡来人難民の活躍については、古事記 仁徳天皇(397年〜427年)の項に、次の記事があります。
 『秦人に命じて
 茨田の堤と 茨田の三宅を造り、
 和邇の池と 依網の池を造り、
 難波の堀江を造って海に通じるようにし、
 小橋江を堀り、
 墨江の津 を造らせた』

秦人は、渡来人の呼称で、墨江の津は、難波津の港のことであり、国際港であり、大工事だったと思われます。





(2)好太王時代 (「私の歴史年表」より)


・384年 後燕が建国(前秦の淝水での大敗後、前秦の将軍だった慕容垂によって建国)



・391年 高句麗 広開土王(=好太王)即位。
     好太王碑文に ”
倭、391年に海を渡り百済・新羅を破り、臣民となす” と記される

・392年 好太王を頼み、
新羅・奈勿王は高句麗に質子を送る。 (次代の王・実聖 392年〜401年)

・394年 応神天皇死去

・396年 
好太王は漢江を越えて百済に侵攻。58城700村を陥落させ、百済王に隷属を誓わせる

・397年 第16代 仁徳天皇 (讃)即位

・397年 仁徳天皇の即位を知り、
百済、太子を倭に質子として送り支援を要請(阿花王の王子・腆支 397〜405年)

・399〜400年 
倭国は百済救援で半島に出兵(好太王碑文)し、新羅金城を包囲。
       高句麗・好太王は5万の大軍で支援に南下したが、その隙に本国が後燕に襲われて退却。

・400年 
後燕は兵3万を率いて、高句麗の背後を突き、新城、南蘇城を落とし遼東を占領。

・401年 高句麗は(
後燕との戦いで国力を消耗し、新羅支援ができず)、人質の実聖を返還する

・402年 高句麗は(
後燕との戦いの為) 倭国と和平交渉し、鉄の盾、鉄の的を奉る

・402年 高句麗は後燕の宿軍城を攻め、陥落させる。

・402年 高句麗から帰国した
新羅・実聖王は、倭に質子を送る。 (奈勿王の王子・未斯欣 402年〜417年) 
    (倭国 X 高句麗の戦の最中、首都を倭軍に落とされた為 又、高句麗が後燕との戦で新羅を顧みられない為)


・402〜403年 
一時平和な為、高麗・新羅・百済から戦火を避けて多くの難民が渡来。朝廷は池などの土木工事にあたらせる。 
         
難波堀江、茨田堤築造、山城に大溝、和爾池、横野堤、小橋、大道造作。石河の水を引く、など


・404年 
倭国は高句麗の帯方界に侵攻(好太王碑文)するが、好太王の反撃で退却。高句麗は背後の後燕の為に倭国軍を深追いできず。
     好太王は、南下遠征の失敗の代償が大きく、以降 南下は避ける

・405年 後燕は高句麗・遼東城を攻める が勝てず

・405年 
倭国は新羅に侵攻 新羅は謝罪し貢物を送る。

・405年 倭国の
人質となっていた 百済王子・腆支が、倭の護衛により帰国し百済王に即位。

・407年 
後燕は、高句麗・契丹遠征の繰り返して国力を消耗し、国王が将軍に殺害され、滅亡

・410年 後燕滅亡により好太王は東扶余を屈服させ、領土を拡大

・412年 
新羅・実聖王、高句麗に質子を送る。奈勿王の第2王子・卜好 412年〜418年

・412年 好太王が死去(39歳)

・414年 高句麗・広開土王碑(=好太王碑)建立  

※※ 以上が、好太王の時代の事柄  ※※

・417年 新羅・訥祇王即位 (
倭への質子・未斯欣 が監視を逃れて帰国。即位には高句麗の支援あり)

・420年 が建国。 (後秦を滅ぼした将軍劉裕が、東晋から禅譲を受けて皇帝・武帝となり宋を建国 : 東晋が滅ぶ)



・421年 倭王・讃(仁徳天皇)が宋へ遣使を送る








半島を巻き込んだ戦乱の最後は、668年 唐と新羅の連合軍が
高句麗を滅ぼして終了します。
唐軍は20万人余、新羅は7千人の捕虜(奴隷)を連れて凱旋し、高句麗は( BC37年〜668年の)700年続き滅亡しました。
これを最後に、列島に流入する渡来人は無くなり、その後、日本人の遺伝子に影響を与えるほどの渡来人は無かったのです。


 ※高句麗滅亡で渡来した遺民たちは、今も日本で健在です。→「高麗の若光について



 
 (あとがき)

 戦乱を避けて倭国に難民として渡来した人々は、朝廷の土木工事などに従事し、平和な日本で子孫を残すことが出来ました。
 私は、半島にいた漢人のほとんどが、倭国に避難して来たのではないか、と推測しています。
 列島の縄文人は、渡来人難民を受け入れて、縄文人社会に融和させ、現在に至っています。

 漢人系が大量に渡来してきた当時の、百済、高句麗、新羅は 遥か昔に滅亡し、一方 倭国は現在に至るまで続いています。
 理由は、@大陸とは海に隔てられた島国という立地、A天皇と言う民族の拠り所となる権威の存在。によります。
 天皇の居ない国は、時の経過によって縫い目がほつれるように、バラバラになっていきます。








(参考) 七支刀


下の写真は、刀匠・河内國平氏(83歳)が復元した七支刀で、2024年の氏の作品展の記事からです。

七支刀は、そこに記された銘文から、百済が東晋に朝貢して冊封を受け、東晋がその際に贈ったものと推論します。
銘文の内容は、七支刀は369年(泰和四年)に造ったもので、百済の国王と世継ぎが、晋の皇帝の傘下に入った記念に造った、という内容です。
372年に、百済は倭国と同盟し、この七支刀を模倣(又は改造)したものを倭国に献上した、と考えます。

七支刀の銘文  (浜田耕策氏解釈)

表面文字 【泰和四年十一月十六日丙午正陽造百練鋳七支刀出辟百兵宜供供侯王】 
解釈 【泰和四年(369年)十一月十六日丙午の日の正陽の時刻に 百たび練鋳し七支刀を造った。
    この刀は出でては百兵を避けることが出来る。まことに恭恭たる侯王が佩びるに宜しい。】

裏面文字 【先世以来未有此刀百濟王世子奇生聖晋故為倭王旨造傳示後世
解釈 【@先世以来、未だこのような刀は、百済には無かった。
   A百済王と世子は生を聖なる晋の皇帝に寄せることとした。
   Bそれ故に、(
東晋皇帝が百済王に賜われた)「旨」を倭王とも共有しようとこの刀を「造」った。
   C後世にも永くこの刀(
とこれに秘められた東晋皇帝の旨)を伝え示されんことを。】 

 七支刀は369年に東晋で造られ、東晋皇帝から百済王に、369年の冊封の際に贈られた。
 372年に倭王に贈られた七支刀は、百済で模倣されたもので、Bで銘文を少し変えて贈られた、と推察します。
 369年に荒田別・鹿我別の倭国軍と百済王の親子は合流して百済に入ってます。
 これが同盟を考えた具体的な契機でしょう。




  本稿は、facebook「古代史研究会」に投稿(2025年6月9日)したものを纏めました。



(参考) 私の歴史年表 
     古代史の復元 


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