不定期連載 あの頃、我々は何をやっていたのか 終章・それで、結局我々はなにをやっていたのか(後)
アニメーションの自主活動について振り返ってみたい。
あの頃、というのは、1970年代から80年代、我々の世代がアニメファンとなって、サークルを作ったり、自主上映をやったり、同人誌を発行したり、自主製作アニメを作っていた頃の話である。
我々、というのは、つまり我々の世代、あの頃にファン活動をしていた、中高生から大学生、一部社会人も含んだ、アニメを観るだけではなく、何らかの活動をしていた人たちである。
それは、ファン活動をしていたのだろう、と言われるかもしれないが、そういう風に一言ではすまされない事があの頃には起こっていたのではないかと思える。
この時代のファン活動、というのは、最近(というのは、2000年以降位のここ20年くらいだが)、よく発表されるアニメーションの歴史についての文献・図書においても触れられている事があるが、「この頃からいわゆるアニメーションファンの活動が活発になった」とか、「ファンがセルの収集に夢中になり、盗難事件まで起こった」とか、断片的に触れられているだけで、供給する側の製作現場、興行現場、スポンサーの動き、などについてはそれぞれ関連した動きについて分析されていても、ファンサイドについては、「お金を払って観に来る人たち」「関連グッズを買う人たち」というくくりで処理されているだけであるようだ。
前回までは、あの頃、アニメファンになった私の周辺の事象と、当時の自主制作活動・自主講座活動について書いてきた。今回はいよいよほんとの完結編。
6.終章・それで、結局我々はなにをやっていたのか」(後)
アニメファンがTVアニメを変えた
日本のアニメファンの特徴として、「くわしい」「うるさい」「数が多い」という点が上げられると私は思う。「くわしい」というのは好奇心旺盛で知識欲が強く、数々の情報誌やテレビの情報番組などを細かくチェックして知識を貯え、うんちくを周辺にたれる。「うるさい」というのは、番組のディテールにまで自分の好みで突っ込み、不満な点をあげつらう。「数が多い」というのは、山のように放送されるテレビアニメを視聴し、視聴率を上げ、また、ビデオソフトや番組グッズ関連商品を買い上げて、このやたらと数の多いアニメ番組を経済的に支えている。
古谷三敏に「寄席芸人伝」という、寄席を舞台にしたシリーズものがあるが、この中に「常連さん」という、長年寄席に通う客たちがでてくる。登場人物に言わせると、「厳しい意見を言うが、また、その指摘が滅法正しい」存在でもある。日本のアニメファンにも、通じる部分があると思う。
日本のアニメファンは、きれいで整った絵を好む。別に悪い事ではない。70年代のアニメは、結構、描くアニメーターなどによって、キャラクター等の絵にばらつきがあった。

この絵は、とあるアニメの、同じ話の中での、同じキャラクターの絵であって、しかもわざと崩しているわけではない。一生懸命描いていてこれである。
また、他の70年代アニメでも、動きの激しいところになると、顔は崩れるわ形は崩れるわ、コマ送りで観ると「なんじゃこりゃ」と驚くような絵がけっこうある。

(「海のトリトン」11話より。バランスがおかしいよね。)
しかし、不思議な事に、これを普通の速度で流してみると、おおむね別に普通に違和感なく鑑賞できる。鑑賞できるどころではなく、ちゃんと動きで「重さ」や「力感」なども表現されていて、「さすがプロの仕事だ」と感心する。
一方、最近のテレビアニメの絵は、どの作品でもきちんと整っていて、しかも動きの激しい所でも、一枚ずつコマ送りしてみても、どのコマの絵もきちんと描いてあるのである。しかし、なんというか、なんとなく動きがカタくて、力感というか、質感のようなものに欠けるように思える事がある。
90年代のアナログ制作時代のアニメスタジオを描いた「アニメがお仕事!」というマンガがある。この中で、下請けに出した動画の出来があまりにひどいので、憤慨したアニメーターの主人公が、「私、直します!」ともうトレス・彩色・撮影まで済んだ動画を残業し描き直すところがあり、終ってから、「全部やりなおすんだから、余計に経費がかかるんだよ」と先輩に言われて、作画監督に、「余計な費用使わせてすみません」と謝りに行くエピソードがある。これに対する作画監督の返事が、「いいのよ。絵が汚いと、DVDが売れないんだから」というもので、きれいな絵が観たい、というファンの要求に応える制作サイドの意識がうかがえる。
コマ送り鑑賞今昔
以前、アニメ学会の研究会で、「ネットで拾った昔の自主制作の映像にこんなのがあります。」というものを見せられた事がある。ロボット・メカものの数カットだった。「すごいうまい動きだ。」とその人は感心していたが、そういうものは昔はよくあったのである。1980年代になると、VHSやベータのテープ録画したアニメでもコマ送りで観る事ができるようになった。そこで、気に入った爆発シーンやミサイルの飛行シーン、ロボットのアクションシーンなどを分析して、「動きのコピー」をする、という事が、特に芸術系ではない大学のアニメ研の自主作品ではよくあった。音楽で「コピー演奏」といって、名演奏を真似して演奏するようなものである。こういう「動きのコピー」は最近ではあまり観なくなった。CGアニメコンテストの回顧上映で、「金田アクション」をコピーした人の作品を最近観たが、そのあたりが最後のようである。こういうメカものの動きのコピーの自主作品は、たいていトレス・彩色はせず、紙の動画をそのまま撮影してペーパーアニメとして発表される事が多かった。

(当時VHSで自主販売されていた自主アニメより)
最近のファンも、コマ送りでアニメを観る、という事はよくあるようだが、「動きの分析をする」ためではなく、「自分のお気に入りのキャラクターのお気に入りのポーズの絵を鑑賞のためにキャプチャーする」ためにやっているそうである。これ用にきれいな絵を描いているのであれば、動きがなんとなくカタくなるのも仕方ないかもしれない。

また、最近のテレビアニメ(深夜アニメ)は、昔のようにチョコレートやガムのCM広告収入で作っているのではなく、放送後に、作品のソフトを売るために作られているので、放送中のCMも、「DVD・ブルーレイ」の発売予定や、使用されている主題歌の宣伝ばかりである。つまりは、観るだけの一般視聴者ではなく、ソフトを買う「アニメファン」の要望に応える作品を作らないと、成り立たない。
これが、アニメーションの傾向を歪めているのではないか、と思う事がある。アニメファン向きに特化して作っているので、普通の視聴者は観ない。観ないから、ますますアニメファン向けに特化する。最近、「全修!」というアニメを観た。アニメスタジオを舞台にしたアニメというので、アニメを作る話なのかな、と思ってみたら、途中からアニメを作る話ではなくなって、最後、やっぱりアニメを作る話だったのだが、いかにも、アニメーションに詳しいファン向けのサービス満載の作品だった。また、最近の「ヤマト」とか、「ルパン」などは、「これは、「プロの技術で作った巨大なファンアート」ではないか」とさえ思えるほど「本歌取り」のオンパレードである。
製作現場を制する元アニメファン
1990年の「AERA」のアニメーター低賃金問題を取り上げた記事で、アニメプロの社長が、「昔は、アニメーターは芸大卒業生の就職口の一つだった」と嘆くところがあった。つまりは、絵が描ける人の就職先の一つで、高収入ではないが、食べてはいける職業だった。NHKのアニメーターを描いた朝ドラ「なつぞら」にも、芸大卒業生が入社して働いている姿が描かれている。今は食べていけないから、普通のアニメファンでない人の就職先の選択肢にはならないのではないか。

アニメーターばかりがアニメ制作の職種ではないから、演出志望・シナリオ志望の人とかは別のルートで入ってくるのであろうが、アニメーターから転じて演出に入る人も決して少なくはないと思う。
なにしろ、「数が多い」アニメファンであるから、「一年で半分、翌1年でまた半分、数年で1割が残るだけ」という過酷な職場に、毎年毎年新人が押し寄せて来ては損耗しても、代わりはいくらでも来る。昔の日本軍が新兵に「お前達は一人一銭五厘でいくらでも集まる。」というのに近い。この中で生き残った人が、作画のメインスタッフになるわけである。
元々が、「くわしい」「うるさい」アニメファンであるから、「いい作品」「面白い作品」を作る事しか考えていない。制作サイドは「枚数はこれだけ」「予算はこれだけ」と絞るが、その目をくぐり抜けて、「ブレハブを作れと行ってるのに、鉄筋コンクリートのビルを建てて」いる。それを観たファンがまた喜ぶ。アニメーターの待遇が改善しないわけである。
結果として、海外の日本アニメファンから、「日本のアニメは絵がきれいでストーリーが複雑で面白い」と評価される膨大な作品群が生み出されているわけである。
では、誰がアニメーターになるのかと言うと、アニメファンである。全員アニメファンかというとそうではないとは思うが、就職しても食べられず、1-2年分の生活費を貯めて就職しないといけない、という職場にそうそう普通の人が来るものではない、と思う。
しかし、70年代に我々を虜にした、数々のアニメ作品群はを生み出したのは、アニメファン上がりのアニメ制作者ではない。その出身は種々雑多で、芸大出身で卒業制作が動物園のプランだった方や、公務員で絵を書くのが大好きな人や、元々まったく関係のない専攻の方で、アニメーションという表現方法に興味を持たれた方等本当にいろいろだったらしい。「遺伝子の多様性」というものが種の存続に必要、と聞いているが、(うちのグッピーも、代々1ペア買って来て、子ども・孫とどんどん増えるが、急に減りだして一匹もいなくなるので、次の1ペアを入れる。また増えて減るの繰り返しである。どこかの離島の希少種の蝶も、保護した当初はどんどん増えたが、結局元の数が少なかったせいで、絶滅してしまったらしい。) あまりアニメファン出身者ばかりでは将来は危ういのではないか、というのは、余計な心配だろうか。(そういえば、庵野監督も、自分がアニメ・マンガファンだった事を気にしている、と聞いている。)
「アニメ研究」はどうなった
また、あの頃、熱狂的にアニメーションについて語り、また、「同人誌」を発行して、作品やキャラクターに対する自分の熱い想いを語ったり、「アニメーション」や映像表現に対する意見を発表していた人たちはどうなったのであろうか。
現在では、昔のような同人誌をみかける事はほとんどない。印刷された紙媒体でなくても、ネット上で意見を発表すればいいじゃん、という方もいるかもしれないし、そういうものをSNS上で散見する事もあるが、あの頃のようには盛り上がってはいない。
現在では、新しいアニメーションが発表されると、ネット上ですぐに評論家のセンセイがレビューを上げたり、情報誌や新聞などにすぐ記事が載るので、昔のように、個人がいちいち自分の感想を事細やかに綴る暇がない、のかもしれない。「エラいセンセイがおっしゃっておられるのだから、それでいいじゃん。」

だが、私は「日本アニメーション学会」の「西日本支部」という所に参加しているので、西日本支部主催の研究会、というものに時折参加させていただく。その中で、最近の大学のアニメ専攻の方の卒論発表、というものを聞かせていただくことがある。この卒論発表が、勿論形式は学術的に整った形でなされているが、内容が、昔の同人誌で語られていた「熱い」内容に通じるものがある、という事を感じる事がしばしばである。「大学の卒論と、同人誌の感想文が同じレベルなのか」と怒られる向きもあるかもしれない。しかし、2000年頃に始まった日本アニメーション学会の大会の研究発表でも、当初は相当怪しい研究発表が多かった。
今から思えば、「アニメーションというのは、新しい研究ジャンルだから、今のうちに入り込んでおけばいいポジションがとれる」とばかりに、隣接分野などから入り込んでこられた方も結構いらっしゃったのではないか。だが、かれらの前にたちはだかったのは、70年代以来20年以上におよぶ研究歴を誇る、在学・在野のペテラン研究者達だった。
その後、怪しげな皆さんは駆逐されたらしく、最近の大会等の研究発表などを聞くと、大変しっかりした内容のものが多い。また、アニメ学会も25年になり、70年代に研究者となられた方々も、ぼちぼち定年で退官・卒業される、という話を聞く。やはり「あの70年代」の自主研究活動が、現在の研究活動の「基礎」になっているのではないかと思えるのである。
自主アニメ今昔
そして、70年代の自主アニメブームの一翼を担った、アニメーションの自主制作は今どうなっているのか。80年代半ばから、90年代の初めにかけて、アニメ自主活動の衰退と機材の枯渇による退潮に吸い込まれるようにして「氷河期」に入った自主制作アニメだが、1990年代半ばからパソコンによる製作環境が整うにつれ、急速に制作者数・作品共に増加・回復した。
ただ、内容的に言えば、大きく変わって来ている。昔は、アニメファンがファン活動の一環としてアニメーションを製作している、というケースが多かった。芸術系でない大学のアニメ研や、普段上映会や、会報の定期発行をしているアニメサークル、あるいはアニメファン有志が集まって製作サークルを作って製作したり、個人制作をしている人が集まって、自主アニメ製作研究・上映のためのサークルを作ったりしていたが、最近は、芸術系大学でアニメーションを専攻している方が個人で製作したり、独学でアニメ製作ソフトの使い方を習得して製作される、という方が多い。作品傾向も、以前は商業作品と同じような方向のストーリーものなどが結構多かったが、現在は、いわゆる「アート・アニメ」的な作品が主流となって来ている。

つまりは、「よく分からないが、とにかくアニメを作ってみたい」という人が少なくなり、アニメを作るという事はどういう事か、という事を理解した上で製作する方が多くなった、という事である。また、教育環境も整って来てきちんと指導を受けながら作ったり、ネット上で製作に必要な知識を検索して作ったり、と、「ちゃんと作れる」環境も整っていて、昔に比べるとずいぶんレベルの高い作品が多くなった。みんなのレベルが上がったために目立たなくなっているが、「昔、PAFとかでこれを上映したら大騒ぎになっただろう」というような作品がずいぶんある。
では、70年代自主製作アニメは跡形もなく滅びたのか、というとそうではない。現在大学などで教鞭を取っておられる先生方の中には、70年代以来の自主制作の現場にいた方々、あるいはその方々の教えを受けた方々が多くおられ、もしも70年代から80年代にかけての自主制作の盛り上がりがなければ、今日の盛隆はなかっただろう。虎は死して皮を残し、自主アニメ製作ブームは、アニメーション教育者を残したのである。
70年代の熱狂的自主アニメファン活動は何を残したのか
では、70年代の熱狂的自主アニメファン活動は、結局何を残したのか。これを考えるとき、「もしも、あのアニメブームがなかったら、どうなっていたか」を考えてみれば判るかもしれない。
もしも あの「アニメブーム」がなかったら
1972年、「海のトリトン」放送。一部に熱心な視聴者はいたが、低視聴率で打ち切りに。「トリトン後援会」は発足せず、東京での「続編作れ」のデモ行進はなく、当然週刊朝日に記事が載る事もなく、この記事を読んだ読者のSFマガジンへの投稿はなく、その後、全国に続々とアニメファンサークルが出来る事もなかった。
1975年、「宇宙戦艦ヤマト」放送。低視聴率で打ち切り。テレビ版を再編集した劇場版も作られたが、ぼちぼちの入りで、「劇場をぐるりと取り囲む徹夜組の列」もなかった。
「ファントーシュ」は創刊されたが、まったく売れず、2〜3号で休刊。フィルム1/24の活字化は検討されていたが、結局「売れないだろう」という事で見送りに。
「アニメファン」は、ぱらぱらと点在していて、結構な数がいたが、それぞれに孤立した存在で、あちこちでサークルを作る、という事はなかった。
「アニメーター」がアニメファンのあこがれの職業になることはなく、よって、にわか作りのアニメ専門学校が乱立することもなかった。
「市場」が無い(実際にはあるのだが)のだから、「アニメージュ」のような商業情報誌が創刊ラッシュになることもなかった。
「セル」がコレクターアイテムになることもなく、よって撮影済みのセルはじゃんじゃか廃棄・埋め立てられまくっていた。
「PAF」は始まったが、2〜3回で上映する作品が無くなり、終了。
「アニメーション製作講座」は開催されたが、ぽつりぽつりと参加があったが、結局参加者がサークルを作る事もなく、終了。
1979年、「機動戦士ガンダム」放送。低視聴率で途中打ち切り。一部に熱心なファンはおり、プラモデルは良く売れた。
それでも時代は動く
もちろん、当時の状況から見て、「なにも起こらなかった」という事はないと思う。多少の時期のずれ、経由の違いはあっても、あのアニメ自主活動ブームのようなものは起こったと思う。ブーム以前にも、「旧ルパン」「あしたのジョー」「エースをねらえ!」「佐武と市捕物控」のような大人の鑑賞にも耐える作品は作られ放送されていた。それに対し、一般の世間の方々は「テレビまんがは小学生以下の子供が見るもの」という認識は改めなかった。しかし、子供の頃からアニメを見続けてきた当時中高生の一部が「ここに、こんな面白いものがあった」という事を発見し、「もっとこんな面白いものが観たい」という欲求を持ちはじめ、「アニメーションというのは何か知りたい」という知的好奇心を持ってアニメーションに向かい合い始めたのは時代の必然であろう。
その知的好奇心に答える社会の体制は十分ではなく、やむなく彼等は自力で研究を始め、語り合う仲間を求めて集まり、アニメーションを大使館や各種のライブラリー、業者(当時、自治会のこども向きイベント等用にアニメーション映画を貸してくれる業者があった。)などから、借り、市民会館や公民館などの会議室等を借りて上映イベントをしたり、会報を発行してアニメーションに関する自分の意見を発表したりした。あちこちに孤立していたファン達は、「ああ、こんな所でアニメ上映会が」と、上映会に集まった。あの頃のアニメ上映会は、どこで何をかけても人は入った、と言っても過言ではない。その上映会での出合いが新しいグループを生んだ事もあるだろう。
この状況に対し、商業資本が「ここへ進出すればもうかる」と情報誌の発行や映像ソフトの発売で答えて利益を上げはじめ、ここに新しい市場が生まれた。
それで、我々は何をしていたのか
つまり、あの頃のアニメファン(我々)は、まず、「アニメーション」(特にテレビまんが・テレビアニメ)の魅力を発見して開拓していった存在であった。また単に消費者ではなく、後に情報誌や研究本などの送り手になっていく存在であった。ブームの最初期においては、一部のファンの方がマスコミ関係者よりも状況に詳しく、識見も高かった時期がある。なにしろ、「スタジオ見学」と称して現場に入り込み、使用済みの製作素材をもらったり、アニメーターなどの製作関係者の話を聞いたりしているものも多かった。なによりも、ブームの根源であるアニメーション作品をもれなく多く観ている点が大きい。

つまり、あの頃のアニメファンは、ひとり一人は別に意識せず、「アニメーションの方向を目指して進めばなんとかなる」とばかりにばらぱらにあちらこちらへ向けて動いていたのであるが、その活動の結果として、日本のアニメーションが今日の姿になる流れの一つを作っていった存在でもあった。
もちろん、「アニメーションの方向を目指して進めばなんとかなる」というのは、幻想でもあり、ほとんどのアニメファンは、卒業・就職・結婚という節目ふしめで、「アニメーションはお金を払って楽しむもの」で、「アニメーションで生活していけるのはごく少数の人で、それは自分ではない」という事に気付かされていくのであるが、今から思えば、あれは、あの時代のあの空気の中にいたものにしか分からない、楽しい夢のある幻想であった。
というわけで、「不定期連載 あの頃、我々は何をやっていたのか 」は今回で終わります。近メ像の不定期連載は完結しない事も多いのですが、今回は無事に終わる事ができました。この文章を読んでいただいている方がどれくらいいるか分かりませんが、ありがとうございました。(文責 K.Kotani)
(1.「トリトン」の頃)
(2.「長編アニメ」を求めて)
(3. ファントーシュとFilm1/24 そして)
(4. PAFと自主アニメの熱狂)
(5. 自主アニメ講座の時代)
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