談話室|設計 Note


■ ローマ

人間ははかないものだ、だからこそ建築に永遠性を求める。

村野 藤吾


まだ二十代だった若い頃、夏の夕刻 ローマのフォーラム(古代ローマ行政中心施設遺跡群)にたたずみ、涙がこみあげてきたのを未だはっきりと覚えています。

昼に飲んだワインのせいで感情が高ぶっていたせいもあるのですが、その時廃墟に残る石を通じて、二千年の時を隔ててなお、その表面を刻んだ石工の手のぬくもりを感じたような気がしたのです。

今になって冷静に思い起こせば、その時、建築そのものの根源的な力に圧倒されたのではないか、おそらく柱頭の一つ二つが残っていたのであれば、感動というほどのものはなかったでしょう、

壮大な建築がローマの市民と共に生きていた事をはっきりと感じられたからこそであろうと思うのです。

 用を終え、機能を失い、その形骸だけが残る、しかもなおその残骸が人に感動を呼び起こす、建物が機能をもち、用をなし、美しく仕上げられていた時には顕われない、人間とのかかわりによってのみ成立する建築が逆に人間に語りかける力、廃墟となり純粋にその力が支配する空間であったろうと思い至ります。

工事途中、コンクリートが打ちあがり、型枠が外されたばかりで、床、壁、屋根のコンクリート、それに窓の穴が明いている状態の建物を見て、建築主の奥様から「素晴らしい空間が出来ています」と喜びの声を頂戴したことがあります。

木造の住宅の棟上げしたばかりの骨組みだけの状態で、建築主から「これだけで充分満足です」との感謝の言葉を頂きました。

いずれもまだ空間が仕上げ材料もなく、機能をもち用をなす前の状態でした、出来つつある建物への期待から発せられた言葉にせよ、人は何を語らずとも、建築のもつ純粋な力を素直に感じてくれるものと、おどろきと感謝でした。

むしろ使い勝手や仕上げ材料などの現実的な側面にこだわっているのは私ども設計者の方であり、無意識の内に語りかける、そうした建築のもつ力の方が住む人への影響は大きいのかもしれません。

:村野先生が晩年カトリックに改宗された事を考えあわせると、永遠性は永続性の意ではなく、人間の業を超えた存在、超越的な存在とのかかわりを意味している事に気が付きました。
おそらく、知力を尽くされた設計にあってなお、出来上がる作品に、人の力が及ばぬ所で作用してくるなにかに共感し、そこに永遠なるものを願い、祈っておられたのではないでしょうか・・・