ジャンヌ・ダルク物語タイトル

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ルーアン(Rouen)での火刑

捕虜になったジャンヌをシャルルは買い取り、フランスにジャンヌは戻ってくる。そうフランス国民の誰もが信じていましたが、シャルル7世は動きませんでした。シャルルを立ち上がらせ、フランスを快方に向かわせたジャンヌを救おうとしなかったのです。フランスを救うために常に先頭にたち戦ったジャンヌはシャルルから見捨てられたのです。
ジャンヌは戦う時いつも強気でした。神がついているから絶対負けないと自信を持っていたからです。でも、そんなジャンヌがずっと恐れていたのは「裏切り」でした。ジャンヌはまさにフランスから裏切られたのです。

そしてかわいそうなことに、ブルゴーニュからジャンヌを買い取ったのは、イギリスだったのです。
ジャンヌは牢に囚われました。


囚われのジャンヌ:オルレアン・ジャンヌダルク像にある彫刻

イギリスはジャンヌを裁判にかけて死刑にしようと考えていました。軍事裁判ではなく宗教裁判でです。神ではなく悪魔の声を聞きイギリスを破滅に導いたサタン信仰者として火あぶりの刑にしたかったのです。そうすれば、フランスの英雄の座から引き摺り下ろすことができると思ったからです。
裁判はイギリスびいきの裁判官だけを集められ、イギリスの支配下のルーアンで行われました。裁判長はルーアンの大司教の座をねらう者です。ジャンヌを有罪にし、その手柄で役職を手に入れたかったのです。

裁判は長い間におよびました。ジャンヌの証言は完璧で非のうちようがなかったからです。無理に過ちを認めさせようと、拷問にかけようともしましたが、ジャンヌは誘いに乗らず、拷問の攻め具を前にしても屈しませんでした。
ジャンヌが連れて行かれた拷問の攻め具が並べられていた塔は、ジャンヌダルクの塔という名前で今もルーアンにあります。

しかし、ジャンヌは病気になり熱をだし、頭がボーッとなっている時に、灼熱の広場での裁判にだされ自分が何か分からないうちに書類にサインをしたのです。そのサインは男の服を着ず、教会に従うという内容のものでした。しかしジャンヌに与えられたのは男物の服だけで、女の服は隠されました。着る物が無くなったジャンヌは仕方なく男物の服を着ます。そして、宣誓に背いた全く教会に従う意思の無い者として火あぶりの刑が確定します。
ジャンヌは裁判の行われた広場で火あぶりの刑になってしまいます。

ジャンヌは熱心なキリスト教徒だったので最後の瞬間まで十字架に祈りをささげるこを望みます。木の枝を十時に重ねただけの十字架を火あぶりの間自分が死ぬまで眼前にかざしてもらい、とうとう殺されてしまいます。
ジャンヌの体の灰はセーヌ川に流されます。

火刑台で眼前に十字架をかざしてもらうジャンヌ

火あぶりが行なわれた広場は旧市場と呼ばれ、火あぶりの薪を積んだ台が今も残っています。ここでジャンヌが処刑されたと思うと、悲しくなります。
この広場の周りにはたくさんのレストランが並んでいます。魚介類の盛合わせがオススメです。また、この広場の一角にジャンヌダルク博物館があり、ロウ人形でジャンヌの物語が再現されています。ここルーアンはパリからも近く訪れやすいところですので、訪れられることをオススメします。クロード・モネが連作で描いた立派なカテドラルもあります。


そして20年後ボルドーの東にあるカスティヨンで百年戦争は終わります。ジャンヌがパリに攻め入ろうとした時 にジャンヌは今パリを攻めなければ戦争が終結するまで20年かかると言ったその年でした。
そして戦後ジャンヌの裁判が今度はフランスで行なわれ、ジャンヌの名誉回復の裁判が行なわれ、ジャンヌの無罪が証明されました。
ジャンヌが再びフランスの英雄の座へかえりざいた瞬間です。

しかしこれはシャルルが自分の「王としての威厳」を取り戻すために開いた裁判だとも言われています。シャルルは「戦勝王シャルル:Charles la victoire」と言われるようになりました。

現在は、どんな小さい町に行っても、教会には信仰の模範児のような感じでジャンヌの像があります。こういう像があるかどうか気をつけて教会を見るのも楽しいですよ。
しかし、ジャンヌダルクの物語は本当がどうか分かりません。17歳の少女がフランスを救うのは不可能だと思って当然だからです。でも、これだけ多くの町に記念碑やその町にまつわるエピソードがあるとあながちうそであるとも思えません。
本当かどうか分からない。だから面白いのかもしれませんね。