<2025.03.02 K.Kotani>不定期連載 あの頃、我々は何をやっていたのか  4


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月刊近メ像インターネット


2025年03月02日

不定期連載 あの頃、我々は何をやっていたのか
自主アニメ講座の時代



アニメーションの自主活動について振り返ってみたい。
 あの頃、というのは、1970年代から80年代、我々の世代がアニメファンとなって、サークルを作ったり、自主上映をやったり、同人誌を発行したり、自主製作アニメを作っていた頃の話である。
 我々、というのは、つまり我々の世代、あの頃にファン活動をしていた、中高生から大学生、一部社会人も含んだ、アニメを観るだけではなく、何らかの活動をしていた人たちである。
 それは、ファン活動をしていたのだろう、と言われるかもしれないが、そういう風に一言ではすまされない事があの頃には起こっていたのではないかと思える。
 この時代のファン活動、というのは、最近(というのは、2000年以降位のここ20年くらいだが)、よく発表されるアニメーションの歴史についての文献・図書においても触れられている事があるが、「この頃からいわゆるアニメーションファンの活動が活発になった」とか、「ファンがセルの収集に夢中になり、盗難事件まで起こった」とか、断片的に触れられているだけで、供給する側の製作現場、興行現場、スポンサーの動き、などについてはそれぞれ関連した動きについて分析されていても、ファンサイドについては、「お金を払って観に来る人たち」「関連グッズを買う人たち」というくくりで処理されているだけであるようだ。

前回は「PAFと自主アニメの熱狂」について書いた。続き。

5.自主アニメ講座の時代」




(大阪ワークショップ募集チラシ)

 1978年夏、奇しくも時を同じくして大阪と東京で「自主アニメ製作講座」が開催された。大阪では、幻覚工房企画・相原信洋氏を講師とする「実践アニメ塾」、東京では、日本アニメーション協会主催の「アニメーションワークショップ」である。「実践アニメ塾」は、概ね1週間のメイン講座と、その後の撮影・上映会まで、ドローイングアニメーションを学びつつ、個人がそれぞれの短編アニメーションを完成させるというもの。


(実践アニメ塾募集パンフとハガキ)


(アニメ塾受講生による講座ノートをまとめたもの)


(アニメ塾講座風景・左は相原氏、右は私)

 アニメーションワークショップは、複数の作家がそれぞれ2日ずつの講座を持ち、それぞれの技法を体験しながら、実際のアニメーション技術・理論を学ぶというものだった。
 東京のワークショップには、漫画家の山岸凉子さんも参加したという記録があり、私も山岸さんが描いたと思われる動画のビデオをどこかで観た記憶がある。


(日本アニメ協会会報「ANIMAIL」より)

 この年、両講座とも大いに盛り上がり、大阪のアニメ塾は31名、東京のアニメーションワークショップにも多数の参加者があり、東京のアニメーションワークショップに関西から参加した4名の女性が、「大阪でも開催したい。」と動き、翌1979年に、大阪でアニメーションワークショップを実現するに至った。(1名がプロになったため、3名がメインで実施。)


(1979年の日本アニメ協会のワークショップチラシ)

 この1979年の大阪ワークショップには、当時盛んに活動していた同志社アニメ同好会、阪神アニメーショングループ、前年開催のアニメ塾のメンバーもスタッフとして参加し、全関西の盛り上がりの中心となっていたようだった。

(1979年の大阪ワークショップ募集チラシ)

 この日本アニメーション協会主催の講座は東京では1982年迄続き、大阪でも毎年開催され、東京の講座が終った後も、有志によって1984年まで続けられた。
 一方、アニメ塾の方は、最初の受講生が集まって作家集団「アニメ塾」が作られ、各自が製作した作品を持ち寄って、大阪・京都・東京などで上映会を開催するかたわら、1980年と82年に、受講生自身の企画による製作講座を行った。


(1979年のアニメ塾上映会のパンフ)


(1982年の講座風景。黙々と動画描いてます。)

 この2つの団体の違いは、当時のアニメーションワークショップが、「作家の先生を招いて学ぶ」という方向だったのに対し、アニメ塾は、「自らが作家となって作品を制作・発表する」という意識で活動していた点である。
 撮影方法も、アニメーションワークショップでは、当初ビクタービデオセンターの提供する業務用Uマチックビデオ(150万位)と、コマ撮りコントローラー(十数万する)と、放送用ビデオカメラ(一千万以上?)を使ってコマ撮りしていたのに対し、アニメ塾は個人用の8mmフィルムカメラで撮影していた。これは、アニメ塾は受講生がいずれは自立して自分で撮影迄できるようにするという方向だったに対し、ワークショップはプロの先端の技術に触れる、という所を重視していたのではないだろうか。アニメ塾の講師の相原信洋氏は、海外でも「8mmカメラがあれば、自分でアニメが作れますよ。」と言って回っていたそうである。ただ、後になってビクタービデオセンターの支援が受けられなくなってからは、ワークショップも、家庭用デッキで一時停止ボタンをちょんちょんと押してコマ撮りする、という方法に変わらざるをえなくなっていたが。


(1984年のワークショップ撮影風景)

 こうして開始当初は熱狂的に盛り上がった両講座だったが、次第に熱が冷めたというか、毎年の新規受講生が翌年の運営を行う、という形で続いて来たアニメーションワークショップ大阪は1984年の開催を最後に、活動を引き継ぐ者無く途絶えた。アニメ塾も、隔年で行っていた講座は1982年を最後に開催されず、1985年のきんめまつりへの上映参加を最後に活動を止め、1986年に解散を宣言した。
 その後、元アニメ塾メンバーを中心として、京都で「地球倶楽部」という共同製作スペースを設けたりした活動もあったが、次第に先細りとなって、1995年頃には活動を停止した。
 また、1990年頃に、徳島市が「徳島アニメ学校」という公設のアニメ講座を開設した。こちらは、アニメーションワークショップのスタイルを踏襲し、土日の2日間に東京・大阪から講師を招き、それぞれの専門分野のアニメーション技術を伝授するというものだった。毎年年度末には、受講生の作品を集めた上映会も開催していた。また、「徳島アニメスタジオ」という市民による手作りアニメスタジオを設立し、公的団体などから受注したPRアニメの製作などをおこなっていた。しかし、2000年3月、「ぼちぼち10周年だね。」などという言葉の出る中、予算難であっさりとなくなってしまった。
 2001年4月には、宝塚市で「ピピアめふアニメ教室」がスタートした。現在も続いているが、70年代のように熱狂的に受講生が集まる事はなく、本当に細々と続いている。(受講生なし、の月もあった。)
 こうして、1970年代のアニメ自主活動の熱気の波に乗るようにして盛り上がったアニメ製作自主講座であるが、アニメーション自主活動の衰退に引きずられるようにして勢いを無くしたのだった。


(6.「終章・それで、結局我々はなにをやっていたのか」 に続く)

(1.「トリトン」の頃)
(2.「長編アニメ」を求めて)
(3. ファントーシュとFilm1/24 そして)
(4. PAFと自主アニメの熱狂)

 

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