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01-02-24

 

 昨日僕はベッドの上で、布団に包まりながらじっと何時間も何時間も、ただ携帯電話のモニターを見つめていた。自分で自分が何をしたいのか、分からなかったから、こんな僕の心の渦巻きを鎮めてくれる「誰かの」言葉が欲しかった。だけど、一体「誰の」声を聞きたいのか、それも分からずに、結局誰に電話を掛けるでもなくただじっと、蹲っていた。

 そんな中僕は、ぼんやりとただ一つの問い掛けを繰り返していた。僕が今白血病なり、急性致死性疾患に罹ったとして、そうなった時に僕は一体誰に会いたいのだろう? もう死ぬというその時になって、僕が最後に会いたいのは? 最後に聞きたい声、それは一体誰のものなのだろう? ……考えながら、今の自分には何もないんだなと感じ、そのことに溜息を吐いてみた。

 ……これが「寂しい」ということの意味だろうか? 僕は「寂しい」のか? 「寂しい」なんて思う資格が、この僕にあっただろうか?

 僕は疲れているのだろうか? 自分で自分の状態がよく掴めない。かったるいのだ、考えることも感じることも、自分という存在に関わるあらゆる事柄から僕は逃れたい。ぼんやりCDを聴いているのがとても心地よくて、そうした時間の中で独りであることの意味を唇の上に乗せて、ざわめく記憶たちを一つ一つ押し潰していくのだ。そんなふうにして、僕はまだ生きている、まだ「ここ」にいる。

 

 

01-01-25

 

 「どうせ、あんたは“不良品”なんだから」。

 ……ずっとずっと昔言われたその言葉に、僕は今でも縛られている。それはそれほど僕が脆弱なせいだということは、誰に言われるまでもなくずっと前から知っている。それはまさに僕が「不良品」だということの証拠なのだろう。

 昔ある人に言われた。君は「甘い」と。生きていく態度において、その姿勢において。社会という関係性の中を生きる際の最低限必要なことを、僕は持っていないとその人に言われた。君には責任という観念がない、誰かに自分を守ってもらおうとするだけで君は誰の気持ちも理解しようとはしないし、たとえ分かったとしても何もしない。あなたに僕の何が分かると言い返すことも出来た、が、僕はそれをしなかった。何故って、その通りだったから。僕は、彼に言われた通りの人間でしかなかったから。認めたくなかったけれど、痺れたようにそれ以上僕はなにも言い出せなかった。「純粋でもなんでもない、君は単にずるいんだよ」。……

 今年の年始に友達と会って話をした。話題は多岐にわたっていた。その途中でゲイにとっての友達の意義についてまで話題が及んだ。僕はクラインを思い出しながら、思春期について語っていた。

 ……人は生まれた時には、自分を守ってくれる存在、例えば母親に全てを任せている。その関係の中には自他の境界が存在せず、全ては溶け合って距離について考える必要がない。だがいつしかその関係は終わりを迎える。何が起こるか判らない世界に、彼は一人で向き合わねばならなくなる。しかしそのプロセスは急に完遂することは出来ない。その途上で要請されるのが「移行対象」だ。移行対象は例えば何時も肌身離さず持ち歩いているぬいぐるみのようなもので、自己の一部でありながらも自分とは違ったものとして意識され、全く見知らぬ他者にまで関係が広がっていく際の緩衝材として機能するのだ。それは彼を守り、それは彼を慰める、かつての日の良き母親のように彼の望むままに。そして人はそこに基地を持ちつつ、徐々に新たな社会性を獲得していくのだ。

 だが、僕はこのモデルは尚不充分ではないのか、あるいは発展性があるのではないか、と考えている。いわば僕らにとって、世界とはすべて移行対象なのだ。むしろこう言うべきなのだ、小さな子どもにとってのぬいぐるみは、彼にとっての初めての移行対象である、と。そこでは移行対象という概念自体が問い直される。移行対象とは、自己要素の投影によって形成される存在である、と。

 例えば僕らは思春期に、自分と同じことを感じ、考え、行動する仲間を死に物狂いで欲する。自分の中の要素と同じ要素を持つ仲間とともにあることによって、僕らは自分の中の欲求や感情を確認できるのだ。思春期とはその意味で、自分の中にある渦巻きを落ち着かせようと試行錯誤を繰り返す時期なのではないだろうか。そしてようやく見つけた仲間の中に自己要素を投げ入れあるいは見い出し、僕らは世界が安定したものだと感じて安心する。そうして暗く苦しい思春期を終える。

 ゲイは自分の中にある欲求や感情を、周りにいる誰にも見出すことが出来ず、自己要素を投影可能な移行対象を世界の中に見つけることが出来ないからこそ、苦しみの渦巻きから抜け出すことが出来ないでいるのではないか。彼に必要なもの、それは欲求や感情を分有できる仲間なのではないか。しかしその必要性は、彼自身にさえ気付くことが難しいことかもしれないね、というのも、僕らは仲間から言葉を教わり、それによって自己の内面を表現し理解していくのだから。

 そうか、つまりゲイはそれだけ長い長い思春期をくぐり抜けるよう強いられている、ってことだね。捲くし立てるような僕の話をじっと聞いてくれていた友達はそんなふうに言った。面白い、その投影そして仲間という概念、そうして世界への親しみを獲得していくという考え方、いつか僕もどこかで使わせてもらおうと思うよ、そんなふうにも彼は言ってくれた。そして彼は、仲間が見つけられなかった頃の話を僕にしてくれた。その孤立感や焦燥感、切迫感や抑鬱、その後仲間と出会ってようやく自分の居場所を見つけた時の開放感、……それは、僕のものでもあった。

 だが……、その時彼には言えないでいた。僕はそうした投影によって成立する仲間というモデルに、危機意識と言って強過ぎるなら少なくとも幾ばくかの警戒心を向けていたことを。僕は思い出していた、小さかった頃からずっとそうだった、学校でも地域でも家庭でさえ、どのグループにも入れてもらえずに一人で一人に耐えていたことを。僕が、「ふつう」ではなかったから。「おかしな」子どもだったから。「不良品」、だったから。僕には、居場所がなかった。僕には、期待できるなにものも持てなかった。

 ようやく見つけた僕の居場所、それを僕は手放したくなかった。だが僕はどこかで気付いていた、投影というメカニズムによって成立する仲間関係は何らかの排除を必要とするということに。もしも、このままの形でゲイコミュニティが確立されていくのなら、そこから僕の居場所はなくなってしまうだろう。もしも一度はうまく潜り込むことが出来たとしても、僕はそこから排除される日が何時やって来るのか、怯え続けなければならないだろう。僕が「不良品」だと気づかれる時、それが終わりの日なのだと感じた。

 「子ども」。大人の投影の産物ではない形として生きることは出来ないか。両親の意向や経済状況に依存することなく教育を受ける権利を子どもに与えること。子どもの発達と必要を適確に判断できないような養育能力のない親や、自分の期待通りの生き方をさせようとする親、精神的安定を与えることの出来ないような大人から子どもを守るにはどうしたら良いのか。僕は、そうしたことを考え続けてきた。周囲には妙な人間に映っただろう、友達から「どうして子どもについてしか考えないのか」と訊かれたことがあった。他に重大な社会問題などいくらでもあるだろうに、それが彼の言い分だった。もっともだと思ったが、僕はそれを止められない。

 重たい重複奇形の子どもがいた。隣で一緒に実習を回っていた友達の口から、後で「死なせてやれば良いのに」という言葉が出たとき、僕は猛烈に怒った。全ての子どもには生存権があるし、それは周囲の人間の意向に左右されるようなものではないと僕は言った。彼は納得できない顔をして、けれど何を言っても無駄だなというふうにため息をついただけだった。彼にはまさか言えなかった、その言葉によって僕がどれほど辛かったか、そうした「排除」の言葉が、かつて僕自身が言われた「不良品」という響きに重なって僕の胸を締め上げたことを。

 ある人は、僕が発達障害児の療育に関心があると知って僕にこう問い掛けてきた、こういった療育は無駄じゃないか、そんなふうに感じることはないですか、と。そんな疑問を持ったことはない、どんな子どもにも発達する権利はあるしそれを支えるのは当然のことだ、そして付け加えて僕は、様々な発達のあり方を目の当たりにすることのできる発達障害の臨床にはとても心惹かれると答えた。問い掛けてきた彼は微笑んで、私も同じ考えだ、だけれどもそうは考えない人が多くてとても悲しい、と言った。僕はその時とても苦しかった、僕はあなたが考えているような善人じゃない、僕は僕が排除されたくないだけなのに、けれどそのことは言えなかった。

 投影というメカニズムについて僕は批判しつづけてきた。それが排除の、差別の、偏見の原因なのだとして。だけれども気付けば僕自身が同じことをしているのだ。結局僕は子どもという概念を使って、僕に都合のいいように操作しようとしているだけで、目の前の子どもの要求など本当は感じられもしないのではないのか。何かが、深く、分からなくなった。

 


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