不定期連載 あの頃、我々は何をやっていたのか PAFと自主アニメの熱狂 そして
アニメーションの自主活動について振り返ってみたい。
あの頃、というのは、1970年代から80年代、我々の世代がアニメファンとなって、サークルを作ったり、自主上映をやったり、同人誌を発行したり、自主製作アニメを作っていた頃の話である。
我々、というのは、つまり我々の世代、あの頃にファン活動をしていた、中高生から大学生、一部社会人も含んだ、アニメを観るだけではなく、何らかの活動をしていた人たちである。
それは、ファン活動をしていたのだろう、と言われるかもしれないが、そういう風に一言ではすまされない事があの頃には起こっていたのではないかと思える。
この時代のファン活動、というのは、最近(というのは、2000年以降位のここ20年くらいだが)、よく発表されるアニメーションの歴史についての文献・図書においても触れられている事があるが、「この頃からいわゆるアニメーションファンの活動が活発になった」とか、「ファンがセルの収集に夢中になり、盗難事件まで起こった」とか、断片的に触れられているだけで、供給する側の製作現場、興行現場、スポンサーの動き、などについてはそれぞれ関連した動きについて分析されていても、ファンサイドについては、「お金を払って観に来る人たち」「関連グッズを買う人たち」というくくりで処理されているだけであるようだ。
前回は「ファントーシュとFilm1/24」について書いた。続き。
4.PAFと自主アニメの熱狂
PAFについては、2020年に「PAFについて考える」という文章を書いている。いま読み返しても、PAFについては特に追記すべきことはないように思えるので、今回は主にPAF以外の当時の自主アニメについて考えてみたい。
「自主アニメ」というものが何時始まったのかは定かではない。既に戦前から16mmフィルムなどでアニメーションを個人制作していた人はいたし、ダブル8/レギュラー8のカメラの多くには「コマ撮り機能」がついていた。シャッターレバーを上げると1コマ、「カシャン」と撮影出来、下げると「ジャー」と連続撮影出来るようなカメラが多かった。(16mmのボレックスも同じ方式)だから、家族で出かけて8mmで行楽風景を撮った後、残った余りフィルムでコマ撮りをしてみみた、という方は結構いたのではないか。
1965年には「日本アマチュアアニメーション映画協会」という団体が発足し、68年には公開での作品発表会を行っている。
同じ1965年には、シングル8・スーパー8の新8mmフィルムの発売も始まっていて、8mm映画の爆発的普及が始まった。撮影の簡単な固定焦点のシングル8カメラの「私にも写せます」というコマーシャルは、マンガにもネタとして使われるほど有名だった。
この頃の自主制作アニメーションは、カメラ好きのお父さんの趣味が嵩じて8mmカメラに手を出し、さらに一部の方がアニメーションまで作り始めた、というのが主流の動きだったようである。当時の8mm映画の専門雑誌「小型映画」にも記事がしばしば載っていて、8mmアニメ作家として有名な田中ヨシハル氏の「アニメ製作教室」のような記事も掲載されていた。
当時、大阪の阪神百貨店には大きなカメラ売り場があり、その一角が8mmカメラコーナーだった。ゼンマイ式のダブル8のカメラがずらりと中古品として並んでいたが、8mmカメラ売り場の一角には、「アニメ製作用品」のコーナーもあり、動画用紙、セル、アニメ用絵の具、筆などや、入門書、8mmで作られた自主アニメ作品も売られていた。コーナーがあるという事は、当時それだけの需要もあったのであろう。
また、メーカー側もフィルム拡販のため後援活動や、メーカー主催のアニメコンテストなども実施していて、小原乃梨子・石黒昇共著「テレビ・アニメ最前線」という本には、若い頃の石黒昇氏が友人と8mmフィルムアニメを作ってメーカー主催のコンテストに応募したいきさつが書かれている。
この時代に自主制作アニメーションを作って発表していた人たちと言えば、小型映画系の方々を除けば、全国にぽつり、ぽつりといった感じだったようだ。東海アニメーションサークルと東京アニメーション同好会(アニドウ)の発足も1967年だから、この頃から動きが始まったようである。
そして1970年、第一回の全国アニメーション総会が名古屋で開催された。2024年に第52回が開催され今日まで続いている全国総会だが、この全国総会での自主制作アニメの上映がのちのPAFにつながったとも言われている。
そして1972年、「海のトリトン」放送開始、その後いわゆる「アニメブーム」が始まって、中高生以上の若いアニメファンが全国に大発生し、各地の上映会を大盛況にしたり、アニメ雑誌の創刊を促したりしていた1975年、「PAF」の上映が始まった。
PAFとは「プライベート・アニメーション・フェスティバル」の頭文字で、その当時自主制作をしていた各地のサークルや個人の作品を東京アニメ同好会が中心となって、東京を始め各地のサークルで巡回上映したものである。
このPAFの開催により、アニメファンの熱狂的動きの一部が自主制作に向かうわけだが、もう一つ、自主制作ブームを盛り上げた動きがあった。
1978年に日本アニメーション協会によって東京で開催された、「アニメーションワークショップ」と、同年大阪で幻覚工房の主催で開催された「実践アニメ塾」のアニメーション制作講座である。
「アニメーションワークショップ」は、古川タク・川本喜八郎・福島治・林静一・中島興各氏などの当時の日本アニメーション協会所属の作家が講師となり、各講師2日ずつの講座を担当してドローイングや人形アニメなどのアニメーションの製作技術を教えるというもの。「実践アニメ塾」は、アニメーション作家の相原信洋氏が講師になり、一週間の集中講座を中心として、ドローイングアニメの基礎技術の講習を中心に、一本の短編アニメを作る、というものだった。
両講座共に、当時のアニメーションへ向かう若者たちの潮流を受け止めるものとして大盛況となった。東京のアニメーションワークショップには、漫画家の山岸涼子さんまで参加され、当時山岸さんの作ったアニメのビデオを観た記憶がある。
この両講座の受講生たちが、講座終了後集まって、いくつかの作家集団としてのサークルを結成した。大阪の実践アニメ塾受講生による「アニメ塾」、アニメーションワークショップ受講生による、「グループえびせん」「金太郎」「いちえ会(という名前だったと思う。人形アニメのサークル)」などである。この他、各地の大学のアニメ研から参加したメンバーが元のアニメ研に戻って自主アニメ製作を主導する動きもあった。
このアニメ講座受講生によるサークルの他、東京の「アニメーション80」や、山口の「グループSHADO」など、アニメ製作を目指す若者たちのグループがいくつも誕生した。
この頃は、まだ、小型映画を源流とする、日本アマチュアアニメーション映画協会や関西アニメーション協会も健在であり、従来からの動きに加えて、アニメブームに乗った若者たちの動きが自主制作アニメ全体を大きく盛り上げていった。
この頃、なぜ各地でアニメーション製作サークルが盛り上がったのだろうか。当時はインターネットはなく、アニメーション技術を学ぶための教科書的な書籍も限られていた。従って製作体験と技術のある中心メンバーの周りに人が自然に集まったという事が一つ。それに、撮影製作機材の問題があった。当時は8mmフィルムによる製作がほとんどだったが、8mmフィルムカメラだけでは撮影はできても、作品は完成しない。フィルムを編集するエディター、フィルムを接合するスプライサー、映写・録音のための映写機、撮影のための三脚・照明機材など、当時の物価の中でも、まずまずの機材だけでも一そろい揃えるためには30万円くらいは必要だった。最上級のカメラだった富士のZC1000となると、カメラだけで30万近くした。そういうものを揃えるだけでも中々大変でもあり、また、「撮影技術」の習得も大変であった。当時の8mm自主制作アニメの上映会といえば撮影失敗実例のオンパレードであり、画面がズレてタップが写ったり、画面の外の色が塗っていないところが写ったり、色温度が合わない(デイライト用のフィルムを白熱電球で撮影)もの、露出がうまく合わせられずに、暗い画面、または飛んでしまった真っ白な画面、ピンぼけなどは日常茶飯事だった。今の、撮影したものがその場で確認できる環境からは想像に絶するものがあった。
よって、初心者の方は、しかるべき人のいる製作サークルに所属しないと、撮影すらできない、という状況であったのだ。
そして、当時はPAFの他に、自主アニメーション上映会が多く開催されていた。日本日本アマチュアアニメーション映画協会や関西アニメーション協会の上映会もあったし、東京では、「ぴあアニメーションサマーフェスティバル」、関西では「AAPA」というPAFのような公募型の上映会も定期的に開催されていた。>
また、アニメーション80、金太郎、グループえびせん、アニメ塾などは、サークル単体で、メンバーの作品を上映する上映会を開催した。当時の上映会にはよく人が入ったし、上映会に参加した観客の中から、製作サークルに参加するような人もいた。アニメーションに向かう大きな潮流の一つとして、自主制作の世界を覗いてみようという人たちだったと思う。
この盛り上がりは1970年代後半から1980年代前半まで続いたが、アニメ自主活動の盛り上がりが商業的な情報誌や解説本、アニメ専門ショップの全国展開などに引き取られる形で後退していく中、8mmフィルム機材の衰退も相まって、90年代始めにかけて、氷河期にさしかかったように冷え込んでいく。大学アニメ研を含むアニメ製作サークルは解散したり、存続していても、自主制作活動は行わないOB会化していった。
自主アニメーション制作活動が再度活発化するのには、パソコンによる製作環境が整っていく、1990年代後半以降を待たねばならなかった。
(5. 「自主アニメ講座の時代」 に続く)
(1.「トリトン」の頃)
(2.「長編アニメ」を求めて)
(3.ファントーシュとFilm1/24 そして)
|