卑弥呼が亡くなった3世紀半ば以降に、前方後円墳・前方後方墳の築造が全国で一斉に始まった。 出現期の古墳の特徴は、そのクニ初めての人工構造物なので、そのクニ全体を見渡せる 眺望絶景の地に築かれることが多い。 墳丘に立ち、そのクニを見渡すことが好きだ。 杉木立などで眺めがきかない場合もあるが、その時は想像力を働かせて古代を想う。 |
手賀沼の南岸に、出現期の古い前方後方墳があるとわかって、行って来た。
北ノ作2号墳で、3世紀後半と云われている。
卑弥呼の箸墓古墳が築造されたすぐ後になる。
グーグルアースで見ると、古代の手賀沼に突き出た小さな舌状台地上であることがわかる。
北ノ作古墳は、南北に入り込んだ谷の東側に位置する。 谷の西側の丘陵は 手賀の丘公園 になっている。
香取鳥見神社は、沼に突出した舌状台地の上に位置する。 絶景の地だそうだ。 (祭神は、ニギハヤヒ命とフツヌシ命) 神社を三方から囲むようにある水田は、 昭和30年代の開拓前は、手賀沼だった。 北ノ作古墳は、昔の広大な手賀沼の中央に位置していた。 水神山古墳は、 全長69mの前方後円墳で、4世紀後半に築造された |
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この日は、ジャパン・バードフェスティバルの日。
会場地でレンタサイクルを借り、手賀沼の北岸をグルッと東端まで。
北岸から見た 向いの丘陵を。 (北ノ作古墳の丘陵ではないが、こんな感じ。) |
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手賀曙橋を渡って、正面の丘陵にある古墳に向かった。
北ノ作古墳は、手賀沼を一望できる標高20m程の台地上にある。
左: 手賀曙橋を渡って、正面に、2軒の農家の背後に北ノ作の丘が見える。
右: 丘陵と丘陵の間の道に入って、北ノ作の丘を。 突端は断崖になっている。
丘陵の背後に回って、キツイ坂道を上ると 北ノ作古墳に着く。
入り口の標識 | 案内板 後ろは1号墳(方墳)の墳丘 |
杉木立の中で 薄暗い。
北ノ作1号墳 | 北ノ作2号墳 |
古代では手賀沼が一望できたのだろうが、今は杉木立に邪魔されて、かすかに青い湖面が認められるだけ。 残念だ。
案内板にあった 測量図。
断崖上で、眺望が良いことがわかる。
←北ノ作1号墳 ・方墳 ・3世紀後半 ・一辺17m ←北ノ作2号墳 ・前方後方墳 ・3世紀後半 ・全長33.5m |
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古墳を訪れるときは、築造された当時の地形を知る必要がある。 出現期の場合は尚更だ。
で、手賀沼は...と調べたが、家康の江戸入府以降は、手賀沼の歴史は干拓の歴史でもあった。
家康による手賀沼の北を流れる利根川の付け替え。
田沼時代などの干拓の請負工事の歴史。
最後は、戦後 昭和30年代の大規模な干拓。
手賀沼は、昭和30年代に最後の干拓が行われた。 左上が、昭和30年頃の手賀沼 左下が、平成10年頃の、干拓後の手賀沼。 (現在の手賀沼) |
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それ以前の古代ではどうだろうか。
このあたりは、香取の海という、霞ヶ浦、北浦、印旛沼、手賀沼を併せた内海の、西端だった。
東国は、大和に入ったニギハヤヒが、AD45〜55頃に、大阪湾岸の人々を引き連れて開拓を開始した。
印旛沼周辺の開拓が一番古く、次に手賀沼周辺の開拓が行われたと推測している。
その後、成長した 印旛沼、手賀沼周辺のクニの首長は、3世紀後半の古墳時代に入って、それぞれ前方後方墳を築造した。
古代の房総半島 |
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参考(1) : 千葉県の前方後円墳・前方後方墳の編年表 (「神門5号墳を訪れる」 2015.01から)
参考(2): 東国の前方後円墳を巡る(1) 水神山古墳訪問記 収録
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< 追加 >
手賀沼に 52mの 巨大な前方後方墳が存在してる!! (2016年11月12日)
2016年 11月 07日 宇田川 東 |