2024.4.25 K.Kotani>
不定期連載 あの頃、我々は何をやっていたのか 「長編アニメ」を求めてアニメーションの自主活動について振り返ってみたい。 あの頃、というのは、1970年代から80年代、我々の世代がアニメファンとなって、サークルを作ったり、自主上映をやったり、同人誌を発行したり、自主製作アニメを作っていた頃の話である。 我々、というのは、つまり我々の世代、あの頃にファン活動をしていた、中高生から大学生、一部社会人も含んだ、アニメを観るだけではなく、何らかの活動をしていた人たちである。 それは、ファン活動をしていたのだろう、と言われるかもしれないが、そういう風に一言ではすまされない事があの頃には起こっていたのではないかと思える。 この時代のファン活動、というのは、最近(というのは、2000年以降位のここ20年くらいだが)、よく発表されるアニメーションの歴史についての文献・図書においても触れられている事があるが、「この頃からいわゆるアニメーションファンの活動が活発になった」とか、「ファンがセルの収集に夢中になり、盗難事件まで起こった」とか、断片的に触れられているだけで、供給する側の製作現場、興行現場、スポンサーの動き、などについてはそれぞれ関連した動きについて分析されていても、ファンサイドについては、「お金を払って観に来る人たち」「関連グッズを買う人たち」というくくりで処理されているだけであるようだ。 前回は「アニメブーム」の始まりの頃について書いた。続き。 2.「長編アニメ」を求めて1974年の5月、子どもの日に、高校生だった私はテレビで東映長編「長靴をはいた猫」を観た。なんという面白いものがあるのかと思った。これが、その後の「長編アニメ」おっかけの始まりとなった。 何故か「長編アニメ」というものは、「長靴をはいた猫」のように全部面白いものだと思い込んだ私は、「もっと観たい!」と長編アニメの追っかけを始めた。といっても、当時は配信はおろか、「レンタルビデオ」すらなく、(家庭用ビデオデッキの発売は1975年。もの凄く高かった。)(レンタルビデオが始まったのは1980年代。うちの 近所で「風の谷のナウシカ」を借りた記憶があるのでその頃と思う。)、長編アニメを観ようとすると、映画館でやっているのを観るか、テレビでの放送を観るしかない時代だった。 しかし、今のように、年がら年中新作の長編が公開されていて「全部観るのが大変・無理」という時代ではなく、目を皿のようにして新聞・雑誌・テレビその他(その頃は、土曜朝に「ムービーガイド」という映画の紹介番組があった。)・プレイガイド(現在ではほぼ絶滅してしまったが、映画や演劇の前売り券を売っている店で、新作映画についてのチラシなどの情報も手に入った。)を監視して情報を入手した。 例えば、新聞のイベント欄に「阪神パーク ◯日〜◯日 映画「バンビ」」などと書いてあると、「ソレ」と出かける訳である。 1974年7月に「ジャックと豆の木」が公開されると早速観に行った。まあまあ面白くて、当時は「ガイドブック」や資料集のようなものはなかったので、「子供用の絵本」を代わりに買ったりしていた。しかしとても物足りない。また、広告の横にある長編アニメ「ペイネ 愛の世界旅行」も観に行った。 それから、「長編アニメ」らしきものがどこかでやっている、と判ると、早速観に行く、という行動が始まった。例を挙げると「箕面温泉スパーガーデン」という所で東映の「パンダの大冒険」を観た。箕面温泉スパーガーデンは今で言うスーパー銭湯で、大きな宴会場があって周りにいろいろな食べ物を売っている店が並び、「客寄せ」のために映画をやったり、生演奏を聴かせていた。観に行った時は昼間という事もあり、大きな会場に客は私と家族連れが一組だけ。ガランとした会場で、生バンドの女性ボーカルのパンチの効いた歌を聴いた後、映画を観て風呂にも入らずに帰った。 また、「阪神パーク」で「バンビ」を観た。阪神パークは、当時阪神間で「宝塚ファミリーランド」と双璧をなす遊園地・動物園で、中に小さな映画館があって、入園すると無料で映画が観られた。大分古い雨の降るフィルムだった。同時上映はディズニーのお子様家庭映画で、お金持ちのおじいちゃんと孫がロールスロイスに乗ってアメ車に乗った悪い連中を懲らしめる、という話と、グライダー競技に出た青年が途中不時着していろいろあってまた競技にに戻る、という話で、グライダーを車で引いて離陸させるシーンが記憶に残っている。なんでそういう映画まで観たのかというと、そういうところでの上映は、映画館のように何時何分上映開始、というきちんとしたスケジュールで上映されるのではなく、順々に成り行きで上映しているので、新聞の情報欄にも上映時間の表示はなく、映画館に入ってお目当ての映画がかかるのを待つ、という状態だったのである。 また、門真市立文化会館で、「タイガーマスク・覆面ワールドリング戦」を観た。門真市青年祭というイベントで、無料。市の公式行事で漫画映画の上映という、このイベントを紹介した記事のサブタイトル「お堅い市教委は腰抜かさんばかり」は当時のアニメーションに関する世間の雰囲気がよく伝わる。併映は「男はつらいよ」でこれは大変面白かった。 この頃には「東映アニメ大全集」のような便利な本はなく、「全部でどれだけあるのだろう」と、自力で東映の長編アニメのリストも作った。、図書館に行って「キネマ旬報」のバックナンバーを出してもらい、新作映画の紹介欄から主要スタッフと諸元を書き抜いて作った。図書館のおねえさんには手間をかけた。リストの最後は1977年になっているが、その後書き足したもので主立った部分は1975年頃に作ったと思う。最後は「決戦・大海獣」となっているが、「ゲゲゲの鬼太郎」ではなく、スーパーロボットものの競演ものである。 同じような事を考えていた人は他にいるらしく、「TELE ANIMATION FILM LIST」という小冊子をガリ版で作った人がいた。テレビアニメの放送リストで、放送年別にタイトルと放送局を集めたものだが、その頃はそういうものすらなかったのである。 当時、ようやく「情報誌」というものを発見した。「プレイガイドジャーナル」という関西の映画演劇音楽などのイベント情報を掲載したB6サイズの小冊子で、「自主上映」というコーナーがあり、その中でアニメの自主上映情報を探す訳である。毎月1〜2件しか掲載されていない事が多かったが、一冊100円(!)という価格もあって毎月買った。イベント名、簡単な内容、会場、開催日時、料金、主催者の連絡先等が載っていた。 そんなもので客が来るのか、というと、当時は結構情報誌の情報で上映会に来る人が多かった。なにしろネットが無いのだから、上映会情報としては別の上映会の受付付近の「チラシ」とか、情報誌に頼るしかなかったのである。この辺が最近の方には判りづらいようである。 後年上映会をするようになって、情報誌に情報を載せるようになったのだが、掲載項目に不具合や抜けがあったりすると、プガジャのおねえさんから電話がかかってきて訂正や補足を求められた。おかげで、上映会の情宣に必要な最小限の項目がわかるようになった。最近の若い人の上映会告知にはよく「抜け」があるが、プガジャのおねえさんのように注意・指導してくれる人が今はいないのだろう。特に最近「抜け」の多いのが、「主催者」の項目で、「誰がやっているのか判らない」上映会がけっこう多いのである。 下記は、当時のイベント欄の一部。誌上ではアニメ上映の情報が集めてあるわけではなく、自主上映欄のあちこちに点在していた。 ある時、阪神百貨店で「長靴をはいた猫」を観た。上映室のような所ではなく、売り場の一部を区切って三方を上を囲い、後ろは開いていた、ので真っ暗ではない。ビデオプロジェクター上映のような気もした。この場所で「お仲間」らしい人々を発見した。スタッフに「森康二」とか「宮崎駿」とかの名前が出て来ると盛んに高速で拍手する方がいて、後年、HAGのFさんである事が判明した。(現在もお元気) この頃は普通に近所に「庄内東映」という東映系の映画館があり、春休みと夏休みに「まんがまつり」をやっていたので、それで「にんぎょ姫」を観た。映画館の前で、ガラスケースの中のスチル写真などをじろじろ見ていると、映画館のおっちゃんが「兄ちゃん、そういうの好きなんか」と事務室に入れてくれた。「スタジオに知り合いがおるから」と出て来たのが「にんぎよ姫」のセルと原画(大判セル用特大サイズ)、背景の本物。それをくれたのである。その時はガラガラだったし、高校生の男の子が一人で「東映まんがまつり」を観に来てるということでサービスしてくれたのだろう。「にんぎょ姫」は後で主題歌のレコードを買った。 「上映会」というものに通いだしたのもこの頃で、これは映画サークル主宰の上映会、「白蛇伝」と、「西遊記」の二本だて。16mm上映だったようだ。 この頃になると、「どうも、「長編アニメ」というものは、全部が面白い訳ではないらしい」という事がさすがに判るようになると同時に、「アニメーション全般」について興味を持つようになってきていたようだ。 図書館に行ってアニメに関する本を探したり、新聞の記事だのなんだのを切り抜いたり、とにかく「アニメ」に関するものを何でもかんでも集めだしたのもこのころだと思う。今そういう事をすれば大変な事になると思うし、今それだけの事をするお金もないのだが、とにかくあの頃は「なにもなかった」のであるから、大丈夫である。(写真は、雑誌の切り抜きと、捨てる予定の百科事典のアニメ部分から切り抜いたと思われるスチル)> どうも全国でそういう事を考えたりやっていたりする人は沢山いたらしく、静岡の全国総会で「昔話」として聞いた話では、「当時あるスタジオの倉庫に入る事を許されたが、見るのはかまわないが、写真を撮ったり、メモを取ったりしてはいけない。」と事前に言われたそうである。では、何をしたかと言うと、「小型のテレコを持ち込み、お目当てのシナリオを読み上げて録音し、後日その録音から書き起こしてシナリオを再現」そうである。確かに写真も撮っていないし、メモも取っていないから約束違反ではない。今であれば笑い話だが、それだけ「我々」は情報・資料に飢えていたのである。> 何でそんなに「情報・資料」を集めていたのか。我々は「今、この目の前にあるもの凄く面白い「アニメーション」というのは何か」「なんでこんなに面白いのか」という事に関して「研究」を始めていたのだと思う。とにかく、アニメーションについて調べても、その疑問に答えてくれる本だの雑誌だのはない。森卓也氏の「アニメーション入門」や、ハラス・マンデルの「アニメーション」という本はあるが、それらの本の記述は、「今」のひとつ前までで終っていて、「もの凄く面白い今のアニメーション」に関してはなにも書かれていなかったのだ。> 「トリトン」以前は幼児と小学生の観るものだったテレビアニメは、その頃には主要観客層が中学生以上に移ろうとしていた。中高生ともなれば、「判らない事は自分で調べる。」事くらいはできるようになっている。研究ともなれば、「資料・情報」を当然集めなければいけない。 その頃から、アニメーションの上映会もあちこちで行われはじめていた。そういう場所で「お仲間」を見つけた者達が、地中の粘菌のように集まり、アニメ談義に花を咲かし始めたのも当然だろう。また、全国でアニメの同人誌がぽつぽつと出始めていた。当時の同人誌に載っていたアニメーション「研究」は未熟であって生硬なものも多く、初歩的な誤りも多かったが(大塚周夫と大塚康生がごっちゃになったりしていた)、なにしろ「ちゃんとした」先行研究の類いがほとんどないのだから仕方がない。未知の分野に挑戦する開拓者としての熱気だけはあふれていたと思う。近年ジブリの広報誌「熱風」に昔のイタリアの日本アニメファンの記事が載っていて、同じく資料の無いままに作品を観て想像力を駆使し、「日本のアニメ制作はこんな現場で作っている人はこんな人だろう」という妄想を膨らませていたという話が載っていたが、昔の我々を思わせるようで懐かしかった。 さて、上映会巡りも習慣化してきた頃、ある情報がもたらされた。それは・・・ (3. 「ファントーシュとFilm1/24 そして」 に続く) (1.「トリトン」の頃) |
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