2015年9月25日(金)


前方後円墳の形状は不思議だ。 何の象徴か、説を調べてみた。
ところが、象徴でなく、弥生時代の墳墓から、祭礼の場の機能などが付加され発展したもの、という機能の進化説 が有力らしい。

古墳時代の幕開けに、全国で一斉に始まった時代のエネルギーを 感じないのかな、と思う。 
静かな進化が起源では決してない。




象徴も色々とある。


  「古代史の復元 」 が云う

 前方後円墳は、三輪山の山頂から昇る太陽の姿  が正解  と感じている。

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(箸墓古墳で) 前方後円墳の形状を決定づけた卑弥呼は、三輪山の神と結婚することによって (倭迹迹日百襲姫から) 卑弥呼となったのであり、

  卑弥呼の墓の形状は、三輪山がシンボライズ されたものでなければならない。





三輪山は、この後 大和朝廷のシンボルになったが、もともとは、大物主(=饒速日尊)のご陵


 ・卑弥呼は、冬至の日に三輪山の上から太陽が昇る姿が見られる地・纒向に宮殿を造営し、そこで祭祀を行った。
 ・卑弥呼になる儀式も、冬至の日に大山(三輪山)の上から太陽が昇る姿が見られる地 (米子市淀江町 [ 旧大和村] 小波の三輪神社の地) で行った。

      
   卑弥呼誕生の地の特定 ( 2011年10月05日)



※ 冬至の日 (一陽来復)は、古代にあって 1年の始まりとなる日。
※ 出雲に近い淀江の地の他に、 大和(三輪山麓)と、吉備(正木山・麻佐岐神社)で卑弥呼誕生の儀式は行われた。





卑弥呼誕生の儀式とは? 
その権威の源泉とは?


7年にも及ぶ 倭の大乱の後、和平を仲介した大和の 倭迹迹日百襲姫 (やまと ととひ ももそひめ :孝霊天皇の娘) が、和平の執行者として 大和・出雲双方から共立され、
大物主神 (=三輪山の神=饒速日尊) と結婚するという儀式 (大和と出雲の和平の儀式) を経て、卑弥呼(日霊女)になった。

神の妻という、天皇よりも高い地位に就いたのは、187年冬至のこと。



三輪山の神は 出雲の神。 ( 饒速日尊は スサノオの子)。






前方後円墳は、太陽の〇 と 三輪山の△ を合体させた形状で、卑弥呼のシンボル



宗教象徴学が専門のロバート・ラングドン教授(ハーヴァード大)なら、納得してくれると思うw









前方後方墳 は、前方後円墳の造り方を基にし、円を遠慮して四角にした シンボル。


四角は、出雲の四隅突出墓がモデルかも知れない。
出雲をルーツとする実力ある首長たちによって採用されている。


古代中国の「天円地方(円は天、方形は地を表す)」もあるが 理念過ぎで、人の心を捕えるシンボル足り得ない。



注: 埋葬される人の出自により、
  出雲系(ニギハヤヒ系・物部系など)は前方後方墳、大和系(アマテラス系・天皇家系)は 前方後円墳 と定められたが、
  共に、(出雲と大和の和解の象徴である)吉備系の 大型特殊器台 が祭祀で使われた。
  →沼津・高尾山古墳(3C前半・前方後方墳)雑感 追補   (2016/2/24)









追記ー1 箸墓古墳は、何故 この場所に築造されたのか?



箸墓古墳が築造された場所は、何処でもよかった ではなく、三輪山との関係で この場所でなくてはならなかった。 という理由があるハズだ。
当時の人々には自明であっても、今の我々には分からない理由が..


三輪山の上から太陽が昇る方位は(北回りで)

     
118度   冬至     12/28  卑弥呼の宮殿が位置してる
110度   立春  02/04 農耕の起算日
100度   ?? 02/27 箸墓古墳が位置してる
 90度   春分 03/20
 80度   ??  04/10
 70度   立夏 05/04 箸墓古墳の主軸方向
 60度   夏至 06/22 大神神社が位置してる
     

 となる。


箸墓古墳の上で、三輪山から太陽が昇る姿が見える日は、2月27日になる。
(冬至の日から数えて61日目で、二十四節気の雨水と啓蟄との中間。)





■ 仮説  うるう日の観測拠点

箸墓古墳は、農耕に必要となる、太陽の軌跡の観測地点に築造された。

農耕暦は太陽のサイクルで、その起算日 は 2/4の立春の日。
ところで 4年に1日 うるう日が生じて調整しなければならない。

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普通、太陽の観測所は (周囲から昇る冬至、立春、春分などの位置を観測する) 1ケ所で済む。
しかし纒向は、卑弥呼の夫・三輪山を中心とする特殊な祭祀都市のため、観測所は常に三輪山からの太陽を観測する、
@冬至の日の観測所 (宮殿で事足りる
A立春の日の観測所 
Bうるう日(修正)のための観測所
に分散配置された。
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立春を過ぎた 2月27日に、(春分の前に)三輪山の山頂から昇る太陽の位置を観測して、
うるう日(2月29日)追加の是非
を判断するのは、卑弥呼(日霊女)だけの役割だった。

卑弥呼の墓を何処に造るか問題になった時、そのBの観測所の地がふさわしいとなった。
後継の祭祀者は、箸墓古墳の上に移された施設で三輪山から昇る太陽の姿を観察し、4年に1日 修正していたことだろう。

Aの立春の観測所の遺構は 今も日の出ライン上にあるはず
   三輪山 ー 纒向川 − 箸墓古墳

  (2015/9/29)


この仮説のようにはならない、と (計算した) 知人に指摘された!

これは
平面上での太陽の軌跡で、実際は写真のように三輪山と箸墓古墳の距離は2.5`と近く、箸墓古墳から山頂を見上げる仰角が大きく、
2/27は、山頂に太陽が達する迄に無視できない角度誤差が生じ、
山頂からの太陽にはならない、と。
追記ー1は、魅力的に思えた仮説だったが、残念だった。
 (2015/10/11)


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箸墓古墳が築造された場所は、何処でもよかった ではなく、この場所でなくてはならなかった。 という理由が判明した。(2016年5月)
箸墓の位置は、夏至の祭祀地であった。それも、三輪山ではなく、穴師山に向かっての祭祀地であった。
その祭祀地に、穴師山の山頂を仰ぐように、箸墓は設計され築造され、卑弥呼は葬られた。
理由は..  追記ー2 注A     (2018/8/28)

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追記ー2  箸墓古墳の向き を考えてみた。


箸墓古墳の主軸は、三輪山を向いておらず、それから 約30度 北を向いている。 何故だろう?
立夏に太陽が昇る方向なのだが、角度など、あれこれ仮説を立ててみたがうまくいかなかった。


結局、 前方後円墳は、その威容を 見せる のも大事な目的と思うので、
その土地の地形に従って、よく見せるための向き を採用した、と結論づけた(笑)


その後 閃いた!  見せる は、人だけじゃない。 三輪山の神様にも見て戴くのだ。 妻のご陵なんだから..
美しく見て戴くには、頭を向けてるのでも、真横でもなく、斜め30度位がイイのだ。  神様から美しく見える向きが、事の真相だったりして(笑)
   (2015/10/2)


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※注A
上記時点では、箸墓古墳の向きの意味は分かっていなかった。
その後、卑弥呼が鬼道で定めた宮殿群のラインの意味が判明し、併せて箸墓の方位の意味が判明した。 
纒向の卑弥呼の宮殿を考える 考察ー6 →卑弥呼の宮殿の傾きを推理する → 追記 )
(2016/5/9)








追記ー3


  箸墓古墳の 墳長は 276m。

  この途方もない 箸墓古墳のサイズはどのような根拠で定められたのか?


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大和朝廷は当時 連合国家の盟主であり、墳長は、構成するクニの数に関係するのではないだろうか?

卑弥呼の墓の築造には、全国のクニから人々が纒向に集まって来て 参画していた。

 クニの数 X 基準数値  がエンジニアによる設計仕様。


@クニの数

・紀元前後は 100余国 (漢書地理志)。 
・107年、第4代 懿徳天皇の時代は160ケ国。
 天皇(帥升)が後漢に生口160人献上とあるが、これは160ケ国からなる連合体から 1人のことだろう。 (後漢書東夷伝)
・249年(卑弥呼没年)には 160カ国+α。 αは2割として、 本仮説では190カ国 とする。


A基準数値

 魏・晋時代の一里は300歩で魏・晋時代の1里は435.6m。 1歩はほぼ 145cm ウィキペディア 箸墓古墳 )。
 この時期、魏の張政の一行が来日し、大和に滞在し、技術も伝えている。 基準数値もその影響だろう。

 190カ国 x 1.45m =276m  墳長は276m。

※卑弥呼の墓の部分(後円部)は150mで 「径百余歩」   (魏志倭人伝)
  知識ゼロからの古墳入門 広瀬和雄 幻冬舎 P108より



 倭国を構成する 全てのクニの共立によって、卑弥呼の墓を造ろう
、という意志で、276mの巨大なサイズが決められたのだろう。

  卑弥呼が誕生したときと同じように...

  (2015/10/05)







 < 補 足 >


  魏志倭人伝


 魏志倭人伝の

   卑彌呼以死大作冢     
 卑弥呼以て死す。大きな冢を作る。
 @ 徑百餘歩            
徑百余歩、
 A 徇葬者奴婢百餘人 
     徇葬する者、奴婢百余人。  
 とは、

 @は箸墓古墳の、卑弥呼が埋葬された後円部の直径で、(100歩+α)x 1.45m =145m+α  後円部の直径は150m。

 Aは殉葬(※1)ではなく、徇葬で、葬儀を尽くした者(奴婢)が100余人、ということ。
   卑弥呼に仕えていた100余人の神官が、墳丘の最上部(※2)で棺を囲んで葬送儀礼を行った、ということ。


 ※1 縄文〜弥生まで殉葬(殉死させて葬る)の習慣は列島には無く、古墳時代にも認められていない。

 ※2 後円部は四段築成の上に 小円丘(径約44-46m、高さ4m : ウィキペディア 箸墓古墳 ) が載っている。
     卑弥呼の葬礼が行われた
小円丘・頂上の広場は、測量地図で計算すると 直径が17m前後の円形広場になる。
     葬儀を観察していた魏志倭人伝の筆者が云う通りで、スペース的には、100余人が限度であろう。
  (宮内庁 書陵部所蔵: 公開画像より)


奴婢百餘人と、 神官のことを 奴婢 と書いているのは、中国は(神を殺し、神のいない国で※1)、神に仕える神官がおらず、
また、葬儀を行うのは奴隷の仕事だったので、使節はそのように見たままを表現したのであろう。 (2023/07/18 追加)


【卑弥呼の墓は、径百余歩の円墳と魏志に記されているので、前方後円墳の箸墓古墳ではあり得ない。】 と、語る人が居ます。
今の我々は、円墳だ、前方後円墳だ、前方後方墳だ、とか形式を区別して語っていますが、当時の魏の使節らは、そんな区別は持ち合わせていません。
葬儀が行われる円墳と、その前の葬儀用広場、としか認識していなかったと思います。
径百余歩の円墳と魏志に記述されているのは、箸墓古墳です。



※1:
BC1046年2月3日 殷(商)と周連合軍の牧野の戦いで、殷が滅び、殷と共に神は死んだ。(宮城谷昌光:「王家の風日」)
周は神に代わる天を発明し、以降、中国文明は、天命の名のもとに天下統一という世界制覇の大義名分を確保して現在に至っている。





 墳丘の最上部で葬送儀礼が行われた。


左下の絵では 10余人が祭祀を行っているが、
箸墓古墳の場合は その外周に100人近い神官が棺を取り囲んでいた。

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倭国始って以来の 巨大な構築物の高い頂で、100余人の神官が葬儀を行う。

大王や各地の王たちは、前方部に設営された場所で参列した。

地上では、全国各地から集まった人々が、その葬儀の様を 天高く仰ぎ見たことだろう。


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卑弥呼の この葬儀の様は、またたく間に全国各地に 全住民の間に知れ渡った。

このことが、前方後円墳の築造が全国各地で受け入れられる 原動力となった。

そして 7世紀のはじめに至る350年間に、全国及び朝鮮半島の倭領内で、約 5200基も前方後円墳は築造された。
知識ゼロからの古墳入門 広瀬和雄 幻冬舎 2015/1/20 P53

  (2015/12/06)


        

 <補足> 魏志倭人伝  を終え、徇葬 を 殉葬 と読み替える不自然さ など、 感じたことを しばらく ツイッターで呟いてました。









 < その後 ツイッターで呟いていた諸々のこと >


@ 2016年1月15日


箸墓古墳」 (大阪府立弥生文化博物館 学生社 2015/10/20発行)   1 纒向王宮と箸中山古墳(箸塚) 石野博信 P14  


纒向で3世紀に出土した土器について、九州〜関東までの各地の土器が出土している、と。  少数だが、朝鮮半島北部の楽浪系 と 南部の伽耶系も出土している。
各地から人々が大和朝廷の中心地・纒向に集まっていた。

土器の出自は大阪平野を除くと、@東海 (三重・伊勢)地方、A山陰・出雲地域の順だそうだ。



右の 太く囲われた3C後半の土器は、静岡県・沼津あたり と。

ここは、「高尾山古墳」のスルガのクニだ。


やはり、古代のスルガのクニは、連合国家・大和朝廷を構成する重要なクニだったようだ。









A 2016年1月18日


箸墓古墳」 (大阪府立弥生文化博物館 学生社 2015/10/20発行)   3 箸墓古墳像の再構築に向けて  福尾正彦 P128


箸墓古墳の前方部の一番高い位置から、6世紀後半〜7世紀にかけての祭祀用須恵器・ハソウが出土してる。  と

つまり 300年以上後でも、箸墓古墳は朝廷から どのように認識されていて、どう利用されたか、の謎がある、と。



私の感では、第30代敏達天皇(572年〜585年)が、任那 (562年滅亡) の再興 (父欽明天皇の遺言) を古の神々に祈願したものと。
敏達天皇は新来の仏教より 古来の神々ーアマテラス信仰が篤かった。 纒向に他田坐天照御魂神社を創立してもいる。

第30代敏達天皇は、箸墓古墳の上で、任那滅亡を卑弥呼に謝り 再興を願ったのだろう。



第31代用明天皇は、厩戸皇子(聖徳太子)の父で在位2年と短く、 
第32代崇峻天皇は、蘇我馬子に暗殺される。
そして、敏達天皇の皇后が、第33代推古天皇になる。 皇太子は厩戸皇子。
この時代は波乱万丈だ。






B 2016年1月20日


箸墓古墳について、
第10代崇神天皇(244〜278年)の行燈山古墳が 242mなので、276mの箸墓古墳が、天皇でもない倭迹迹日百襲姫の墓のはずがない、という意見がある。
彼女が三輪山の神と結婚して卑弥呼(185〜249年)になった 「神の妻の位」は、 「天皇の位」 より高い。 が理解できてない。






C2016年2月26日


第10代崇神天皇行燈山古墳の墳帳 242m がどのような基準で定められたか、
で、天皇の年齢を基準 に設計された、とすると ピッタシだった。 (年齢は、古事記を基にした。1年2歳の数え方)

       

第10代崇神天皇 168歳  御陵は行燈山古墳 (前方後円墳)、全長242m 
168歳 x 1.45m=243.6m → 全長 242m 誤差無し


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他の天皇についてもチェックしてみた。

■第11代垂仁天皇 153歳  御陵は宝来山古墳 (前方後円墳)、全長227m 
 153歳 x 1.45m=221.9m → 全長 227m 誤差5m


■第12代景行天皇 137歳 御陵は向山古墳 (前方後円墳)、全長300m
 137歳 x 1.45m=198.7m → 全長300m 誤差100m
 ※この天皇以降は 年齢基準の可能性は無くなる。


さて、卑弥呼は、というと
■卑弥呼  166歳(83歳x2:古代史の復元)  箸墓古墳 (前方後円墳) 全長276m
 166歳 x 1.45m=240.7m → 276m 誤差35m (※卑弥呼の年齢を83歳に訂正して再計算 2018.8.27)


■第9代開化天皇 63歳 御陵は念仏寺山古墳 (前方後円墳)、全長約100m
 63歳 x 1.45m=91.4m → 100m 誤差9m
 ※開化天皇のご陵の比定は、確実と云えるのか?  年齢基準にすると天皇らしくない小さな古墳になってしまう。


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古事記(日本書紀はまた別の年齢) 記載の年齢と 古墳の正確な墳長 の双方には誤差があると考るべきだろう。 それを考慮に入れて、

古墳出現期の 第9代〜第10第〜第11代天皇の墳長は、被葬者の「年齢を基準」に設計された、と言えるのか .. 
第9代開化天皇を除くと 、可能性はある


卑弥呼の箸墓古墳は 前方後円墳が確立された最初の古墳であり、 クニの数が基準になった。
次の崇神天皇の古墳を造る際に、新たにどうするか考えられ、 たまたま長命でそのことが祝われていたので 年齢が基準にされたのだろう。 ( 短命だったら そうはならなかったハズだ )
この仮説は、生前に古墳の築造が開始 されていたら無理だ。





参考 纒向の 卑弥呼の宮殿と 三輪山の方位をチェックする
  太陽の観測施設(考)

リンク ある地点での太陽の出る方角を知る 海上保安庁海洋情報部の『日・月出没計算』サービス


参考書籍 知識ゼロからの古墳入門」 広瀬和雄 幻冬舎  2015/1/20発行  私がお世話になっている本です。



2015年10月10日了   宇田川 東