wien

2001.03.31. sat
●やっとウィーンに到着
夜9時過ぎにウィーン到着。仙台をたってからまるまる24時間はたっている。かなり疲れが体にきている。しかし、これからどうやって市内に入っていくのか、事情がつかめない。ウィーンの事情については、事前にあまり調べる時間もなかったし、ガイドブックも買っていない。夜も遅いと言う事もあり、お店はほとんどしまっており、待ち合わせの人達だけで、閑散とした様子。
空港内のマックもそろそろ閉める準備に入っている。電車で市内に入れること位はわかっていたので、そっちに向かうが、どうも終電はいってしまっているらしい。ホームに向かう通路には誰一人いない。なんだか、治安の事も良くわからないまま来ているので、ちょっと、不安がよぎる。
気を取り直して、バスに切り替え今度はバス発着場まで戻って歩いていったが、どこ行きにのったら良いのか、いくらするのか、どこで券を手に入れるのか、仕方なくひたすら人に聞くしかない。結局わかったことは、バスは1時間おきに出発しており、ぼくらが迷っている間に、直前に出ていってしまったことを。あと1時間、この閑散とした空港にいなければいけない。しかたがなく、ポーッとしているしかない。
たまたま隣に居合わせたおばちゃんが、話し掛けて来た。全く不馴れな感じの僕らを察しての事だろう。そんなつもりはなかったが、顔に思いっきり"不安"と出ていたのかも知れない。
さてバスに乗込み、やっと目的地のSudbanhof (シュッドバンホッフ駅=南駅)に向けて出発。一面はもう真っ暗である。
オーストリアはどちからというと、緑豊富なイメージはあるが、通ってきた街はニュージャージーとか湾岸線の首都高沿いの京浜工業地帯の様なところだった。コンビナートとか、わけのわからない巨大な機械なのか建築なのか、見分けのつかない"もの"が延々と続く。あっちこっちに煙突から煙は出ているは、不必要とも思われるくらいに照明がつけられていて、気分を盛り下げるだけの景色ではある。美しきウィーンとはどことも結びつかない世界まったくドライな世界。しかし、、人々が暮らしてそこに経済がある限りは、切っても切れない関係にある。表があれば、裏もある。浮き足立った観光客には、決して歓迎すべき風景ではないが、かといって現実を避けるべきではない。そういった意味でも、この位置にそしてこの空港を建設したのには意味があるのかも(ちょっと考えすぎか)。
眠そうな目をこすりながら、そうこうしているうちにシュッドバンホッフ駅に到着。ここまで約30分位。バスが駅に寄り付く前に、今晩から泊まるホテルPRINZ EUGENを乗っているバスの窓から確認。事前情報では、”駅の近く”という非常にあいまいな情報しか手に入れていなかったので、ホッとする。いくらウィーンといっても、こんな夜中にうろうろはしたくないものだ。チェックインをする。フロントの対応は遅い到着にもかかわらず、非常に丁寧だ。部屋を確認。こじんまりとしたホテルで、過不足無しといった感じか。まあ、場所的にいっても、日本で言うビジネスホテルといったところか。
しかし ここまできたら、もう日本を発ってからかなり時間がたっている。疲労もかなりなもの。すぐに寝の体勢に入りながらも、あす生まれて始めて見るヨーロッパの街並を想像しながら、あっという間に、そして途中で夢も見ずに、深い眠りに入るのであった。

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2001.04.01. sun
●トラムに気をつけよう
晴れやかな日射しが窓から差し込んで来ました。思いっきり快晴です。
街見学にはもってこいの天気。
その前にPRINZ EUGENの朝食を。パンとコーヒーとヨーグルト、フルーツが取り放題。ホテルとしては充実しているのでは。もちろん、日本のビジネスホテルのように、日本食も洋食もバイキングで並んでるものとは”量”としては見劣りする。しかし、ヨーロッパの朝食の習慣はそんなに重みを置かないのか。しかし、パン、ハム、フルーツの数々は鮮度は高い。どれも美味しく感じる。僕にとっては、非常に適量で満足な一日のスタート。
いよいよウィーンの街へ出発だ。とにかくトラム(路面電車)が発達しているので、インターネット(http://www.wienplan.com)であらかじめ入手した路線図を頼りにとにかく乗込む。切符はどこにでもあるタバコ屋で購入。乗込んだら、機械があるのでそこにはさみを入れる。それだけ。どこへ行くにも、一定料金。もちろん乗り換えればまた払うけれども、バス、トラム地下鉄とも共通だ。
まずはKartsplaz駅手前でおりる。快晴の天気の中気持よくのこのこと歩きながら、初体験のヨーロッパの街並をじっくりと観察。本当に建物同士が接近して、そしてしっかりと統一感のある街並が、街路がつくられている。もう、これだけで感動もの。あまりにも見とれていてたら、左肩よりトラムが接近、危うく引かれそうになった。全然スピードを落とす気配がなかったので、もうここは、街に立っている事自体自分の責任だ。引かれてもきっとおかまいなしなんだろう。そういえば、かのガウディーも路面電車のひかれて命を落ている。そこまでは、有名な建築家ではない全くないが、、、とにかくトラムには気をつけよう、彼らはクラクションを鳴らすだけで、決して止まらない。

●ウィーンの人々の良識
ウィーン市内の移動はとにかく便利に出来ている。チケットひとつで、どこへでも、そして移動手段(トラム、地下鉄、バス)はどれでもOK。乗るのに検札も、切符の自動入札機もない。すべて自分で行う。 時々は検札に来るといわれているが、少なくとも、僕らがトラムと地下鉄を使いまくった3日間は全く来る気配も、その様な車掌も見かけなかった。あくまでも"大人"としての良識を求められている。
一体どこまでウィーン市民はこの制度を良識持って、守っているかどうかは良くわからない。しかし、このシステムはもうずっと100年近く、そうしてきていることと、収益上多大なる損失をしているとがわかったならばシステムを”日本的な管理社会型のもの”換えているだろう。これは人を信用しているのかしていないのかに関わる社会性の問題ではないのかな。日本では考えられないことだ。
基本的には人を信用していないところから始まる。教育を含めて”だめ”社会ではないかね。"何をしてはだめ、これもしてはだめ、だめ、、、、"から物事が始まる。そして残されたところに自分を見出すことからはじまる。何が"出来るか"の前に立ちはだかる"注意書き"の数々。どこか変だよ日本は。もっと”大人”になろうよ。

●ウィーンの建築物達
街を見ながら歩いていると、kartsplaz広場に面する"カールス教会"にご対面。その存在感と、見事に芸術として昇華された壁面彫刻は見事としか言い様がない。聖堂の高さもかなりなもの。70mくらいはあろうか。ドーム内に入ったら、ちょうど日曜礼拝のさなか。その垂直方向にのびていく圧倒的な空間にしばし呆然とする。キリスト教信者でなくとも、神聖な気持になるのは、人間の本能に共通して訴えてくる"何か"があるからなのか。きっと信者にとってはそれが"神"の存在に近いものなのかもしれない。
さて、ここを後にしてウィーンに来た楽しみとして、オットーワーグナーの建築達に会うことである。その代表作であるkarlsplatz駅までさらに進んでいく。kartsplaz広場を抜けていくと、日曜日のまだ肌寒い中を、まだよちよち歩きの子供達があっちこっちで遊んでいる。ヨーロッパの子供達は本当に端正で愛くるしい顔だちをしている子が多い。なんとものどかな日曜日の一コマ。
初見参、karlsplatz駅である。同じ形状の駅舎が向かい合うように建っている。ひとつは地下の駅からの出入り口として、もう片方がcafe"otto wagner"としてどちらも立派に機能している。先ほどの大聖堂とは明らかに異なる、シーレとかクリムトを連想させるいわゆるウィーンのアールヌーボの様相が感じられる。残念だったのは、壁面装飾が結構色褪せており、写真集で見る程の美しさが感じられなかった。

足早に今度は次なる目的地の分離派館(secession house)である。karlsplatzからは歩いてすぐのところ。
しかし、途中の信号待ちでちょこっと座ったことにより、あとで思いも寄らぬ物をなくす羽目になるとは知らずに、のんきにもそのまま進むことになる。
程なく到着する。わずか、10分足らずの徒歩である。"分離独立=secession"を意味する前衛芸術家達がこのような都市の真ん中の一等地にこのような建築物を建てられたことに感嘆をしてしまう。それくらいに前衛芸術は当時支持されていた運動だったのか。ちょっと時代をさかのぼって勉強してみないと理解は出来ない。
建造されたから1898年建つというが、現在でもその姿勢は貫き通されている。入館料を払って最初に入った正面の大ホールにはいくつかの暗幕のブースに分かれて、東南アジアの映像が流していたが、全く意図がわからない。とにかくどうってことのない映像(少なくとも僕にはそれ位にしか僕の目に映らなかった。)が漫然と、色んなブースで映し出されている。これをどうやって理解せよというのか。理解しなければいけないことを理解することが前衛芸術なのか。
気を取り直して さらに地下に入ると、またまた不思議な(というかわけのわからない)インスタレーション。床一面にPCゲームで使うようなコントローラが一面セットされていて、前面の壁に大画面で分けのわからない映像が流れている。後で、調べたところ、AXEL STOCKBURGER という方のインスタレーションということだった。なにかインタラクティブに連動されているのかと思いコントローラに触ったけれども全く反応はなし。さっぱりわからない。これぞ前衛芸術なのか。それでも、ジッと眺めている若い人達もいて、きっと彼等PC世代には理解できるのだろう。残念ながらぼくにはついていけない。ここでの活動は、http://www.secession.atにて確認することが出来る。
なんだか、良くわからないまま、そして損した気分のまま、一方では自分が理解できない不甲斐無さからなのか、気分はすぐれないままさらに地下に行くと、クリムトが描いた壁面が描かれている。ここはさすがに警備も厳重で、撮影も禁止。ジッと目に焼きつけるしかない。ちょっと、ナマで見るクリムトのちょっとエロティックな感性にちょっと鳥肌がたつ。やっとここに来たかいがあったと、ホッと胸をなでおろす。

そしてまた、ひたすら街を鑑賞するため、てくてくとひたすら歩く。歩く行為こそ、一番原始的で、観察しやすい環境はない。ゆっくりと移り変わる情景、ちょっとしたことでも見逃さない。ただし、今後の過酷な長旅を考えるとちょっとセーブしておくべきだったかなといまから反省している。旅の後半は本当に足が棒になってしまった。 オットーワーグナーのマジョリカハウスも見に行くが外見のみで、これは列記とした集合住宅なので全く中に入れない。こんなものかといったら失礼か。これ以上のコメントは割愛させて頂きます(ここだけ本人に敬意を表して敬語)。


そして、どんどん街に入っていくのである。Stephan platzに到着、目の前に聖シュテファン大聖堂、その向かいにモロ現代的なハンスホライン設計の建物が対峙している。ここはウィーンの街のおへそ見たいな広場で、とにかく人でごった返している。そこには説教を大声で叫んでる女性もいれば(誰も聞いてもいないのに、なぜ、どうしてそこまでして叫ばなければいけないのか、、、)、聖シュテファン大聖堂の案内をするために(もちろん有料)たむろっている集団もいれば、ただ自由の女神みたいな格好をして(これをパフォーマンスといえるのかはなはだ疑問)いる人達、そしてこれらを取り巻く観光客の人々。
聖シュテファン大聖堂内に入る。そこは、静粛、厳正、そして神聖なる空間がたたずんでいるのである。スケール感はカールス教会を遥かに凌ぐ圧倒的な垂直感がある。ちなみにヨーロッパの教会は基本的にすべてタダ。運営するのも、人々の寄付と善意によるものからなのか。どこかの国のどこかの街(KY×TOとか、、、)の金ばっかり取る寺と違う。まあ、こればっかりは宗教感からなるものか。さて、そうこうあっちこっちと街を探索しながら、ハンスホライン設計のレッティーろうそく店、ドイツ宝石店などを横目で見ながら(特にお店の中の商品には興味がないので、中には入らなかった。そこまであつかましくなれなかった。)、歩いていくうちに聖ミヒャエル教会前、Michael Platzに到着。ここの広場は、馬車の発着場でもあり、たくさんいて出番を待っているところ。ここに面するのが、これから初体験するオーストリアのカフェだ。

しかし、さっきから手で持ち歩いている紙袋をごそごそとかきまわしたが、日本で調べたトラムや地下鉄の路線図が見つからない。どうしても、見つからないのだ。 実は、これが忘れ物第1号となってしまったのだ。Secession館の目前、信号待ちしているときに何気なく座ったところ(ベンチでもなんでもないんだけれども。)に見事に10数枚の路線図を忘れてしまっていたのである。地元のmapでは路線図は今一つ頼りがない。

●始めてのカフェ グラインシュタイダル(Greinstaidl)
忘れてしまったもの、仕方がないので、あきらめて気を切りかえることとする。
Michael Platzに面している由緒正しき歴史のある、Greinstaidlに決定。決定しておくのは良いが、とにかく勝手がわからないまま、一歩その世界に踏み入れるとする。
そして扉を明けるが、あたかもぼくらはそこにいない、まるで透明人間にでもなったような感じ。反応が、全くない。いらっしゃい!みたいに日本的にフレンドリーにだれか声を上げるわけではないみたいだ。そこに立っていても仕方がないので、一歩進みながら、なんとなくウエイターに視線を送りつつ、座ったところが、窓側。ここからお店全体を眺める事もできるし、窓側はソファーとなっており、ゆったりとしている。実際に、みんなここで"ゆったり"としているのだ。ソファーはふわっとしているし、テーブル当たりの面積は広く取っているし、新聞もゆっくり読めるように金物をつけているし、なにしろみんな、くつろいでいるのだ。
ところで、ここオーストリアでは、コーヒーの呼び方が根本的に日本と違うから注文する時に注意が必要。まあ覚えていればなんてことないんだけれども。
Mokka(モカ)----------------ブラックコーヒー
Kapuziner(カプツィナー)-------コーヒーの上にホイップクリームをのせたもの。
                    日本ではなぜかウインナーコーヒーと呼ばれて
                    いる。
Melange(メランジェ)---------コーヒーとミルクを半々。 熱いミルクを
                    エスプレッソマシーンで泡立てている。
Einspanner(アインシュペンナー)熱いモカの上に蓋をするようにホイップ
                     クリームが乗せられている。
Maria Theresia(マリアテレジア)コーヒーにオレンジリキュールをいれ、
                     その上に生クリームがのっている。

これらが基本となるのだけれども、これ以外には何があるのかはよくわからない。 もしかしたら、それぞれのお店に、オリジナルというものがあるのかもしれないけれども、 大体はコーヒーのメニューは見当たらなかったので、ないのかも。変わったものを堪能するのも良いのだけれども、”基本”なものを飲んで、それぞれのお店の特徴を味見するのも楽しいもの。ぼくらは明らかに後者のパターン。

ウエイターはかなりの面積を一人で仕切っているので忙しく、あっちこっちと動き回っている。程良く、こっちが落ち着いた頃にこっちの席にウエイター登場。彼は、しっかり僕らの動きをチェックしていたのである。そして、感心したのは、別にこっちが東洋人で、どうみてもみすぼらしい(決してほめられるカッコをしていないのである。)洋服のぼくらに、哀れみの目つきもせず、あくまでも平常心で、そして僕らのオーダーに対して冷静に、そして威厳を持って対応してくれる。オーダーは事無きを得る。言葉で言いながらも、たまたま持っていった、カフェのことを説明している切抜きを見せながら(これがカッコ悪いのだ。)ケーキはショーケースに入っているものを選ぶ。メニューには一覧が載っているが、とにかく目で見て、納得したものを選ぶことにする。ドイツ語で書かれても、理解できない僕らには指でケーキを指すことが、精一杯である。

そして、どのカフェに入っても、僕はmelangeを、妻はkapuzinerかeinspannerを頼んだ。まあ一番安心するもので、間違いがない。そして、確かに美味しいのである。まずい、水っぽいコーヒーは、20日間ヨーロッパを旅行しても一度として出会ったことはない。
オーストリアの習慣だと思うが、頼まなくても水はコップ一杯ついてくる。そのコップの上にスプーンがのっている。見なれない不思議な光景。どのウィーン内のカフェどこに行っても同じこと。単なる習慣だろうが、理由はわからない。しかし、思い起こせば、これから旅するイタリア、フランスと比べて、頼まなくても水が出たのはここウィーンだけだった。それだけ、水が豊富なところなのか。ぼくら日本にいるとコップ水は出てきて当前だが、ここヨーロッパでは貴重なもの。レストランでは頼まなければ決して出てこない。ウィーンでは多少なりとも、習慣と事情が異なっているのかもしれない。
そして、ついに始めて口にするウィーンのケーキ。僕はTorte(チョコ系)、妻はDiabetikerschnitte(レモンのかかったチーズケーキ)だった。こんな名前のケーキじゃ、メニューみても分からない。名前はレシート見てわかったくらい、とにかくどこへ行っても現物主義で行くしかない。自分の語学力を恨むしかないだろう。 なかなか上品な味で、あっという間に平らげてしまった。

●ヨーロッパの街と糞
こればっかりは、汚いけれども避けて通れない各国共通の事情がある。それは"糞"である。今回たずねたどこの国も、犬の糞に対して慣用である。そこら辺に転がっていようとも、だれも文句も言わない。そして、そこにあたかもなかったように、スタコラ歩いている。こっちが見ていて、歩いている人が踏んづけてしまう!と声を出そうと思っても、彼らは見事に寸前に避けて通っていくのである。隣の人とおしゃべりして、どうみても先を見ていないと思って見ていても、見事に避けていく。こっちは、ゆっくりと街を眺めながらゆっくり歩きたいにも関わらず、全く油断は出来ない。危険はそこらじゅうにある。都市生活者でも、犬と暮らすことを基本としているのか。狩猟民族にとっては、犬は狩をするための必需品でもあり、また良きパートナーでもあり、理解者でもある。都市生活者にとっても、郊外に住むものにとっても、とにかく犬は必需品なのか、都会に住んでいても、彼らは狩猟民族から抜けきれないのか。
小型犬の比率が多い(家の大きさの問題があるのだろう)が、朝に夕方に、散歩に出歩いている人達が多い。当然あっちこっちは糞だらけ。小型犬ならばまだ、だすものカワイイが、大型犬ともなると、、、たまらん。
また、ウィーン市内は観光用の馬車が沢山、街中練り歩いている。当然、予期せぬ糞に出くわすことになる。一番参ったのは交差点で待っていたら、いきなり目の前で馬が糞をしてしまい、事態を正確につかめないまま呆然としていたところに、後からきたバスが"それ"を避ける事もなく思いっきり後輪に巻き込んで、糞を細かく噛み砕いて、道路中に撒き散らしてしまった。自分にとって、あまりにも突然なことだったので、時間が一瞬止まってしまったと思うくらい衝撃的だったけれども、そのあとのものすごい臭いも負けず劣らず衝撃的だった。しょうがないことなのかもしれないけれども、正直、勘弁してほしい。色んな意味(糞だの、挙動不審者だの)で、都市を歩くことには、緊張を強いられる事になるのだ。

●都市生活者の光の井戸
ヨーロッパの都市生活者は、きわめて合理的な考えのもと、どのように快適に生活できるのかを良く知っている。それこそ、何百年にも渡って、彼らは都市生活をしている。道路から、光庭を通って、各住戸に入る(picture 00)。これが、結構明るいのである。建物の高さと光庭の大きさの比率(ヴォリュームの縦横比)で程よい明るさがある。建物は四方囲まれた形状なので、当然、南、北、西、東向きそれぞれの住戸があるわけだ。これは日本ではまず考えられないことだ。基本的に、日本は全国どこでも、南面信仰がまだまだ抜けきれない。都市のど真ん中にいようとも、南向きにとことんこだわる。日本的といえばそれまでだけれども、それによる、制約の大きさにまだ気づいていない。日照にたいして、異常なまでの執念は全世界的に見ても、珍しい現象である。
さて、光庭に面して各住戸が集まっているので、当然お互いの視線のバッティングは発生する。窓の先を見れば向かいの居間が見れるくらい接近している。しかし、彼らは一向に気にしない。窓での視線の調節は、カーテン等で行えば良いという考え方に基づいているからだ。"集まって住まう"という命題に対して、徹底的に合理的である。




 02




 

 

 

 


 

 


 


PRINZ EUGENでの朝食


トラムとは、こんな
路面電車です。




自動車と一緒に
走っている。




カールス教会



カールス教会内部
丁度日曜礼拝中



karlsplatz駅
オットーワーグナ作
有名ですよね。


secession house



分離派館内の
ショップに面白い
T-shirts



stockburgerという
アーティストの作品
サッパリ理解できず



マジョリカハウス



光と影、どこでも
絵になる街角。


まるでキリコの世界。



建物の中が
通路になっている。
街と建物が一体化
している。



シュテファン教会
天を突き刺す
高さである。



シュテファン教会内
とにかくスケール館は
圧倒的



ステファン教会広場前に
ハンスホライン設計の
建物がある。一部改装中



Greinstaidl内に
パチリ



とてもおいしいケーキ達
濃密です。



店内にクリムトの
大きな絵が
飾ってある。



途中に入ってみた
建物の光井戸。



少ない光でも
絵になってしまうのだ。



建物の中の
中庭はこれくらいの
スケール感。
決して暗くはない。