ところが、実際のところ、人類の進化というのは、非常に速いのだということと、そして、現在もまた、非常に高速で進化が起きているのだというのが、本当のところは正しいのではないかということで、書いてみます。
まず、実際のところ、人類の進化の速度はどうか、というのを考えたときに、とりあえず、人類ともっとも近縁な種、つまり、チンパンジーやゴリラとその進化の速度を比べてみるとよいかと思うのです。ミトコンドリアDNAの変異などから、チンパンジーとヒトが共通祖先から別れたのは、おおむね800万年前から500万年前ごろだろうと言われています。最近では、このころの類人猿、あるいは猿人の化石も発掘されはじめていて、それらの多くが二足歩行をしていた可能性を示唆するものだというのがあって、結果として、それらの化石が出てくるころにはヒトとチンパンジーは分かれていたのだろう、と推測されます。まあ、これは非常に間違った考え方なのではないかと思いますが、それについてはほかの項目に譲るとして、とりあえず、ヒトとチンパンジーは500万年前から、800万年前に分かれたと考えてみましょう。もう一つ近縁なのは、ゴリラで、ゴリラは1千万年前から800万年前にヒトやチンパンジーとの共通祖先から分かれているとされます。ということは、チンパンジーもヒトも、ゴリラと分かれてから、1千万年から800万年経っているわけですから、進化的な遺伝的な距離としては同じくらいだということになるわけです。ところが、ゴリラとチンパンジーは、かなり似た動物だということです。少なくともこの二つはヒトからはかなり遠い存在です。もちろん、我々は自分たちがヒトであるため、自分たちのことはよくわかっているので、その違いが目に付きやすいのではないかということがあります。そこで、もう少し客観的な方法で、ヒト、チンパンジー、ゴリラを比べてみますと、やっぱりヒトがだいぶ違っているようだという結論になるというわけです。
次に、現在は医学の進歩によって淘汰が行われないという話への反論です。実際には、受精卵段階からおいかけていくと、ヒトの場合もかなりの淘汰が行われています。また、医学の進歩で障害をもつ人でも、生存が可能であることは事実ですが、それらの障害が、あまりにも重大である場合は、やはり、子孫を残すのに不利であることは十分あり得ますので、進化論における自然選択が人間の場合には働かなくなったというのは間違いで、たんに、その生き残りのためのハードルが多少低くなったという程度ではないかと思われます。さらにいえば、このハードルが低くなったことが、逆に、ある程度生存に不利な障害なども、人間においては中立進化に近い状態になったことから、人間には、突然変異の蓄積が起こりやすくなったともいえます。可能性としては、突然変異の蓄積が多ければ、別の可能性のある進化を引き起こす率も上がります。ようするに、医学の進歩、自然淘汰がなくなり、その結果進化が止まるというのも進化論におけるごくごく一部にしか目がいってないということになるわけです。
さて、現在、地球上には60億以上の人類がいるというのですが、この人口が爆発的に増えるようになったのは、新石器時代以降とされます。現在に生きる狩猟採集民をみると、移動する生活をしている場合が多く、これは人類の初期段階からこのような生活パターンがあったと思われ、それは、類人猿の生活パターンなどとも一致します。移動をする生活においては、子供が自ら歩いて大人とともに移動可能になる5,6歳までは、母親が子供を運ぶ必要があります。狩猟採集民の場合、そのことがあって、女性は子供が産まれると、次の子供をもつまでの期間は5年以上と長い場合が多いわけです。また、狩猟採集民の女性の初潮年齢は、比較的遅く16歳とかその程度であると言われています。現在先進国の多くでは初潮年齢は12歳くらいまで下がっていますが、これは、栄養状態や都市生活などの影響とされています。とすると、狩猟採集民の場合、一般的に女性は、18歳くらいで最初の子供を出産し、次は20代半ば。そして、その次は、30歳前半くらい、となると、だいたい多くて3人、少ない場合は一人くらいしか出産しないことになります。男女の数からいって、平均出産回数が二回なら、その後子供が成長するまで死ぬ可能性もあることから人口は減少傾向です。二回から三回がふつうである狩猟採集民の場合、従って、人口は増えにくいのです。ところが、定住生活の場合は、女性は毎年のように出産が可能ですから、非常にたくさんの子供が産めるので、人口は爆発的に増えていきます。そして、多くの場合、人口が増えすぎて、争いや、飢饉が起こるなどして、村が全滅するなどのことが増えてくるわけです。 遺伝学的にこのことを考えてみると、女性が何人の子供を出産するか、というのは、かなり興味深いと思います。一回の出産ごとに、女性の遺伝子とその配偶者たる男性の遺伝子の混ぜ合わせが起こるわけですから、出産回数が多いほど、その混ぜ合わせから起こる可能性は多くなります。つまり、多様性は増えるわけです。しかも、初期農耕を始めた新石器時代においては、子供は爆発的に産まれるようになったはずなのに、それほど人口は増えていません。とすると、飢饉などが起こったり争いなどが起これば、全滅に近いことも多数あったからなのでしょう。そこで、文化的な抑制力で男女の性的な関係を抑制したり、あるいは出産を制御できるようになった民族だけが初期新石器時代を生き抜いたとも考えられます。しかし、そうだとすれば、初期の農耕が始まったころに、ものすごい淘汰が働いたことにもなるわけです。まず、子供が多数生まれ、しかし人口はそれほど増えないわけですから、ここで恐ろしいほど過酷な選択が働いたと見るべきです。これは、そうとう進化の速度を速くしたのではないかと考えられます。世界にはいろいろな人々がいて、それぞれが、特徴的な顔だちで、体つきで、というのが有ります。ところが、最近の考古学的な成果としてみると、新石器時代が始まる前の後期旧石器時代の人々は、世界的にあまり大きな違いがないのです。比較的最近まで狩猟採集生活をしていたオーストラリアのアボリジニのようなタイプが、世界中から発見されます。クロマニョン人として知られるヨーロッパの後期旧石器時代人も、今のヨーロッパ人とはかなり違う体型で、顔などもアボリジニに近いのではと言われています。アジアにおける後期旧石器人も中国から発見されたものは、今の中国人とはかなり違う、やっぱりアボリジニに似た特徴があるという話もあります。
ようするに、現在のいわゆる人種などというものの多くが、氷河時代後の新石器時代以降になって顕著に現れてくるということのようなのです。肌の色なども、氷河時代のころまでは、比較的どこでも似ていた可能性があります。たとえば、エチオピア人は、顔の形からすれば、中近東やヨーロッパの人々に近いが、肌の色はかなり黒いです。しかし、彼らの言語は、アラビア語と近いセム語族の言語で、歴史的には、アラビア半島からアフリカにおよそ3千年ぐらい前に移住した人々ではないかと言われています。アラビア半島の人々も、白人系とはいってもかなり肌が黒い系統の人たちもいますが、かなりまちまちです。とすると、アラビア半島の人々がかなり白い肌になり、エチオピア人がかなり黒いとしたら、この変化はたかだか2000年くらいの間に起こった可能性があるわけです。つまり、現在の人類の地域ごとのいろいろな特徴というのは、新石器時代が始まったあと、ものすごく強い淘汰圧が働いて、しかも、それが地域ごとの文化などによって、さまざまな方向に働いた結果ではないかと思います。地理的、生活環境的な要素の違いで、それぞれの民族が、それぞれ自分たちの有るべき姿を想定し、その方向にあった人々が多数の子孫を得ることができ、というような強い性淘汰のような現象が、世界のいたるところで起こり、それが、人々の地域性を作り出したというわけです。現在、一般に高緯度地方の人々は寒冷地に適応しるし、また低緯度地方の人々は強い紫外線に対応するために肌が黒いなどの特徴がありますが、これらも果たして一般的な自然選択の結果かどうかわかりません。仮に性淘汰のようなもので、それぞれの地域の人がそれぞれの地域の価値観にそって自分たちのなるべき姿の方向に選択され変化していったとします。たとえば、アフリカなどで、肌が白い方向にむかったり、高緯度地方で肌を黒くするように進んだりしたとしましょう。これは性淘汰では非常に高速に起こり得ます。しかし、環境に対して間違った方向に変化してしまったら、最終的には、その人々は環境適応ができなくなり滅びることになります。つまり、現代において人々が地域ごとに違っているのは、最初はおそらく性淘汰のような人為的にコントロールされたもので、それがたまたま環境により適応しやすい形質である場合に滅びなかったという具合に考えることができましょう。それが、たった千年、二千年の間に人々の形質が大きく変わったりする理由だと思います。
さて、現在は、たしかに最初に述べたように医学の進歩によって、自然淘汰の可能性は少なくなりましたが、過去数千年の人類の著しい多様化が、今度は急速に合流する現象が起こっています。人種、民族を越えた結婚がかなり起こるようになり、さまざまなところで混血の人たちが生まれ、そして遺伝子の混ぜ合わせが起こっているわけです。これもまた、進化を進める材料になりましょう。今後、さらなるグローバリズムが進展すれば、人々は人種とか民族とかと関係なく、各自がそれぞれ自分の住みたい地域にいってそこで住むようなことも始まります。それぞれの地域がそれぞれで特徴的な文化をもてば、地域ごとに集まるタイプが違ってきます。そうなると、これまでの進化が自然選択による淘汰によって行われてきたのとは異なり、地域ごとに特定のタイプの人が多くあつまるなどから、やがて地域ごとの特徴が強くなり、またそれが、ときにグローバルにまざるという現象が起こり得ます。淘汰なくしても、また、先進国のように少子化が進んでも、医学が進歩しても、人間の進化は止まらないし、それはずっと他の動物よりも速く進むのではないかと思います。
たとえば、どうでしょう。ある地域が、スポーツ振興に力をいれて、世界中からスポーツをやりたいタイプの人たちが集まります。人種も民族も越えて、そういう人たちがあつまると、そこでは、それぞれのスポーツごとに非常に適している人たちが活躍するようになり、彼らの間で、生まれる子供たちもまた、それに適した子供が増えてきます。文化としても、スポーツが奨励されるその地域では、さらに世界的な人々があつまるし、そこで生まれる子供も、スポーツが不得意な場合は、自らその地域を離れ、別のもっと自分が活躍できる場にいこうとする。たとえば、その子が両親はアスリートなのに、絵が得意だとすると、芸術に力を入れている地域に移住したりする。こんなことが繰り返されると、世界のあちらこちらにさまざまなタイプの人々がそれぞれ多くあつまる地域ができて、そこに、いろいろなタイプの人々が生まれる。もちろん人々は頻繁に移動するので、遺伝子の混ぜ合わせも非常に頻繁に起こる。これは、特に淘汰や選択がなく、死んで子孫を残さないと言うような形でなく、さまざまな方向に進化する可能性を秘めています。
地球にはいろいろな気候のところがあり、また、地理的条件もいろいろです。これらがすべて同じになる可能性はないでしょう。どんなに科学技術が進歩しても、シベリアで暮らすのと、インドで暮らすのは、やはり違う。全人類が地下で生活するとかしないかぎり、エアコンがあろうが気候改造法があろうが、やっぱり地域ごとに生活のしかたが違うでしょうから、それぞれの地域はやっぱり特徴のある生活パターンになるし、それぞれの生活パターンにあったタイプの人々がいるし、また、それが特定のスポーツ振興だったり、特定の芸術振興だったり、そういうものにつながるわけです。そこに、人種や民族を越えた形で人があつまることになれば、これが新しい時代のグローバルな人間のあり方になろうかと思うのです。そして、その結果は、互いに混血可能であるという種を共有しつつも、地域ごとに特徴のあるタイプの人々が集まり、生まれる状況で、より多様になっていくと考えられます。
ミトコンドリアDNAの配列の違いから、ヒトと、近縁の類人猿であるゴリラやチンパンジーなどを比べると、その共通祖先が生きた年代は、1000万年前ごろになります。ゴリラよりは、チンパンジーのほうがヒトに近く、ヒトとチンパンジーの共通祖先のいた時代は、500万年前ごろになると言われています。もちろん、ミトコンドリアDNAの変化には誤差がつきまといますから、おおむねこのオーダー、つまり、ヒトは、およそ1000万年前から、500万年前ごろか、もうすこしあと位までの間に、チンパンジーやゴリラの共通祖先から別れ、独自の進化をするようになったということになります。そして、その時代の類人猿の化石からいえることは、すでに1000万年前ごろから、いろいろな種類の直立二足歩行をしていた可能性のある類人猿がいた、ということなのです。おそらく、これらの中からヒトが進化してきたといえるでしょう。
直立歩行はなぜ始まったのか、については、さまざまな研究者がいろいろな仮説を出しています。まずは、古典的なものでも、腕を伸ばして木からぶら下がることのできる類人猿は、背筋が伸びて、事実上直立状態と同じ背骨の状態になるので、そのまま地上におりれば、直立を始めるのに問題はない、というものもあります。でも、これだと、1000万年以上にわたって、同じ状況にあった人間以外の類人猿が、なぜ直立二足歩行をしないのか、という疑問もわきます。また、雌と雄の間の共同作業が始まったことで、雄が雌のために、プレゼントを持ってくるため、手でものを持って歩く必要から、直立二足歩行が始まったというのもあります。さらに、遠くを見るため、という説もあります。たしかに、アメリカの大草原にいるプレーリードッグは、直立して遠くをみて、警戒する行動をとります。しかし、立ち上がるけれど、歩くときは二足歩行ではありません。そのほか自分の体を大きくみせて威嚇するため、というのもあります。ゴリラもそのような行動をとりますが、一時的で長距離はもっぱらナックル歩行をします。川辺や湖畔などの水辺に住んでいたら、頻繁に浅瀬を渡る必要があったので、直立歩行で渡るうちに、直立二足歩行に至ったというのは、いわゆるアクア説関連でいわれているものです。ゴリラやボノボも、この状況ではかなり頻繁に直立二足歩行をするといわれています。しかし、彼らもこれを数百万年していたようですが、二足歩行には至っていません。
理由はやっぱり謎です。いろいろな理由が複合的にあった、ということでお茶を濁すのがよいのかもしれませんが、なんかすっきりしません。そこで、もう一度、化石の証拠に戻ってみましょう。ミトコンドリアDNAからは、チンパンジーとヒトの祖先が別れたのは、500万年前ごろという結果が出ています。ところが、最近では、700万年前ごろの直立二足歩行をしていた可能性がある類人猿の化石が発掘されています。トゥーマイ猿人とされているものは、頭蓋骨が発見されていますが、頭蓋骨が脊髄と連結するところの構造を調べると、チンパンジーなどとは違い、直立二足歩行をしている人間に近い角度で結合していることがわかったというものです。まあ、このあたりはちょっと間接的な証拠のような感じもします。けれども、実際、大腿骨などの歩行に直接かかわる骨と頭蓋骨などが一緒に発見された例もあって、どうやら、ミトコンドリアDNAから推定される500万年前よりも以前に、人類の祖先は直立二足歩行を獲得していたらしいというのが、最近の説になってきています。ということは、チンパンジーとヒトの共通祖先がいて、その直後、ヒトの祖先がチンパンジーの祖先から別れた瞬間にヒトは直立二足歩行を獲得したことになりそうです。逆にいえば、同じ種であったチンパンジーとヒトの共通祖先のうち、その中のある集団が突然直立二足歩行を始めて、その結果、チンパンジーの祖先とヒトの祖先が別れたということがいえそうなのです。
ところで、この、どうやら、ヒトの進化が始まったらしい時期、ざくっと1000万年前のヒトとチンパンジーとおそらくゴリラの共通祖先がいた時代から、現在までの間、なんと、チンパンジーやゴリラの化石が全く見つかっていません。ごく最近、1300万年前ごろの共通祖先と思われる化石が発見されました。また、オランウータンの祖先と思われる化石がインドなどアジア方面で二三見つかっています。また、それ以前になると、猿類から、類人猿が進化した道筋もたどれます。類人猿は、現在では、テナガザル類(生物種としては二、三種に分かれる)と、オランウータン(一種)のアジア型のものと、ゴリラ(亜種レベルで二つくらいに分かれるが種としては一つ)と、チンパンジーとボノボ(ボノボとチンパンジーはときに交配可能だが、別の種と考えられている)がいます。まあ、もちろん、ヒトも、類人猿から進化してきたことは間違いありません。さて、類人猿は、ほかの猿と比べると、まず、尾がないこと、そして、肩の関節の具合で、腕が上の方向に持ち上がるという特徴があります。また、その結果、胴体の形状が、左右に幅広く、前後に薄い形になっています。ようするに鳩胸ではない、ということです。このような類人猿は、実際には、起源が古く、2000万年以上前から存在し、アジアを中心に、ヨーロッパやアフリカからも多数化石が発見されています。かなりいろいろな種類にわかれていて、一時はかなり繁栄していたことがわかっています。しかし、その後、類人猿は、猿類の爆発的な進化と進出によって、どんどんその生息域が狭められ、現在、ヒト以外は、ほぼ完全に絶滅危惧種になっています。現在のヒト以外の類人猿は、すべて、森にすむ動物であり、その多くは猿とも競合している関係にあります。尾の有る猿は、現在非常に繁栄していて、樹上性のものも多くいるし、また、アフリカではヒヒなどのように、地上で群れをなして生活をするものもいます。生息域も、ニホンザルのように非常に北に住んでいるものもいるし、熱帯のものもいます。この猿の繁栄に反して、類人猿は、ヒト以外は、かなり小さな生息域におしこめられ、しかも、テナガザル二、三種と、オランウータン、ゴリラ、チンパンジーとボノボだけしか残っていません。そして、アフリカのゴリラ、チンパンジーについていえば、化石が全く見つかっていないのです。この二つの種が分かれたのは、800万年前以前とされています。もちろん、その後、ヒトとチンパンジーの祖先が別れたのですが。チンパンジーとボノボは、およそ300万年前ごろ共通祖先から別れたとされています。しかし、これらはすべてミトコンドリアDNAからの推定であって、化石は全くありませんから、化石としての証拠はありません。チンパンジーやゴリラの化石が全くないという理由について、彼らが樹上性、あるいは森に住んでいるため、化石が残りにくいという話があります。とはいえ、同じような生活をしているオランウータンの祖先らしき化石はいくつか見つかっているし、また、直立二足歩行をしていたヒトの祖先らしき化石の中には、その手の構造から、森で生活をしていた可能性の高いものも見つかっています。
ここで、どう考えるべきか、ということです。ヒトと、チンパンジーやゴリラの共通祖先がいた時代、1000万年前ごろから、ヒトが種として確立したらしい時代、まあ、原人の登場くらいが、ひとつの画期だと思われますが、だいたい200万年前でしょうか、この8百万年の間にアフリカで生息していたらしい化石はすべて直立二足歩行をしていたらしいもので、人類の祖先かもしれないものばかりだということです。よって、二つの可能性があります。一つは、現在、ヒトの祖先、あるいは直立二足歩行をしていたとされる類人猿、猿人の化石のうち、いくつかは、ゴリラやチンパンジーの祖先の化石である、という可能性。そして、もう一つは、ゴリラやチンパンジーの祖先は、化石になる確率から考えて、化石が全く残らないほど、非常にほそぼそと暮らしていたという可能性です。で、その間の時代の大多数の類人猿は、直立二足歩行だった、ということです。
まず、現在、ヒトの祖先である可能性があるとされる、直立二足歩行型だったらしい類人猿、猿人の化石が、ゴリラやチンパンジーの化石である可能性はあるか、というと、実際、トゥーマイ猿人の化石は、ゴリラのものだ、という話はありますが、やはり、直立二足歩行であった可能性がかなり高いので、だとしたらゴリラの化石ではない、と結論されます。よって、おそらく多くの学者は、現在発見されている直立二足歩行をしていた可能性の高い類人猿の化石をゴリラやチンパンジーのものであると考えることはできないでしょう。もっとも、一つの可能性としては、ゴリラやチンパンジーが、いったん直立二足歩行を獲得したあと、それを失ったというものです。この可能性も排除はできません。そうであれば、1000万年前から、200万年前のヒトの祖先かその近縁の類人猿(あるいは猿人)の化石のいくつかは、ゴリラやチンパンジーの祖先の化石ということになります。類人猿は、一般に地上を歩行するときには、ナックル歩行をします。これは、猿はしないやり方で、手の甲、あるいは、拳を地面について歩くものです。この歩き方を、ほかの猿がしないということは、猿から、類人猿が生まれたあと、どこかの時点で、この歩き方が獲得されたことになります。その前に一度直立二足歩行をしていたかもしれない、という可能性もあるわけです。とはいえ、この説はあまり納得できる説にはならないでしょう。
次に、ここ1000万年にわたって、ゴリラやチンパンジーが、非常にほそぼそと暮らしていた、ということなら、これは現在もそうなのですから、納得できます。化石になるのは、ごく一部の場合だけで、あとは、骨もなにもかもさっぱり消滅してしまうわけですから。だとすると、発見されている直立二足歩行をしていた可能性の高い猿人、あるいは類人猿の化石はどうなるか、というと、つまり、ものすごくたくさんいたのだ、ということになります。ゴリラやチンパンジーとは比べものにならないくらい、多数が、いろいろな地域に生息していた、ということです。大いに繁栄したと考えられます。直立二足歩行をしたらしい猿人、類人猿の化石は、アフリカのあちらこちらで発見されます。以前は、ヒトの進化はおもにアフリカの東側で起こったと考えられていましたが、いまでは、そうでない化石も多数あるし、東側といっても、エチオピアなどのかなり北に位置するものから、南アフリカまで広い範囲で、直立二足歩行の猿人(あるいは類人猿)の化石が発見されています。
さらに、最近では、800万年前ごろ、直立二足歩行をしていたと考えられる化石が発見されています。オレオピテクスというイタリアのトスカーニー島で発見されたもので、系統として、ゴリラやチンパンジー、あるいはヒトとは関係のないものではあるが、ほぼ全身のいろいろな部分の骨格が判明しており、その結果から見て、直立二足歩行をしていたらしいことがわかっています。
こうなると、人類が直立二足歩行を獲得した理由というのは、どうも、一つの理由でどうこうした、というものではなく、1000万年前から、いろいろな場面で、直立二足歩行をした、しようとした類人猿がいたことになります。その系統は、なにも、ヒトの祖先に直接つながるものばかりだったわけでもなく、いろいろなところで、直立二足歩行が始まったというわけです。そして、直立二足歩行は非常に有利な形質であったので、これを獲得した類人猿は、非常に繁栄し、アフリカ中、いたるところに進出したと考えられます。そして、直立二足歩行をするようになると、おそらく、森の中だけでなく、草原にも進出できたのでしょう。遠くが見えるので、肉食動物などを警戒しながら歩くこともできるし、また、水辺で、浅瀬を渡るのも楽だし、いろいろよいことがあったので、繁栄したわけです。だから、800万年前から、400万年前ごろまでのヒトがチンパンジーとの共通祖先から別れた時代の類人猿の化石は直立二足歩行をしていたものばかりなのです。とすれば、現在、直立二足歩行をしていた可能性があるから、という理由で、ヒトの祖先である、とされている猿人の化石の中でも、ヒトの祖先と無関係のもの、場合によっては、ヒトとチンパンジーやゴリラの共通祖先と別れる前に直立二足歩行を始めたものも含まれている可能性があります。1000万年前にも、そして、800万年前にも、そして、600万年前にも、直立二足歩行を独自にはじめた森の類人猿がいて、直立二足歩行を始めたとたんに、草原や水辺にも進出し、そして、繁栄する。個体数が爆発的に増大する。その結果、300万年前ごろには、そのようないろいろなタイプの直立二足歩行する類人猿がいて、その中の一つの系統が、ヒトへと進化した、と考えるべきではないか、というのが、私の提案です。
さて、それでは逆に、なぜ、ゴリラやチンパンジー、ボノボ、さらには、オランウータンやテナガザルが、直立二足歩行ではないのか、という疑問が出てきます。たしかに、これら類人猿は、みな多少は直立二足歩行をします。特にボノボの直立二足歩行の姿勢は、ヒトのそれにかなり近いとも言われています。しかし、一般的に、地上を歩くときは、ナックル歩行です。チンパンジーはナックル歩行で長距離を歩き回ります。なぜ、便利な直立二足歩行をしなかったのか。これに対する答えは、それほど難しくない。彼らは、直立二足歩行をしなかったが故に、生き残った、それもほそぼそと、というものです。直立二足歩行をする類人猿は、アフリカ中にいたでしょう。もしかしたら、アジアにもインドにもいたかもしれません。もちろん、オレオピテクスの例からすれば、ヨーロッパにもいたのでしょう。しかし、直立二足歩行の類人猿は、その移動の容易さ、汎用性から、互いにニッチを共有することになります。よって、おそらく、それらの中で、最強の直立二足歩行猿人、つまり、後のヒトに進化した系統のものが、非常に繁栄したため、ほかのものは滅びたのだと思います。その中で、ヒトとニッチを全く共有する可能性のない、森の中での生活、直立二足歩行をしなかったものたちだけは、ヒトと競合することなく、生き延びた。しかし、大地の大部分はヒトが住むようになったので、彼らはおいつめられ、非常にほそぼそと生活していくしかなく、それは現在もそのままだ、というわけです。もちろん、ヒトにはつながらない直立二足歩行猿人の存在はしられていて、一般にパラントロプスと呼ばれるものは、初期人類が肉食(最初は腐肉あさりであったと思われるが)をしていたのに対して、地下の植物(地下茎や芋類、球根など)を食べていたため、およそ100万年前まで生息していたことがわかっています。このパラントロプスが、果たして、ヒトがチンパンジーの共通祖先と分かれたあとに、ヒトの祖先から別れていった系統なのか、それとも、もっと前から直立二足歩行をしていたのか、それはわからないでしょう。
おそらく、今後、アフリカやアジアで、いろいろな直立二足歩行型の類人猿、あるいは猿人と呼ばれるものの化石がさらに発見されると思います。非常に古い時代、たとえば、800万年前とか、1000万年前の直立二足歩行類人猿もみつかるかもしれません。そして、チンパンジーやゴリラの祖先の化石もよく探せばあるかもしれませんが、非常に少ないので、めったに見つからないでしょう。ミトコンドリアDNAからすれば、チンパンジーとヒトの共通祖先は、500万年前にいたことになるのですから、誤差の範囲も考えても、あまりにも古い直立二足歩行類人猿の化石が出たら、それは、別系統だと考えるべきではないかと思います。その意味でいえば、現在、400万年前から300万年前ごろのものとして見つかっている、有名なルーシーとよばれるアファール猿人(アウストラロピテクス・アファレンシス)、あるいはアウストラロピテクス・アナメンシスなども含めて、これらが本当に、ヒトへとつながる系統なのか、また、ヒトとチンパンジーとの共通祖先の時代以降に、ヒトの系統から分かれたものなのか、そのあたりを吟味する必要がありそうです。もしかしたら、300万年前ごろに、チンパンジーやゴリラの祖先から、直立二足歩行を始めたものもいたかもしれないわけです。
さて、長々と書きましたが、纏めますと、直立二足歩行を始めた理由は、一つではなく、いろいろあって、どのような場合でも、直立二足歩行は非常に有利な歩行形態だったので、いろいろな類人猿の系統で、直立二足歩行を始める類人猿が現れ、それが、1000万年前から、300万年前ごろまで、広くアフリカを中心として繁栄し、その中から、ヒトの祖先が誕生した、ということになります。しかし、ヒトの祖先が誕生したあと、ほかの直立二足歩行類人猿、あるいは猿人は、ヒトと競合せざるをえず、結果として、それらの中の最強の種であったヒト以外は残らなかった。そして、滅び去った例として、パラントロプスが挙げられます。また、それならどうして、チンパンジーやゴリラが直立二足歩行に移行しなかったのか、といえば、移行しなくて、ヒトとの競合を避けられたが故に、彼らは、人類進化のゆりかごというアフリカにおいて、ほそぼそと生き残ることができた、ということです。
直立二足歩行を始めた類人猿は、かなりいろいろな新しい形質、行動を獲得しないといけません。ヒトの場合、まず、女性の陰部が股間の間で隠れてしまいます。チンパンジーの雌では、この部分がつねに露出しており、かつ発情期になると、風船のように腫れあがって、雄をひきつけ、交尾を誘います。ヒトもふくめて、直立二足歩行型の類人猿、あるいは猿人であれば、チンパンジーのようなことはできなくなるので、雌が発情期を示す方法なども、大きく変化しなければならないでしょう。また、出産についても、かなり状況がかわり、チンパンジーのように、雌が一人で出産するなどが困難になったかもしれません。このようなことで、直立二足歩行型類人猿は、森の中であれ、平野であれ、直立二足歩行ではない類人猿とはかなり違った生態をもつようになったと思われます。実際、400万年前から300万年前のアファール猿人や、100万年前ごろまで存在したパラントロプス、そしてヒトの祖先も含めて、みな、チンパンジーやゴリラよりは、脳容積は大きいのです。背骨の上に頭が乗るので、脳容積が大きくなることを可能にしたという説明もできますし、また、新しい生態、新しい生活パターンを獲得したが故に、脳の使い方も変化し、脳容積が大きくなったともいえるでしょう。さらに、直立二足歩行が有利な形質であるならば、それをさらに一段と効率的にしたものがより有利になります。このことは、直立二足歩行を始めた類人猿は、速やかに、それに適した骨格を獲得しただろうということを意味します。おそらく非常に短い時間で、直立二足歩行のための骨格が確立し、それに併せて、内臓を下から保持するためのお椀型の骨盤なども進化したのでしょう。350万年前のアファール猿人の場合、しっかりとお椀型の骨盤をもち、そして、膝の関節の形状も直立歩行に適したものであり、また、同時代の足跡の化石からは、すでに、現代人と変わらないような足の形をしていたこともわかっています。それから、100万年とすこしして現れたホモ・エルガスターは、すでに現代人なみの体格、すなわち、身長が男性で170センチから180センチで、体重も80キロというような、ほかの類人猿にくらべて、ずっと大きな体格を獲得し、さらに持久力をつけて、長距離を歩き、走れるようになりました。体格が大きくなったことで、それに併せて脳容積も大きくなり、800cc以上というチンパンジーの倍近い脳をもつようになりました。ただし、体重も考えれば、チンパンジーの脳重比(体重に対する脳の重さの比率)とホモ・エルガスターの脳重比はそれほど変わらないように思います。
こうしてみると、人類の進化というものも、なるようになって進化してきたのだ、といえそうです。直立二足歩行を始めるにあたって、思いもつかないような特別な理由があったわけでもないのだということであり、そして、ひとたび、直立二足歩行を獲得すれば、そこから、新しい方向がみえてきて、その方向にひたはしりに進化してきたのが人間であり、そのような、大きな変化を体験したが故に、チンパンジーやゴリラに比べて、ずっと素早い進化をしてきたのだし、その結果として、現在の繁栄があるのだともいえます。そして、人間のようなものが人間以外にいないのは、人間という最強の直立歩行類人猿が登場してしまい、ほかの直立二足歩行型類人猿はその競合するなかで敗れ去り、滅びたのだ、ということです。そしてその競合を避けるもっとも消極的な方法が、直立二足歩行をしない、あるいはやめる、ということだったからこそ、ヒトと近縁でありながら、チンパンジーやゴリラはアフリカにおいて生き残ることができた、ということです。
250万年前っていうのは、案外微妙な年代です。化石としてその時代のヒトの祖先の姿があまり明確に見いだせないというのがあります。ヒトはまず、直立二足歩行を獲得しました。その時期はわかりません。私の考え方としては、800万年前とか700万年前の直立二足歩行をしていたらしい類人猿とか猿人の化石は、ちょっと古すぎるので、ヒトとは直接関係ないだろうと思っています。ミトコンドリアDNAによる推定が絶対とは思いませんが、確率統計的にいえば、やはり、ヒトとチンパンジーの共通祖先から、ヒトの祖先が別れたのは、500万年前ごろですから、これ以降に直立二足歩行を獲得したとなれば、直立二足歩行が本格的になったのは、やっぱり、400万年前ごろではないかと思います。アウストラロピテクスの初期のものが登場したころでしょう。それから、およそ150万年たって、250万年前ごろに石器を作り始めた。結構いい感じではないでしょうか。なんでも、最近、250万年前ごろのアウストラロピテクス・ガルヒというヒトの祖先らしきものの化石が、石器らしきものと一緒に見つかったので、最初に石器を使った猿人では、と言われています。で、この時代のアウストラロピテクスとはどういうものたちか、というと、まず、おおかた外見は、直立二足歩行をするチンパンジーとでもいうようなものではないかと思います。直立二足歩行はしっかり板についていて、揺るぎのないものです。でも、身長は、150センチ以下で、チンパンジーよりは多少大きいかも、という程度。そして、この身長にしては、ちょっと長めの腕があって、まあ、そろそろ森で木にぶら下がるよりは、地上を歩くことのほうが多かったかもしれないが、でも、夜になると、木の上で、寝床をつくって寝ていたのかもしれない、というような状況です。でも、石器を使っていたらしいことからすれば、食べていたものの一部は、動物の死骸からとった肉とか骨髄とかではないかと言われています。石器らしきものが発見される場所と、石器のもとになった石のある場所とでは多少離れていることも多いので、石器は持ち運んでいたようです。あるいは、もうすこし後ではありますが、石器を作ったときに、石器を割った片割れが発見されることがあるので、初期の人類は、どうやら、石器の材料になる石を持ち運び、必要な場所で石器を作って、利用していたようだ、と推測されます。石器なり、そのもとになる石なりを持ち運ぶということが可能なのは、もちろん、直立二足歩行をしていたからで、チンパンジーは、ものを運ぶことがほとんどできません。ときどき、ナックル歩行のときに、股の間にものを挟んで運ぶことがあるようですが、これもごくごくたまに、ということですから、まあ、基本的にものは運ばない。とすると、石器を作り始めた初期のヒト、猿人は直立二足歩行をばりばりにやっていたことになるわけです。
ヒトの祖先、猿人が石器を使い始めるまでには、いろいろな段階があったと思います。まず、石を割らずに、石が必要な場所で、その近所を見渡して目に入る適当な石をつかった時代があったはずです。特殊な霊長類のアイアイの研究者である島泰三氏は、中公新書「親指はなぜ太いのか」という本の中で、いろいろな霊長類のいろいろな手の形を比較して、結果として、人間の手は、なんとなく丸いものをしっかり握るのに適したものだ、としています。チンパンジーの手は、明らかに、枝をひっぱるのに適していて、また、ゴリラの手は比較的人間の手に似ているが、それは、ゴリラが、葉を食べるときに、非常に器用に葉っぱの棘を取り除いたりしているからだいうことです。霊長類は手をかなり使うので、手の形はその霊長類の生き方、生態とかなり密接に結びつくはずだ、と考えてみると、ヒトは石を握るための手をもっているということになるわけです。で、その石でなにをしたのか、というと、たぶん、草原にある動物の死骸、おそらく、肉食動物の食べ残しとかそういうものから、その骨を割って骨髄を食べるとか、さらに割った骨を、口にいれて、奥歯でごりごりすりつぶすとかしていたのでは、というわけです。で、実際、アウストラロピテクスの奥歯、臼歯は、非常にエナメル質が厚く、どうも、骨をこりこりとすりつぶすのに適していると考えられるのだとも書いています。パラントロプスとよばれる直立猿人の場合は、歯が大きくなり、かつ顎の筋肉が非常に発達していて、噛む力がものすごく強かったことや、歯の表面の痕をみると、どうも、砂まみれのものを食べていたらしいことから、地面を掘って、球根とか、地下茎とか、芋のようなものを食べていたらしいことがわかっています。彼らが使った道具は、どうやら、木や動物の骨の棒で、これで地面を掘っていたようです。この場合、石を使う必要はなかったようです。実際に、動物の骨の一部がつるつるに削れたも(摩耗痕がある)のが発見されていて、パラントロプスの使った掘り棒だろうといわれています。
というわけで、ここは、島泰三氏の説をある程度納得して、取り入れるとすれば、直立二足歩行を始めたヒトの祖先は、手が自由に使えたので、とりあえず、木の棒とか、骨とか、石とかをつかって、食料になるものを探し、しかも、食べるものは、堅いものが多かったので、歯が発達した、臼歯のエナメル質が厚くなった、というのでよいかと思います。そのうち、動物の死骸から動物性タンパク質とか動物性脂肪などをとることを始めたのがいて、それがどうもヒトの祖先につながるほうで、そうでなくて、地面をほって、地下茎とか球根とか芋とかを食べるようになったのが、パラントロプスの祖先ということになるわけです。
ところで、最近の研究で、人間の顎の筋肉が非常に弱いという発見がありました。類人猿にくらべて、筋肉繊維の作り方が違っていて、それはちょっとした遺伝子の変異によるものだそうですが、それによって、人類は、チンパンジーやゴリラなど類人猿にくらべて、顎で噛む力が弱いのです。で、その結果、どうやら徹底的に柔らかいものしか食べられなくなり、顎の筋肉を強くすることをあきらめた結果、頭蓋骨についている顎をひっぱる筋肉などが弱くなり、どんどん少なくなって、結果として、脳が大きくなる余地が生まれたとかいうおもしろい説です。で、その突然変異は、まあ、200万年前かそれ以前ごろだろう、ということも言われています。遺伝子の突然変異の起きた時期は、変異そのものからは、推定できないと思いますけれど、まあ、顎の筋肉の縮小の時期というのが、化石でわかるなら、それと一致させておくのは無難でしょう。で、この筋肉に絡む突然変異は、噛む力が強いことが推測されるパラントロプスではなく、ヒトに至る系統でのみ起こったといえるでしょう。ようするに、噛む力がなくなったヒトの祖先は、歯で噛む代わりとして、石を握ったともいえるのではないでしょうか。それで、手で石を握って、動物の死骸の骨を叩き割り、骨髄を食べたり、骨そのものを食べたりする。骨は、細かく割っておけば、唾液とまぜて、こりこり軽く口の中でしゃぶっているうちに柔らかくなって、飲み込めるというわけです。骨をたたき割るには、とくに鋭い刃が必要なわけではないので、こういう段階が長いこと続いたのだろうと思われます。
石で、骨を割るようなことをしていたヒトの祖先は、たぶん、死骸の骨にこびりついた肉なども食べるために、できるだけ鋭い角をもった石などを使っているうちに、石を叩き割ることを始めたのだろうと思われます。ただ、初期の石器とされるもの、一つの石に別の石をぶつけて、薄い剥片を割り取り、それを刃として使うものは、かなり巧妙に意図的に作ろうとしないとできないもののようで、人間の言葉をかなり理解するボノボとして有名なカンジも、初期人類の石器のようなものは作れなかったそうです。ここまで至るには、かなりの時間がかかったようです。アウストラロピテクスの初期のもの、400万年前ごろのものでも、臼歯のエナメル質は分厚いので、彼らは、骨をなめていただろうし、石で骨を割るようなこともしていたでしょうが、そこから、剥片石器が生まれるまでには、150万年もかかったのだ、というわけです。この、石に石をぶつけて、剥片を作り、それを刃として使うのは、かなり後まで行われていて、一応、このような剥片石器と、そのもとになった石核のみからなる石器文化を、オルドヴァイ文化(あるいは、オルドワン文化)と言います。そして、剥片石器は、オルドヴァイ式石器と呼ばれます。
オルドヴァイ式石器が作られるようになってから50万年くらいした200万年前ごろになると、脳容積が600ccとか700ccといった感じで、それまでのアウストラロピテクスよりは多少大きな脳をもったホモ・ハビリスが現れます。もっともこの時代は混沌としていて、ホモ・ハビリスというのが一種類しかいなかったのか、いろいろいたのかわかりません。脳容積も、大きいものは、800ccぐらいになっているし、体の大きさも、身長が150センチ程度になっていたようです。どうも、この時代、いろいろな、「ちょっとだけ頭の大きい猿人かな」って感じの骨が多数あって、いろいろいたような感じがします。石器は50万年たっても、ほとんど変化せず、オルドヴァイ式石器を使っていたわけです。で、そうした中で、かなり突然なのか、ホモ・エルガスターが登場します。200万年前か、180万年前か、とにかく、身長もかなり大きく、脳容積も800ccは越えているようなもので、ホモ・ハビリスは、身長も低いし、また腕の長さもアウストラロピテクスのようにプロポーションとしてはかなり長いものだったのが、ホモ・エルガスターは、ほぼ、人間的になっています。しかも、このホモ・エルガスターは、すぐに、アフリカを出て、グルジアとか、さらには、インドネシアのジャワあたりまで進出しています。現在、グルジアで発見されたものは、ホモ・エルガスター、そして、ジャワで発見されたジャワ原人はホモ・エレクトスとして分類されていますけれど、まあ、初期のものはほとんど同じです。グルジアのドマニシで発見された、ホモ・エルガスターは、脳容積も600cc程度と小さく、体も小さいので、これぞ、ホモ・ハビリスから進化したてのホモ・エルガスターかもしれません。とはいえ、とにかく、200万年から180万年前には、ホモ・エルガスターが登場し、速やかに、アフリカを出て、ユーラシア大陸に広がっていったことになります。そうとうな活動力で、持久力もあって、走り回ることもできたということが最近の研究でわかってきました。ただし、使っていた石器はやっぱりオルドヴァイ式石器だけです。最初のオルドヴァイ式石器から、100万年たっても、やっぱりオルドヴァイ式石器だけで、さらにいえば、アジアに進出したホモ・エレクトスは、その後、たぶん、滅亡するまでオルドヴァイ式石器を使っていました。また、北京原人などの一部は、オルドヴァイ式石器から発展した、チョッパー・チョッピングツールの文化というのを持っていたことも最近ではわかってきています。これらは、東アジアのホモ・エレクトス固有のもので、類似のものは、アフリカやヨーロッパでは発見されていません。この東アジア特有のチョッパー・チョッピングツールの文化は、年代としては数十万年前ですので、次に述べるアシュール式の石器が始まった時代よりは、百万年ちかくたった段階です。
石器の作り方に進歩が現れるのは、150万年前ごろで、それもアフリカで起こったようです。初期アシュール式石器と呼ばれていて、その石器をもつ文化を初期アシュール文化(アシューリアン文化)と言います。アシュール式の石器は、別名両面加工石器と呼ばれています。オルドヴァイ式石器は、もともと大きめの石に別の石をぶつけて、鋭く薄い剥片を割り取り、それを刃として使うものです。ところが、アシュール式は、逆で、もとの大きめの石からつぎつぎに剥片を石の両面から取り除き、整形して、手の平にすっぽりと収まる形のアーモンド型とか涙滴型の石器に仕上げたものです。これをハンドアックス(握り斧)と呼んでいますが、斧だったかどうかはわかりません。オルドヴァイ式石器は、ねらって一発の打撃で剥片を作りますが、アシュール式石器は、何度も何度も割って、目的の形に仕上げます。ということは、かなりの計画性もないといけないから、やっぱり、脳容積が、900cc程度までなった、ホモ・エルガスターが作った石器だということになりました。ところが、このハンドアックスは何に使われたかよくわかっていません。とにかく大量に作られようです。投げていたともいわれているし、また、万能石器で、肉を削り取ることから、穴掘りから、なんにでも使えるものだったともいわれています。とにかく、彼らは、なにをするにもこのハンドアックスだけを使っていたようです。もちろん、オルドヴァイ式石器の剥片も併用していたことは事実ですが。で、アシュール式のハンドアックスは、アジアでは発見されておらず、どうもアフリカと、中近東と、あとはヨーロッパぐらいです。
その後、人類は、さらに進化して、50万年前ごろには、脳容積が、1000ccを越えて、まあ、現代人の中のちょいと頭が小さい部類の程度までなりました。このころから、脳容積が1200ccとか1300ccぐらいになるまでを、一括して、ホモ・ハイデルベルゲンシスと呼んでいます。しかし、使っていたのはやっぱりアシュール式石器です。ただし、初期アシュール式石器は、両面加工で整形されているとはいえ、石器をつくるための打撃の回数は、十回とかその程度ですが、50万年前ごろになると、もっと細かく細かく打撃をして、非常にきれいな形にまで仕上げるようになります。そこで、これを後期アシュール式石器と呼んでいます。より緻密な作業をしているし、また、おそらく、一つの石器を作るのに時間もかかっただろうから、それだけ、計画性とか、将来のことを思い描く能力とかが高まったといえそうです。ただし、形状はほとんどがハンドアックスで、あまりバラエティはありません。
そして、さらに時間はたって、およそ10万年前ごろになると、実はそのころは、アフリカでは、骨だけから見ると、もう立派な現代人といってよいものが登場していて、また、ヨーロッパでは、ネアンデルタール人が登場しているわけですが、石器としては、新しい形のものがでてきます。アフリカでは、中期石器時代(MSA)と呼ばれる文化であり、ネアンデルタール人のものは、ムスティエ式文化と呼ばれます。石器の作り方は非常に巧妙になっていて、石を石にぶつけて割るだけではなくて、骨とか木などの石よりも柔らかいもの(ソフトハンマー)を使って、石を細かく精密に割るというようなことが始まります。さらに特徴的なのが、ルヴァロア技法と呼ばれるもので、ムスティエ式石器において顕著なのですが、最初にまず、石を目的の形状に十分整形しておいて、その整形済みの石核から、剥片を割り取るというものです。たんなるオルドヴァイ式石器の剥片では、形状は不安定ですが、あらかじめ整形された石から剥片をとるので、いつも目的の形の剥片が取り出せるわけです。そして、最後の剥片を取り出すところでは、骨や木などのソフトハンマーを使うというのもルヴァロア技法の特徴です。こうして、石器はさらに高度な細かいものになっていきました。この時代になると、石器は単独で使われるだけでなく、木の棒の柄を持っていたようで、槍先として石器を用いたこともわかっています。アシュール式の時代では、石器の種類は、両面加工のハンドアックスなどが減り、用途に合わせて数種類の形状があります。大きさもいろいろで、また、石器自体は、何度も利用され、刃がこぼれた石器をもう一度細かく整形して使うなどもしていたようです。利用する石器がルヴァロア技法で作られたものばかりになるのは、ネアンデルタール人でも、ホモ・サピエンスでも、およそ10万年ほど前ですが、一方、このルヴァロア技法の萌芽ともいうべきものは、後期アシュールの段階のホモ・ハイデルベルゲンシスが登場したころには始まっています。アシュール式石器段階で、十分に整形された石核のハンドアックスがあったとして、そのハンドアックスの刃を薄くしようとすると、そこから剥片を取り除かないといけません。偶然でも取り出した剥片が利用価値があるなら、これがまさにルヴァロア技法による剥片石器というべきものです。
さて、長々と石器の形状、作り方などの進展を解説してきました。なにがいいたいのか、というと、じゃあ、果たして石器を作ることは、どれほどの知的作業であろうか、ということです。たしかに、本格的に石器を作って使ったのは、人類、あるいはその祖先や祖先に近い猿人だけで、ほかの動物は使いませんので、石器を作ることはイコール頭脳に優れた人間だけ、ということになりそうです。けれども、道具を使うのは人間だけではなく、チンパンジーはもちろん、烏も使うし、ほかにもいろいろ道具を使う動物はいます。で、石器を作るような高度な計画性、とくに、後期アシュール石器とか、ネアンデルタール人のムスティエ式石器のルヴァロア技法のような技術は、やはり知性がないとできないとか思うかもしれません。しかし、しかしですね、同じ石器が数万年、とくに、オルドヴァイ式石器は100万年以上使われ、前期アシュール式のハンドアックスも100万年以上、後期アシュール式も50万年近く使われ続けてきて、その間に全くといってよいほど進展がないのです。オルドヴァイ式石器が使われ始めた時代、脳容積は、500ccとか600ccとかでした。初期アシュール式が使われるようになったのは、脳容積が900cc位になったときでした。後期アシュール式は、1200ccくらいになったときで、MSAやムスティエ式石器の時代は、脳容積は現代人なみか、それを越えていました。アジアでは、ホモ・エレクトスはオルドヴァイ式石器だけで、数十万年。その後部分的にチョッパー・チョッピングツールの文化をもつに至りましたが、アシュール式は現れませんでした。脳容積も、だいたい1000cc程度で止まってしまいました。たしかに、オルドヴァイ式、初期アシュール式、後期アシュール式、MSAやムスティエ式と、進歩はしていますが、その進歩は、脳容積が大きくなって、しばらくすると、たぶん50万年くらいすると進歩するというような歩みののろいものです。
私は、石器を作ること自体、ほかの動物にはないような計画性とか、手の器用さとかを必要とするものだということは否定しませんが、しかし、このような行動と、たとえば、ビーバーがダムをつくって、さらにそのダムと関連して巣を作るような行動とどこが違うのか、と思ったりします。ビーバーのダムだって、かなりの計画性が必要だし、また、川の流れ方によって、いろいろな微調整も必要で、高度なものです。でも、ビーバーは、たぶん、数十万年前、いやもっと前から、同じようにダムを作り続けてきたわけです。このビーバーのダム作りに比べても、ヒトの祖先の石器作りというものが、それほどすごいことのようには思えないのです。もともと石で骨を叩き割ったりしていたヒトの祖先は、石の扱い方がよくわかっていたので、その後、脳の発達に合わせて、石器の作り方が微妙になり、精密になっていっただけのことのように思うのです。百万年にわたって、ほとんど改良もされず、作られ続けたとしたら、それは、進化論的に本能に組み込まれた行動だともいえます。ビーバーのダム作りは、たしかに、親から子へと伝わる要素もあるでしょうが、一方、進化的に本能として行動するように織り込まれているとも思われるふしがあります。石器作りもそのようなものではなかったか。実際、ネアンデルタール人のムスティエ文化(ヨーロッパ)とかホモ・サピエンスのMSA(アフリカ)の時代になると、地域ごとの文化的な違いが見えてくるようになります。石器の作り方、使い方が場所ごとに、微妙に違うのです。ですが、それ以前、後期アシュール式の時代までは、ヨーロッパだろうが、中近東だろうが、アフリカのどこだろうが、みな全く同じようなハンドアックスを作っているのです。気候も違うし、住んでいる動物も違い、狩りの対象動物も違ったはずなのに、道具は同じです。とくに文化交流があったとも思えないので、技術は全く変化せず、見事に同じようなものを作り続けたとしたら、それは本能的な進化的に織り込まれた自動的な行動であって、知的な行動とはいえないのではないかと思うのです。
人類以外の高等霊長類の行動の多くは後天的に獲得されるもので、決して先天的に獲得されるものではないという話があります。だから、人間の石器作りも後天的に獲得されていて、先天的なものではないと考えることもできるというわけです。だから、石器の作り方が進化的に獲得されたものである、というのは違うだろうというわけです。しかし、この場合それら高等霊長類の行動が先天的ではないとされる理由は、同じ種でも異なる行動をすることが多いとか、つまり、行動に多様性があるとか、また遺伝的性質と関係なく、たとえば、嫁入りなどで住んでいる地域が変わったときなどは、速やかに新しい生活習慣や行動パターンをおぼえ、以前からつかっていた行動パターンをやめてしまうなんていう例があるからです。遺伝的に固定された行動は、種全体に共通して同じように現れるはずだし、地域ごととか群ごとの特殊性はでてこないでしょう。さらに、同じ個体が、住む地域や群を変えたときに、行動が変化することもあり得ないでしょう。では、人類の石器はどうでしょうか?まず、石器を使うどの地域の人間も基本的にオルドヴァイ式石器の作り方を知っていて、かなり画一的です。つまり、もしオルドヴァイ式石器を作る遺伝的先天的に獲得された能力というものがあったとしても、観測された考古学的な事実と矛盾ありません。アシュール式石器はアフリカからヨーロッパ、西アジアあたりまでで使われていて、東アジアの原人は、それを使わず、別のチョッパー・チョッピングツールの文化をもつようになりました。ということは、アシュール式石器の製作法を獲得した原人が広まった地域だけでアシュール式石器が使われ、そうでない地域では、アシュール式石器は使われず、また、チョッパー・チョッピングツールの文化は、東アジアだけであって、これがヨーロッパやアフリカに伝搬することもなく、また、独自に獲得されることもなかったわけで、おそらく、遺伝的な拡散とそれぞれの石器文化の使用地域が一致していると考えられます。さらに、ルヴァロア技法の石器は、ホモ・サピエンスとネアンデルタール人のいずれかの棲息域でのみ作られ、また、最近では、このルヴァロア技法のの基本的な部分が、両者の共通祖先である50万年前のホモ・ハイデルベルゲンシスの段階にさかのぼることがわかっています。とすれば、ルヴァロア技法は、共通祖先の段階で獲得されて、それが遺伝的に固定され、その後、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスに分かれたあともずっと使われていたことになり、それ以外の原人のいたところには、広まらなかったこともわかります。さらにいえば、ルヴァロア技法は、ホモ・サピエンスがアフリカをでて進出した地域でも5万年前ごろまで盛んに用いられていたことがわかっています。南インドでも、アフリカのMSAときわめて似た文化が、8万年近く前に始まりずっと使われています。彼らはホモ・サピエンスで(おそらく)、食べていたのは、魚介類であったらしい。しかし、石器の作り方は彼らの生活パターンがほかの中石器文化のネアンデルタール人や、アフリカのホモ・サピエンスとはかなり違うにも関わらず、全く同じようなルヴァロア技法の石器を作っていたことになります。たしかに、中石器時代になると、地域性はでてきますが、そこでも基本的な石器のパターンは同じであり、ホモ・サピエンスとネアンデルタール人は、どこにいっても、ルヴァロア技法を用いた石器を、いかなる環境でも、いかなる食料を食べるところでも使っているというわけです。まさに、地域も文化も越えて、石器は同質で同じで、ただ、遺伝的系統にそって同じ石器文化が伝搬しているということなのです。その石器文化の基本的な姿は、遺伝的に同質であるところでは同じです。これは、あきらかに、石器文化が、遺伝的に固定された、遺伝的に誘導された先天的な行動であったことを表していると思います。石器を作るのは知的作業ではなく、たんに本能的な作業であったというわけです。 で、さらにその後、およそ7万年前ごろにアフリカか中近東で、後期旧石器時代が始まります。そのとたんに、石器の種類はどんどん増えていきます。石だけでなく、骨をつかった骨格器も生まれます。さらに、彫刻をしたり、絵を書いたり、また、装飾品を作ったりという、人間的な行動が生まれます。当時ヨーロッパにいたネアンデルタール人も、どうやら、ヨーロッパに侵入してきたクロマニョン人と交流して刺激をうけたのか、彫刻を作ったり、さらにいろいろな種類の石器をつくるなどしています。しかも、地域ごとに、文化が異なり、石器の作り方も場所場所で違います。まさに、人間的です。現代人的な感性があったということです。工夫がなされ、日々の生活を向上しようという意欲があったように感じられるのです。同じように洞窟に住んでいても、後期旧石器時代以降の遺跡では、炉の配置も、石器の置かれた場所も、すべては生活の雰囲気が感じられるような様子になっています。合理的です。地域性が大きくなったことは、それぞれの地域ごとに対応した生活の仕方を始めたことでもあります。さらに、このような能力の結果か、4万年から3万年前ごろになると、それまで人類が進出していなかった寒い地域などにもどんどん進出し、かなり北方にまでヒトが住んでいた痕跡がみつかるようになります。
工夫をして、生活を改善したり、また、いろいろ道具を発明したり。もちろん、後期旧石器時代が始まった7万年ぐらい前も、今の時間の尺度で考えると、そんなに急激に変化があったわけではないかもしれない。百年に一回くらい発明があったり、石器の作り方に改良があったりしたのかもしれないですが、それでも、それまで100万年とか、50万年の単位でしか変化しなかったのに比べると、遙かに速く生活が変化し、そして、発展していくようになりました。ふつう、私たちは、これをもって知的な人間のあり方と考えます。それに比べると、やはり、いくら石器をつかっていようが、その石器の作り方が緻密であろうが、やはり、後期アシューリアン、あるいは、その後のMSAや、ネアンデルタール人のムスティエ式文化も含めて、なにか、知的というのとは違うように思う。でも、7万年前には、もう、現代人型のホモ・サピエンスは登場して久しいわけです。化石からすれば、16万年前ごろからは、あきらかに現代人につながると思われる人類の骨が見つかっているわけです。骨格上の変化もなく、脳容積の拡大もなく、ただ、なにかが変わって、7万年前ごろから、急速に発展するようになったと考えられます。そして、この後期旧石器時代の文化は、現代人の祖先だけでなく、ネアンデルタール人もその最後の段階で到達しているわけです。あきらかに生活に対する態度の変化であって、生物的な進化とは違うものををここで手にしたのでしょう。こうして見てみると、人間の脳が巨大化しても、それはせいぜい石器の工作が緻密化しただけで、根本的な知性というものを実現してきたわけではない。そのような知性、知的なものは、脳の巨大化が終わった後で起こったのです。進化は、なんらかの淘汰圧がかかって、それに適応していくものが生き残る仕組みですから、脳の巨大化はその脳の巨大化によってなにか得られる優位なものがあったから起こったはずですが、それは、決して、今、我々が考える知性のためのものではなかった、と思われるのです。現代人の知性とはなにかについては、またあとで、考えてみることにします。結論は簡単に出そうには思いませんけれど。
言語が、たんに音声言語だけを対象にしているのならば、多くの動物の鳴き声なども音声言語のように考えられるわけですが、人間の言語の本質は、音声であることよりも、もっと本質的なもので、それは手話になってもよいし、文字言語であってもよいということですから、もっと本質的な言語の定義のようなものをする必要があるかもしれません。というわけで、言語とは何かを考えると、かなり複雑で、よくわからないので、そこんところは、おいおい考えていくことにしましょうか。 Last modified: Tue Mar 8 22:30:00 JST 2005