<2024.2.11 K.Kotani>不定期連載 あの頃、我々は何をやっていたのか 1.「トリトン」の頃


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2024年2月11日

不定期連載 あの頃、我々は何をやっていたのか 1.「トリトン」の頃



アニメーションの自主活動について振り返ってみたい。
 あの頃、というのは、1970年代から80年代、我々の世代がアニメファンとなって、サークルを作ったり、自主上映をやったり、同人誌を発行したり、自主製作アニメを作っていた頃の話である。
 我々、というのは、つまり我々の世代、あの頃にファン活動をしていた、中高生から大学生、一部社会人も含んだ、アニメを観るだけではなく、何らかの活動をしていた人たちである。
 それは、ファン活動をしていたのだろう、と言われるかもしれないが、そういう風に一言ではすまされない事があの頃には起こっていたのではないかと思える。
 この時代のファン活動、というのは、最近(というのは、2000年以降位のここ20年くらいだが)、よく発表されるアニメーションの歴史についての文献・図書においても触れられている事があるが、「この頃からいわゆるアニメーションファンの活動が活発になった」とか、「ファンがセルの収集に夢中になり、盗難事件まで起こった」とか、断片的に触れられているだけで、供給する側の製作現場、興行現場、スポンサーの動き、などについてはそれぞれ関連した動きについて分析されていても、ファンサイドについては、「お金を払って観に来る人たち」「関連グッズを買う人たち」というくくりで処理されているだけであるようだ。

 では、実際、私の周辺について、「あの頃」何が起こっていたのか、振り返ってみたい。

1.「トリトン」の頃



 いわゆる、70年代の「アニメブーム」と呼ばれるものが起こるまえ、アニメ(当時は、「テレビ漫画」と呼ばれていた)や、マンガは、小学校までで卒業するもので、中学生くらいになったら、実写のドラマを観たり、活字の小説などを読むものだ、というのが世間の常識だった。小学校高学年の時に、本屋で「鉄腕アトム」の単行本(新書判で、小学館発行のもの。アトム今昔物語掲載)を買ったところ、本屋のおねえさんに「大きいのに、まだアトムとか読むの?」と言われた事がある。

 小学校の頃から、私はテレビアニメの「スーパー少年ヒーローもの」というものを好んでよく観ていて、アトムだとかソランだとかを再放送の度に観ていたのだが、この「スーパー少年ヒーローもの」というのがジャンルとしてはその頃ほぼ作られなくなってしまい、アトムもソランも白黒なので、再放送もだんだん無くなった。他に「エイトマン」などを早朝に再放送していたので朝早く起きて観たりしていたのだが、ついに全く放送されなくなった。最後に放送されたのが、「びわ湖放送」のアトムだったのだが、滋賀県の放送が大阪で映るはずもなく、わざわざ滋賀県まで観に行く甲斐性もなく、テレビ欄の番組名をむなしく眺めているだけであった。 そういう中、1972年、中学校1年の三学期の終わり頃、当時家で定期購読していた「週刊朝日」に、テレビアニメ「海のトリトン」の1ページの広告を発見した。
 紛う事無い「スーパー少年ヒーローもの」で、「鉄腕アトムの海洋板」と宣伝文句にある。これだ、と放送日を待った。さあ、始まる、とテレビの前で待っていると、いきなりオープニングで、実写の海中のシーンが放送された。なんじゃこれは、と思ったが、本編はちゃんとアニメだったので、安心した。以後半年、毎週の放送を楽しみにして観ていた。意外だったのは、同級生達はもうみんなアニメなんか観ていないだろうと思っていたが、トリトンでは、男子については、放送の終わり頃になると、みんな観ている事が判ったのである。女子については、聞いていないので判らない。

 そして、放送が終ってしばらくした頃、週刊朝日に小さな記事が載った。「トリトンのファンクラブが、「トリトンの続編を作れ」と、放送局にプラカードなどを持ってデモに行った」というのである。記事にはトリトンが低視聴率で半年で打ち切りになった事、結局要求は通らなかったデモの後も、ファンクラブの面々は「続編を作れ。」と粘り強く要望を続けている、とあった。後で判ったことだが、トリトンはキー局が大阪だったので、デモも大阪で行われたようである。また、海のトリトンファンクラブは、大阪支部が事実上の本部だったそうだ。
これも後で判ったことだが、1979年に大阪で開催された日本アニメ協会のワークショップの参加者にAさんという女性がいた。ワークショップ終了後、Aさんはプロのアニメーターを目指しているので、卒業制作のアニメ(大阪芸大の学生さんでした。)を就職活動で使いたい、というのでワークショップの受講生仲間がAさんの下宿に集まって彩色等を手伝っていたが、その時に、Aさんが「海のトリトンファンクラブ」の大阪支部副支部長だった事が判った。なるほど製作でごった返す下宿には、スタジオ見学などでもらったらしいトリトンの動画等が散乱していて、その一枚にはもったいない事にネコの小便が染みていた。その後Aさんは無事プロのアニメーターになれたらしく、タツノコのアニメのスタッフロールに名前が出ていたのを観た事がある。
 なお、時は過ぎて1985年、今はなき大阪府立青少年会館で、第一回広島アニメーションフェスに向けたイベント「第一回きんめまつり」を開催したとき、うちの部屋の隣りで「海のトリトンファンクラブ」の会合が行われていた。「まだ、トリトンファンクラブが活動しているのか」と思ったが、あのデモをしていたファンクラブとは同じ名前の別の組織だったのかも知れない。しかし、「レインボー戦隊ロビンファンクラブ」も、70年代から80年代半ばまで活動していたそうだから、同じファンクラブがまだ続いていたとしても不思議ではないだろう。(写真は、トリトンのレコード。現物は、「どっかにある」はず。)



 また、トリトンの放送が終ってしばらくして、これは当時毎月買っていた「SFマガジン」の投稿欄にKさんという女性の投稿が載っていた。投稿には、いかに自分がトリトンの熱烈なファンであるか、という事が切々と書かれ、「主題歌のレコードを買うのが大変恥ずかしかった」とあった。そう、当時はええ年(と言っても中学生以上位だが)こいて、テレビ漫画の主題歌のレコードをレコード屋で買うのは相当勇気のいる行動だったのである。私もレコードはなんとか買えたが、文房具屋で売っていたトリトンの「塗り絵」とか、靴屋で売っていたトリトンの絵の付いた子供用の靴、等は欲しかったが結局買えなかった。お金がなかったためではない。 こういう、キャラクターの絵がついたグッズが欲しい、とか思うようになったのはトリトンの前にはなかった。途中から番組をカセットに録音して聞き返したり、カメラで画面を写真に撮ったりしたのもトリトンからである。なお、ネットによると、「トリトン」のファンクラブは、この投稿がきっかけになって出来たそうである。(当時、放送を録音したカセット。「ヤマト」と、「ながぐつ三銃士」。)



 時は過ぎて1989年、もう社会人になった私の会社に新人の女の子が入って来た時、彼女から、「昔トリトンを観ていた。トリトンは大変可愛らしかった」という話を聞いた。ふーん、女の子はそういう風に観ていたのか、と当時は思っていた。

 さて、このトリトンだが、本放送で一回、その後夕方の再放送でもう一回観た。2回目の時には、最初観た時のような感動はなくて、「ふーん、私にとっては「幻の名作」になってしまったのかな。」と感じたのを覚えている。さらに時は過ぎ、2006年、地方U局の深夜放送でトリトンが再放送された。「これでDVD買わなくていいや」と全話録画してまた観た。改めて観ると、なるほど設定は古代文明の子孫・生き残り同士が海で超能力じみた力を使って戦う、という荒唐無稽のものだが、あの年頃の男の子があの状況に放り込まれたときにどう感じてどう行動するか、という事が、当時のアニメとしては、実にきちんと描かれている。なにしろ、途中で「トリトンなんかやめて、村に帰る」と言い出して、実際に村まで戻るのである。こんなヒーローは見た事がない。(最初のガンダムでも、途中でアムロが「やめた」と言って、脱走してる。)富野アニメのリアリズムである。そういう点を当時の中学生以上の視聴者は敏感に感じ取って、「これは今までのテレビ漫画とは違う」と思って行動を始めたのではないか。「アニメは、実は面白い。」周りにアニメを観ている人が多ければ、「中学生にもなってマンガを観ている」という風当たりにも強くなる。そう思って改めて見てみると、「あしたのジョー」はトリトンより以前に放送されているし、「ルパン三世」もトリトン以前のものだ。「今まで「マンガはもう卒業」と思って観ていなかったが、こんな面白いものを見逃していたのか我々は。」という事だ。幸いにして、当時は、まだビデオはなかったが、朝早くとか夕方とかに、ジャンジャン、アニメの旧作が再放送されていた。本放送でぱっとしなかった「ルパン三世」が再放送の度に視聴率が上がった、という事もそういう事なのかもしれない。

 さて、その放送の終った翌年1973年、私は突如、自宅にあった父親の8mmカメラを借りて、「アニメの自主制作」を始める。この頃の私は、まだ「TVアニメをよく見ている中学生」に過ぎず、模型飛行機(ゴムで飛ぶやつ)の製作とか、プラモデルの組み立て塗装などに熱中していて、そういう趣味の一環として、「アニメ作り」を始めたような記憶がある。当時は、阪神百貨店の一角のカメラコーナー(結構大きかった)のその一部に8mmカメラコーナーがあり、その一部に「アニメ製作用品コーナー」があった。アマチュア用セットというのがあり、2穴の金属製タップと、2穴のセル10枚、動画用紙30枚位、チューブ入りのアニメ絵の具セット、というもので、それを買った。1000円台だったと思う。同じ所に入門書もあったが高かったのでやめて、同じ阪神百貨店の図書コーナーで、「漫画アニメーション」という一番安い本を買った。その頃はまだ「自分はアニメファン」という自覚はあまりなくて、「作る所から入って、後からアニメファンになった」という珍しい存在だったようである。最初のアニメは一応完成したが、あまり大したものではなかった、というか、ひどい出来でしばらく落ち込んでいたような記憶がある。(写真は、当時に撮影台として使用した引伸機)



 さて、めげずにぽつぽつとアニメを作りながら翌1974年、高校に普通に進学。その年の5月、子どもの日に、テレビで「長靴をはいた猫」が放送された。観た。世の中にはなんという面白いものがあるのかと思った。翌日(放送は日曜夜だった)、通学の電車の中でもずーっとぼーっとしていたような記憶がある。これが、その後の「長編アニメ」おっかけの始まりとなった。
(2.「長編アニメ」を求めて に続く)

(3. 「ファントーシュとFilm1/24 そして」

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