魔法都市日記(56

2001年7月頃



サルティンバンコのボール


今年の7月は暑かった。地球の温暖化が問題になっているが、確かに私の子供時代と比べても、年々、夏は暑くなっている。起きているときも寝ているときも、24時間、家のどこにいてもエアコンのスイッチを入れないと10分と過ごせなくなっている。

今月、大阪ではシルク・ドゥ・ソレイユやデビッド・カッパーフィールドの公演があり、映画も「A.I.」や「千と千尋の神隠し」「ジュラシックパーク3」などの話題作が上映されている。7月、8月は仕事柄猛烈に忙しいのだが、シルク・ドゥ・ソレイユとデビッドのチケットは春頃から買ってあったので行ってきた。


某月某日

スティーブン・スピルバーグ監督の最新作、「A.I.」を見る。

私には面白かったのだが、インターネットで調べてみると、スピルバーグ監督の作品にしてはいまひとつ評判がよくないらしい。海外の映画評を読んでも、映像の美しさに関しては評価が高いが、内容については何を言いたいのかよくわからないようだ。「夢」や「希望」を期待して見に行くと、裏切られた思いがするのだろう。 しかしこの映画は、時が経つにつれて評価が高まってくると私は確信している。

この映画の全編を通してベースになっているのは、「リアルとは何か」という問いかけである。 ロボットのデイビッド少年が、映画の中で何度も"Please make me a real boy."とお祈りする場面がある。私はそのたびに、「リアルって何?」とデイビッドにツッコンでいた。

近年、ロボット工学が著しい進歩を遂げている。私たちでも入手可能な玩具でも、AIBOというロボット犬がSONYから売り出され、よく売れている。これは発売当初、20数万円という高額なものであったにもかかわらず、初回分は発売後1時間足らずで全部売り切れてしまったそうだ。この犬は人間の言葉に反応して喜んだり怒ったり、様々な感情表現を行う。実際に感情を持っていなくても、「本物」の犬が喜んでいるときのしぐさや、怒っているときの振る舞いをプログラミングしておけば、接した人間には情が移るらしい。

現在、このAIBOがどこまでできるのか詳しいことは知らない。もし、主人が外から家に帰ってきたとき、鍵穴にキーを入れ、ドアを開けようとしている音を聞いただけで、室内にいるロボット犬がそれに反応して、ドアの向こうで主人の帰りを喜び、飛び跳ねたらどうだろう。ドアを開けると同時に、しっぽが切れそうなくらい激しく振りながら駆け寄ってきたら、ロボットとわかっていても、抱き寄せてしまうにちがいない。この程度のことは、今の技術力でも問題なくできるはずである。

AIBOが売り出されたとき、このようなおもちゃを買うのは、一部のロボットマニアに限られるのだろうと思っていた。しかし予想に反して、一人で暮らしているお年寄りなどにもよく売れているそうである。ロボットであっても、こちらの言葉に反応して、それなりの振る舞いをしてくれたら孤独が癒されるらしい。 また、集合住宅では犬や猫であっても、動物と一緒に暮らすことを禁じているところは少なくない。ロボットの犬や猫ならその種の問題はクリアーできるため、売れているのかも知れない。

もう少しA.I.(人工頭脳)のレベルが上がり、ロボット自体の動きもスムーズになると、恋人用としての機能を持ったものも出てくるにちがいない。アメリカ人の夫婦は、毎朝、毎晩、「愛しているよ、ダーリン」と言っているそうだが、これも夫婦、あるいは恋人という絆を維持するための、一種のプログラミングなのだろう。

人間の心は複雑なようで、実際には思っているよりずっとシンプルで、単純なアルゴリズムで動いているにすぎないのかもしれない。ロボット犬がしっぽを振って出迎えてくれるだけでいとおしくなるように、ロボット愛人も、いくつかのポイントを押さえた振る舞いや言葉をプログラミングしておくだけで、実用になる「大人のおもちゃ」ができてしまうかもしれない。

最近はデートをするとき、行く店からデートスポットまで、マニュアル本に頼らないと何も決められない人が増えているそうだ。そのため、その種の本に紹介されている店や場所は、同じようなカップルであふれている。このような人たちは、他人にプログラミングしてもらった行動パターンで動いているだけなのだから、自分自身がすでにロボットになっていると言えなくもない。

A.I.

この映画は元来、スタンリー・キューブリック監督が撮るつもりであったそうだ。それをスピルバーグが引き継いだ格好になっている。私は原作を知らないので、どこからがスピルバーグのアイディアなのかよくわからないが、最初から最後まで、様々な形で「リアルということ」を見るものに突きつけてくる。

つい数日前、人間のクローンが作られるというニュースをやっていた。こうなってくると、一人一人の人間は唯一無二の存在であるから尊重されなければならないという話も意味を持たなくなる。

映画の中でも同じような状況にデイビッドが直面していた。体験も記憶もすべてがコピーされたとき、それでも「私」と言える何かが残っているのだろうか。 近年、「やさしさ」や「癒し」などが流行っているが、それだけでは解決できない心の問題が増えてきている。スピルバーグは、「私とは何か」、「現実とは何か」といった、根元的なところを問いかけることで、見る人に気づきが起きることを期待しているのかも知れない。

映画の中で、時間が突然2000年後に飛び、氷漬けになっていたデイビッドがよみがえる場面がある。ここも見た人の中には、時間の流れが唐突過ぎるという感想もあったが、私はまったく気にならなかった。元来、「存在」や「宇宙」には始まりも終わりもない。

映画の最後の場面で、デイビッドが2000年後によみがえったとき、昔見たある朝のひとこま、それは「母」が台所でコーヒーを沸かし、朝食を作っているごくありふれた日常の一場面であるのだが、そこに戻りたいと祈っていた。あの時間に一瞬でも戻れるのなら、自分は消滅してもよいと言っていた。

人が何かを体験すること、それにはふたつと同じものはない。一刹那即永遠。つまり、いつでもそれは永遠に通じている。このこともスピルバーグは言いたかったのかも知れない。

 

某月某日

Saltimbanco1984年、カナダのケベック州で生まれたパフォーマンス集団、シルク・ドゥ・ソレイユ(CIRQUE DU SOLEIL)が現在日本で「Saltimbanco(サルティンバンコ)」を公演している。今回のツアーは、昨年の10月、東京を皮切りに始まり、福岡、名古屋とすでに終え、現在大阪で公演中である。このあと横浜に移り、丸1年以上を費やすロングラン公演になる予定である。

シルク・ドゥ・ソレイユの公演は世界中でやっているが、常設のショーとしてはラスベガスでの「O(オー)」をはじめ、「La Nouba(ラヌーバ)」「Mystere(ミステール)」があり、これ以外にもツアー公演として「Quidam(キダム)」「Saltimbanco(サルティンバンコ)」「Dralion(ドラリオン)」「Alegria(アレグリア)」がある。

シルク・ドゥ・ソレイユという名前は、フランス語で「太陽のサーカス」という意味である。1984年に発足したときは、ごく少数のパフォーマーが集まったグループにすぎなかったのだが、今ではヨーロッパ、北米、アジアで同時に公演ができるほど大きなグループになっている。「太陽のサーカス」というより、「太陽の沈まないサーカス集団」とでもいったほうがよいくらい大きな組織になっている。

実のところ、私は最近までシルク・ドゥ・ソレイユに関しては何も知らなかった。それでもここ数年、ラスベガスでの「O(オー)」が大変評判がよいため、名前だけはよく目にするようになっていた。当初は一般的なサーカスかと思っていたが、出演するのは人間だけであるため、これまでのサーカスとはだいぶ趣が違っている。一口で言えば、「スーパー大道芸人集団」とでも言えばよいのだろうか。オリンピックの体操競技をめざせば、メダルを取れそうな人たちが大勢集まっている。団員の約半分はロシア出身であるそうなので、実際オリンピックをめざしていた人も多いのかもしれない。

昨年の10月から始まった今回の日本ツアーは、モーニング娘を使った宣伝が効果的だったのか、最初からチケットを手に入れるのが難しかった。予約の段階で、ほとんどのチケットが売り切れてしまっていた。私も半分諦めていたのだが、友人がうまい具合にチケットを手に入れてくれたため、今回見ることができた。

大阪では南港、コスモスクエアー駅を出ると、すぐ前の広場に特設会場ができている。一般的なサーカスでは、円形のテントが多いが、シルク・ドゥ・ソレイユのテントは遠くから見ると、まるでお城のように見える。特に夜、ライトアップされると一層幻想的である。

テント

テントの中にはみやげ物や、軽い食事や飲み物も販売されていた。私は丸いハンカチやボール、CD、ビデオ、パンフレットなどを購入した。このボールは色鮮やかなので、カップアンドボールのクライマックスに使おうかと思ったのだが、カップより少し大きいため入らなかった。しかしドン・アランタイプのチョップカップであれば問題なく使える。 (画面トップの写真)

売店の側にはモニターがあり、ビデオが映し出されていた。

No Words

Only Music,

No Stars

Only Talents,

No Audience

Only Fan.

というメッセージが画面に現れた。言葉やスターはいらない。音楽と特別な才能を持った人がいればよい。観客ではなく一緒に楽しんでくれさえすればよい。

これがシルク・ドゥ・ソレイユのもとになっているコンセプトなのだろう。

またパンフレットには

私を生み出したのは、ファンタジーでも現実でもない。
魔術でもなく、夢でもない。

I am creature of neither fantasy nor reality,
neither incantation nor dream.

男でもなければ女でもなく、神でも悪魔でもない。
ましてや、歌でも物語でもありはしない。

I am neither man nor woman,
god nor demon,
song nor story.

私はひとつでもあり、無数でもある。

私はサルティンバンコ。

I am no one, I am legion.
I am Saltimbanco.

とあった。「サルティンバンコ」とは、イタリア語で「ベンチに跳び上がる」という意味である。16世紀のイタリアでは大道芸人をこう呼んでいたそうだ。

現実と夢の狭間から生まれ、人間はこのようなこともできるのかという驚きを与えてくれる集団、それがシルク・ドゥ・ソレイユなのかもしれない。

見終わった感想を一口で言えば、徹底した「人間讃歌」である。おとぎ話に出てくるような衣装、幻想的な照明、魅力的なオリジナル音楽、マジックのステージかと思うような仕掛けをほどこした舞台装置、これらを背景に、オリンピック選手レベルの技量をもつ人たちが様々なパフォーマンスを見せてくれる。

例えば、地上20メートルに張られた一本のロープの上で飛び跳ねたり、宙返りをしていた。体操競技の平均台で行う宙返りも人間業とは思えないのに、ロープの上で行うなんて、これは人間ができる限界の技をはるかに越えている。

演奏や効果音は生バンドによるライブである。バンドがパフォーマーの演技にあわせてくれるため、音楽が大変効果的に使われている。マジックの発表会などでよく目にすることだが、演技のクライマックスと音楽の山場があっていないため、盛り上がりに欠ける場合がある。また、音楽と演技を無理矢理合わせようとして、意味のない空白の時間を演技の中に入れている人もいる。アマチュアのレベルで、音楽と演技をピタリとあわせることは難しいとは思うが、技と音楽がピタリとあうのは気持ちがよい。

近年、シルク・ドゥ・ソレイユはマジックの世界にも多大な影響を与えている。といっても演技ではなく、音楽に関してである。パフォーマンスのために作られたインストゥルメンタル(楽器だけ)の曲が多いため、マジックにも利用しやすいせいだろう。

追加情報(2001/8/18)

シルク・ドゥ・ソレイユのCD、"Nouvelle Experience"について、「ラウンド・テーブル」に紹介しました。

 


大阪公演

日時:2001年6月21日(木)−2001年9月9日(日)
開催地:大阪ビッグトップ(コスモスクエア)

横浜公演

日時:2001年9月20日(木) −2001年11月18日(日)
開催地:横浜ビッグトップ(みなとみらい21)

 

某月某日

デビッド・カッパーフィールドの日本公演が2年ぶりに開催された。一昨年、関西の会場は神戸のワールド記念ホールであったが、今年は大阪城ホールになっていた。

前回の日本公演もちょうど同じ時期であった。今回も暑い中、汗を拭き拭き会場に向かった。JR環状線の大阪城駅からホールまで、徒歩で10分程度なのだが、炎天下、35度を超える中を歩くのはつらい。最近は紫外線対策なのか、黒い日傘を差している女性が目立つ。昔は日傘といえば大抵白であったのに、黒いほうが紫外線を遮断する率が格段に高いらしい。

黒い日傘

私は最終日の2回目、午後4時半の部を予約していた。この日は日曜の午後ということもあり、大阪城公園ではアマチュアのバンドが数組演奏していた。どこから電源を引いているのか知らないが、スピーカーのボリュームを一杯に上げて、わめいているのを聞くのはつらい。歌というよりヘタといったほうがよいような騒音を、風情のあるお城のほとりで出しても問題にならないのだろうか。

会場入り口開場時間の少し前から並んでいたが、予定時刻を10分ほど過ぎてもまだドアが開かない。前回の部が終わり、その後片づけや次の準備に手間取っているようだ。座席は全席指定のため、あわてる必要はないのだが、早くから暑い中、行列を作って待っている人もかなりいた。暑さのため、小さい子供が泣きだしたり、イライラして係員に怒鳴っている人もでてきた。

数日前、明石であった花火大会のあと、狭い通路に閉じこめられた子供が8人も亡くなるという痛ましい事故があった。その直後であったため、このまま炎天下で待たされていると、凶暴になった群衆が暴れ出すのではないかと心配した。その後すぐにドアが開いたため、暴動にならかったのは幸いであった。

デビッドは今年で45歳になる。一昨年見たときは、随分歳をとったなという印象があった。20代、30代の頃は”かっこいいマジシャン”という雰囲気を全面に押し出していたが、40代になり、デビッドにもオヤジが入ってきたせいか、どうも中年のいやらしさが鼻について仕方がなかった。今回、2年ぶりに見ると、それが気にならなくなっていた。

ステージでの振る舞いもすべてが自然体であり、キャラクターを無理に作ることもなくなってきたのだろう。元来茶目っ気があり、大変魅力的なマジシャンであったのだが、そこに数々の人生経験が加わり、地のままでも十分観客を引きつけるようになってきた。よい歳の取り方をしているな、という印象であった。

ショーの内容に関して言えば、以前と比べると通訳との息がだいぶよくなっていた。マジックに通訳が入ると、微妙なタイミングのズレが生じ、ミスディレクションが効果的に使えないこともある。

ショーの感想は「ショー&レクチャー」に書いておいたので、興味のある方はお読みいただきたい。

今回、新ネタとしては「ビーチ」があった。まだごらんになっていないのであれば、以下は読まないほうがよいかも知れない。そのあたりはご自身の判断で決めていただきたい。

「ビーチ」は、一言で言えば「瞬間移動」のマジックなのだが、演出がドラマチックである。

もしあなたがどうしても会いたい人がいるとして、その人が遠い外国に住んでいるとしよう。その人と今すぐにでも会えるという夢が叶ったとしたらどうだろう。それを本当に叶えてくれるのが「ビーチ」である。

私が見たときは、離ればなれになっている娘と、スペインにいる父親を会わせるという設定になっていた。ステージのスクリーンには、スペインの海岸の様子が「衛生生中継」で映し出されていた。

海岸には3名の男性スタッフが待っている。このうち一人は立ち、二人は布を持ってしゃがんでいた。

ステージでは、特設の台が準備され、これがステージを通り越して、客席の前列にまで突き出ていた。この上にデビッドと女性が乗り、一瞬、カーテンが閉じたかと思うと、次の瞬間、二人とも忽然と消えていた。消える瞬間や、そのあとスペインの海岸に現れる場面、さらに現れた女性が波際まで走って行き、水の中に足をつけてから、またデビッドのところに戻ってくるようすは大変説得力があった。実際には、これが事前に撮影されたものではないことを証明するため、デビッドの腕に客席の人にサインをしてもらったり、ポラロイドカメラで数名の観客を撮影した写真を手に持っていた。

デビッドのマジックは、「フライング」や「スノー」にしても、子供のときの感動や夢を再現したいという願いがベースになっている。今回の「ビーチ」も、人はどんなに離れていても、会いたいという強い願いがあれば、それはいつか必ず現実になるということを伝えたかったのだろう。

これからのマジックは、現象自体が不思議であることは当然としても、それだけでは観客に飽きられてしまう。観客の情緒や感情に強くアピールするものがないと、これからのマジシャンはやってゆけなくなるかも知れない。そのような意味では、デビッドはいつも他のマジシャンより、一歩も二歩も先を行っている。

新しいマジックを考案するのは簡単なことではないが、ある現象が実現できるかどうかは別にして、このようなことができたら面白いというところからすべては始まる。もしこれまでにないようなマジックや演出がひらめいたら、それを達成する手段は、大抵何とかなるものである。ただこのとき、テレビの画面を通さないとできないようなものはやめてもらいたい。テレビ用のマジックといってしまえばそれまでなのだが、広義のカメラトリックに類する行為も、マジック本来の楽しさを半減させてしまう。

今回のショーの中では、アメリカでテレビ放映された「トルネード」というイリュージョンが上映されていた。4ヶ所から吹き出すガスの炎の中心に立ち、そこから生還するというものだが、これにしても、テレビでしか放送できないのであればつまらない。

「ビーチ」もカメラを使うが、この場合、遠く離れた場所を映すためという、スクリーンを使う理由にある程度必然性がある。そのため、イクスキューズ(理由付け)としてはよくできていると思った。

少し残念であったのは、消えたり現れたりする瞬間は「完璧」であったのに、些末なところでリアリティがなくなっていた。

今回の「ビーチ」では、海岸に3名の男性スタッフがいたのだが、太陽が輝いているはずなのに、この人達には影がまったくなかった。これは不気味であった。また、立っている人の顔は、上半分だけが明るく下半分は薄暗い。しゃがんでいる人たちは光量が少なく、体全体が薄暗くなっているのも奇妙であった。これは私が見たときだけのことなのだろうか 。あれだけ優秀なスタッフがそろっていながら、誰も指摘しないのが不思議である。

「リアリティは常にディテールに宿っている」ということを忘れないでもらいたい。




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