記紀に記された『国譲り』の舞台は、「出雲」ではなく、「常陸、陸奥」です。
ー 常陸国の大甕神社と舟戸山古墳の謎について(その2)ー
2026年10月20日
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これが根拠となり、
経津主神と武甕槌神の国譲りとは、饒速日尊親子の 東国での開拓事業のことを指している、と気づきました。
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ここで大和朝廷が成立する迄のステップを簡単に記します。
(参考:私の歴史年表 http://plaza.harmonix.ne.jp/~udagawa/nenpyou.htm)
�@紀元前後 北九州を中心に百余国のクニが分立。 博多湾岸の王は、甕棺墓に三種の神器の祖形(鏡、剣鉾、玉)を副葬し、朱を使用しています。 �AAD25年頃 ニギハヤヒは北九州の若者を率いて遠賀川河口から大和盆地に出発。 最新の農耕技術を携えて、征服ではなく、現地の縄文人と友好的な関係を築いての「新天地での開拓」が目的でした。 それが縄文人の長髄彦に理解され、ニギハヤヒは彼の妹を娶り、婿入りにより長髄彦一族の一員になり大和入りします。 奈良盆地の中央で、当時は湿地帯のなかの微高地だった唐古・鍵に開拓集落を形成し、開拓を進めました。 ニギハヤヒは、出雲から九州に派遣された(スサオノの子の)オオトシで、奈良盆地の開拓は出雲系縄文人が行ったことになります。 �BAD55年頃 ニギハヤヒは東国の開拓に向かいます。 東国は縄文人で栄えている地域です。ニギハヤヒは長髄彦の時と同じように現地縄文人と協力しての開拓が目的でした。 常陸の鹿島神宮の地を本拠地として、縄文人のネットワークを利用して宮城県あたりまで活動しています。(近畿〜関東〜東北) �CAD57年 日向の倭奴国(倭のクニ)が遠路遥々、後漢の首都・洛陽に朝貢します。 【建武中元2年、倭奴国 奏貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜うに印綬を以てす。】 倭国の極南界というと 北九州ではなく 日向( 古代日向は 薩摩・大隅を含む)になります。 光武帝は倭奴国を破格の「諸侯」として扱い、 金印・超大型の玉壁などを授け、大規模な冊封団を女王国(=倭奴国)に派遣し、その都の位置を夏至の日に「圭表」で計測します。 その記録が、「魏志倭人伝」※1 の、女王国への行程の前半であり、都の位置は、【郡より女王国に至るまで万二千余里なり】と 【其の道里を計るに、当に会稽の東治の東に在るべし。】の二つで、ピンポイントで宮崎と決定されます。 「魏志倭人伝」に記された風俗は、冬でも温暖な日向の風俗が採用されてます。 ※1:魏志倭人伝には時代の異なる二つの「女王のクニ」が混交しています。後半の倭国との交流史に記されているのが、3世紀の卑弥呼の邪馬台国です。 �DAD80年頃 「倭のクニ」はニギハヤヒの「日本(ヒノモト)国」と、互いの後継者が結婚することによって、合併することになります。 この計画は、縄文人の「飛騨王朝」のプロデュースで、出雲、日向、大和の縄文人の間で決められ、全国の縄文人はそれを知らされました。 �EAD83年 神武東遷。 日本書紀では、会議を開き『東の方に良い土地があり、青い山が取り巻いている。その中に 天の磐舟に乗って降臨した饒速日という者がいる。 そこに行って都をつくろう。』と記されてます。そして神武天皇一行は「饒速日のクニ」を目指して日向を出発します。 日向を出た狭野命が大和に入り、三輪山の麓にいたニギハヤヒの孫娘(神の子)に婿入りして神武天皇として即位します。 近畿の縄文人は、賛成する者、反対する者もいます。難破した一行を何故助けたかは、彼らが来るのを事前に知っていたからです。 倭国に初めて、カムヤマトイハレビコを盟主とする統一政権が大和・柏原で誕生します 。(九州と近畿〜東北まで) �F100年頃 東国の要衝の地・久慈川河口の、「星の神を祀る豪族」が朝廷に反抗します。神武天皇は、重要な東国に反抗が生じたのに驚き、 安房の武葉槌命に、忌部一族を動員して服従させるよう命じます。武葉槌命が、武力で(星の神を祀る)強大な豪族 カガセオ を服従させ、 これが日本書紀の「(常陸、陸奥の)国譲り」の最後に「追記」されます。 �G185年 卑弥呼が共立され、倭の大乱(大和と出雲の戦い)が収束します。 (卑弥呼は孝霊天皇の娘の倭迹迹日百襲姫) 卑弥呼誕生の地を求める。(「天の真名井と宇田川」) → http://plaza.harmonix.ne.jp/~udagawa/amenomanai_2bu.htm#tuiho �H239年 卑弥呼は魏に朝貢を求め、魏は翌年使者を送り、纒向の宮殿で 倭王・卑弥呼に拝し、冊封礼を行います。 使者は、帯方郡〜(水行〇〇日)〜伊都国〜(水行二十日)〜投馬国〜(水行十日)〜難波津 の港経由の航路で来日しました。 その時に、纒向の地が邪馬台国と記されました。(魏志倭人伝) (参考)AIに、「魏志倭人伝」を読み込ませて、倭国の初代王の就任年を推測させる。 |
大和政権時代に入って、「鹿島神宮」「香取神宮」は、普通の神社ではなく、大和朝廷の創設者を祀る「神宮」という特別な尊称になりました。
伊勢神宮を加えた「三つの神宮」は、ヤマト朝廷の「出自を構成する国」の、「創設者を祀る」最上位の神社となりました。
■「国譲り」とは、常陸・陸奥の在の豪族たちが、大和からやってきたニギハヤヒを受入れて傘下に入った、という、弥生時代末期の出来事を表しています。
これは、鹿島神宮の地を拠点に、東国の開拓に従事していたニギハヤヒ親子が、最後に、(縄文ネットワークを)北上して、常陸北部〜陸奥(福島、宮城)に遠征して、
各地の首長を傘下に従えた史実と考えられます。これは征服ではなく、合意に基づく連合体への参加です。
この結果、武甕槌大神(=ニギハヤヒ)を祀る神社は「〇〇鹿島神社」として、茨城県、福島県、宮城県、栃木県に集中して造られました。
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参考図の神社は「古代史の復元」を基にした主要なものです。 各県の「鹿島神社」数は、 ( 関東地方) ・茨城県:約250〜290社(全国最多で、全体の約半数が集中) ・栃木県:約50〜60社 ・千葉県:約15〜20社 ・ 埼玉県:約10〜15社 ・ 東京都:約5〜10社 ・ 神奈川県:約5社 ・ 群馬県:約2〜5社 (東北地方) 東北は、朝廷が蝦夷征討で勢力を広げていく際に、武神・鹿島大明神を祀り進んだ 歴史があり、多くの分社が建てられた。 ・福島県:約70〜80社(茨城・宮城に次ぐ多さです) ・ 宮城県:約60〜70社 ・ 岩手県:約10〜15社 ・ 青森県:約10社 ・ 山形県:約5社 ・ 秋田県:約2〜5社 |
⇒ ニギハヤヒ親子の開拓の結果、
神武東遷の前には、縄文人の関東に、大和盆地とは較べものにならない豊かな「大きな国」が存在したのです。
■「国譲り」の時代は、弥生時代の終わり頃で、AD55年頃の出来事です。
フツヌシとタケミカヅチはその後、大和に戻り、東国の経営は、岐神(くなどのかみ:息栖神社の祭神)が後を引き継いだと考えられます。
■「国譲り」の記紀の扱い
国譲りの歴史は、「饒速日の国(日本)」の完成に係る、最後の統一事業(東国の開拓)の記録です。
その為、日向から東遷して「饒速日の国」に婿入りし、クニを引継ぐ、神武天皇に係る説話、の前に置かれる「神話」になりました。
■「国譲り」の舞台は 常陸・陸奥で、神話体系のなかでは次のように位置づけられました。
記紀の構成で
�@スサノオの出雲降臨 :大蛇退治とクシナダヒメと結婚
�A大己貴神の誕生と試練を経て王となるまで:大国主(ヤチホコ)とスセリヒメ
�B大己貴神と少彦名命による「国造り」
�C武甕槌神による「国譲り」
�D天孫降臨
�E神武天皇 東遷し、初の統一政権が日本に誕生する。
⇒ 記紀神話の実際の舞台は
�@�A�Bは「出雲」で、
�Cは「常陸、陸奥」で、
�Dは「日向」です。
ー 以 上 ー
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(追 記)
経津主神 と 味鋤高彦根命 について (2026年10月26日)
「国譲り」が、AD55年頃の東国の開拓、という出来事であり、常陸・陸奥の豪族たちが、大和から来たニギハヤヒを受入れて 傘下に入った出来事であり、
これは神武東遷(=大和入り)の遥か前の出来事であり、ニギハヤヒの息子の味鋤高彦根命が、後に神武天皇の妻の父 となる事に驚きました。
神武天皇以前では、饒速日尊が歴史の中心になり、ニギハヤヒを理解することがなによりも必要になります。
国譲りの中心人物、武甕槌大神、経津主大神は、饒速日尊、味鋤高彦根命であり、味鋤高彦根命は、ニギハヤヒの息子になります。
ニギハヤヒには四人の妻がおり、子供たちも多くおり、息子たちには様々な名前が付けられており、理解するのに難儀します。
これに関しては、「古代史の復元」の
■「饒速日尊の妻たち」 https://mb1527.thick.jp/nigihayahituma.html
■「饒速日尊の子供たち」 https://mb1527.thick.jp/N3-08yamatotouitu.htm
に詳しく記されています。
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ニギハヤヒと共に東国の開拓に従事した息子・味鋤高彦根命(経津主神)が、この時代を読み解くキーワードとなります。
味鋤高彦根命は、ニギハヤヒの第三の妻・天知迦流美豆比売(市杵島姫)の子供で、母親の血筋からニギハヤヒの後継者(第2代ヒノモト国王)となります。
この人物は、天事代主命、玉櫛彦命、味鋤高彦根命、経津主命、鹿島御子神と様々に伝えられています。 (古代史の復元)
なによりも重要なのは、味鋤高彦根命は、神武天皇の妻である媛踏鞴五十鈴姫(ひめたたら いすずひめ)の父なのです。
※味鋤高彦根命についての神社伝承。
味鋤高彦根命は出雲や大和の神ですが、香取神宮のある関東から東北にかけて、開拓の神として数多く祀られています。
■陸奥国一宮の「都々古別神社」(つつこわけじんじゃ: 福島県棚倉町)では、味鋤高彦根命は、「関東奥羽の農業の祖神」という重要な主祭神として祀られています。
「都々古別神社」の由緒では、味鋤高彦根命は、父・大国主命の偉業を助けて東北の荒地を開拓し農業の道を教えた為、農業の神として祀られた、と記されています。
東日本を統一したのは饒速日尊であり、それを補翼したとあれば、ここでいう父大国主命は饒速日尊になります。
■鹿島御子神社(南相馬市)
祭神の天足別命(あめのたらしわけのみこと)は、鹿島神宮の武甕槌命の御子神なので、「鹿島御子神社」と称されています。
東北の地を統御するために、この地にたどり着きました。天足別命は、味鋤高彦根命の別名です。
■陸奥国一宮の鹽竈神社(しおがまじんじゃ:宮城県)の伝承
天孫降臨の前、武甕槌神と経津主神が東北地方(陸奥国)を平定する際、塩の神・海の神である鹽土老翁神(しおつちおじのかみ)が先導役を務めました。
二神が任務を終えて去った後も、鹽土老翁神はこの地に残り、土地の民に製塩法を教え、人々が感謝して神々を祀ったのが神社の起源です。
饒速日尊と味鋤高彦根命の親子による、東北地方への遠征の伝承です。
※陸奥国一宮は、陸奥国の領域が広大だったため、時代や経緯により、鹽竈神社と都々古別神社が一宮を称してきました。
※陸奥国二宮は、「伊佐須美神社」(いさすみじんじゃ:福島県会津美里町)です。
249年、第10代崇神天皇の時代、(四道将軍の)北陸道を進んだ「大毘古命」と、東海道を進んだ「建沼河別命」の親子が、
この地で合流したことで「会津」という地名が生まれ、伊佐須美神社はこの2神を祀っています。後世の卑弥呼の時代になります。
東国を開拓し終えた饒速日尊、味鋤高彦根命は、その後大和に戻ります。
つまり、武甕槌大神、経津主大神は東国から大和に戻り、タケミカヅチの神剣・布都御魂も一緒に大和に戻ったのです。
その後の時代になり、神武天皇の東遷の際に、ニギハヤヒの子供たちは婿殿となる佐野尊を支援します。高倉下(タカクラジ)がそうです。
神話では、熊野の山中で毒気にあたって気を失った一行を、高倉下が布都御魂剣を献上したら、イワレヒコは目覚め、剣を受け取ると熊野の荒ぶる神たちは切り倒された。とあります。
これは、心配した味鋤高彦根命が、三輪山から布都御魂を、熊野の高倉下に届けたという事績ではないでしょうか?
(参考)神武東遷ルートを辿る http://plaza.harmonix.ne.jp/~udagawa/jinmu_tousen.htm
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神話の主たちの系図 (「古代史の復元」から)
(饒速日尊)
大物主神━※事代主命━┓┏奇日方天日方━━━飯肩巣見━━建甕尻━━豊御気主━建飯賀田須━━━大田田根子
┣┫(神の子)
賀茂健角身命━━活玉依姫━┛┗媛蹈鞴五十鈴媛┓
┣━神八井耳━・・
日向津姫┓ ┣━綏靖天皇━・・孝元天皇━開化天皇━崇神天皇━垂仁天皇━景行天皇━X━X━応神天皇━仁徳天皇━
┣━茅草葺不合尊━神武天皇━━┛ (卑弥呼の時代)
高皇産霊神┛
(大山祇命)
※活玉依姫(いくたまよりひめ)=勢夜陀多良媛(せやだたらひめ) その娘の 媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)=伊須気依媛(いすけよりひめ)
事代主命=玉櫛彦命=味鋤高彦根命 奇日方天日方=賀茂別雷命 賀茂健角身命(八咫烏)=陶津耳命=三島溝杭耳命 と考える
ー 追記終了 ー
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(参考)
�@東国の辺境に造営された「巨大方墳」舟戸山古墳の謎について http://plaza.harmonix.ne.jp/~udagawa/hoshi_no_kami.htm
�A魏志倭人伝の謎を解く http://plaza.harmonix.ne.jp/~udagawa/gishi_wajinden.htm
�B私の歴史年表: http://plaza.harmonix.ne.jp/~udagawa/nenpyou.htm
�C古代史の復元: https://mb1527.thick.jp/
| 2026年10月20日 | 宇田川 東 |