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林 義拓(はやし よしひろ)
北海道旭川市 学生 男性同性愛者
174cm 82kg 25歳

僕がこのページを始めた目的は、記憶を辿ることだった。
そうすることで僕は、従来の家族関係のような投影(プロジェクション)に基づくコアな人間関係とは異なる、別の関係性を模索しようとしていたのだと思う。

振り返ってみれば、僕はこれまでずっとそのことだけを考え続けていたと言っても良いのかもしれない。
「適応障害」について考え続けてきたのも、「子ども」に関わる職業に就きたいと思ったのも、思えば「家庭」に安住できなかった僕の記憶が、亡霊のように憑き纏って僕を駆り立てていたからかもしれない。

そうした別種の関係性の可能性を僕に教えてくれたのは、たくさんの仲間たちだ。ほんのすれ違うような関係であったとしても、彼らは僕にとって、「意味ある隣人」であったのだ。

何より僕はそうした関係性を大切にしたい。そしてもしも出来るなら、僕もまた誰かにとっての「意味ある隣人」であることが出来たらと思う。
そのために、僕は戦う。もう、逃げない。

(そのうちここに、もっと具体的なプロフをつけますね。気に入っている本とか)

 数年前、ある若い在日朝鮮人の友人と話していた時だった。話題は多岐にわたっていた。どういう脈絡であったのか、かれが呟くように言った言葉が、いまも耳について離れない。「自分の名前などどうでもいいのです。カフカの主人公のようにKとでも名のりたいです。」若い友人は、自分は日本人でも朝鮮人でもない、そしていわゆる「在日」でもありたくない、一個の個人でありたいのだ、という意味のことを語りつづけた。そして、カフカという小説家への共感の言葉を吐きつづけた。そのなかでの言葉であった。

「名前などどうでもいい」どころか、強いこだわりをかれが抱いていたことは明らかだった。かれが高校時代まで「通名」で過ごしてきたことはすでに聞いていた。それだけではない。私が朝鮮名のかれを知ってからも、日本語訓みと朝鮮語の原音との別々の名前で私の前に姿を現わしたのである。自分の名前をどう名のるかについて、かれが思いをめぐらし迷っていたことは、傍目にも明らかだった。その全く異なる二つの音は、聞き手である私にも同一のかれの像を分裂させるほどであった。かれの迷いは私には重要なことに思えた。朝鮮名を名のるかどうか、とは別の問題がそこに表れていた。それは、朝鮮語の原音の名前が、「本名」として安住できる自明の場所ではないことを示しているからである。むしろ本名とは何か、という問いをかれが抱えているようにみえた。そうだとすれば、あの言葉によってかれは何を言おうとしたのだろうか。

 かれは在日三世であった。自分のことを「三代目」と呼んでいた。そのことは、少なくともかれにとって、次のようなことを意味した。故里から引き離された祖父母たちのように、焦がれるような郷愁をともなう祖国の観念はない。分断された祖国によって照り返される父母たちのように、民族意識と政治主義をめぐる牽引と反撥ともほとんど無縁である。かれにとって、祖国も民族もいわば強い観念なのであって、「無理」をしなければ自分のものとすることは難しかった。それに背を向けたり黙殺したりするだけでは済まないことがわかっているだけに、その無理はいっそう大きなものとなる。その概念に対して感じる強度は、むしろかれを同世代の日本人に近づけるだろう。実際、戦後日本の高度成長期に生まれ、幸か不幸か周囲の日本人とほぼ同様の生活環境のなかで育ったかれにとって、若い世代の日本人の感覚はかれのものでもあり、かれらの現実はさしあたりかれが生きる場所でもあった。

 しかし、かれは日本人ではない。若い日本人が現実に対して当事者感覚をもてぬまま「何者でもない」ものになりつつあるとすれば、かれは、同じように何者でもないものであるとともに、日本人ではないものでもある。そのことが、かれの日常生活にたえず絡みついてくる。すなわち、かれの存在は、日本人ではないということによって一面的に規定されるのではない。その一面を取りだそうとするのでもない。かれは二重に「ない」ものとしての存在様態のもとに置かれるのである。彼にとって三代目であるとはそういうことであった。

 そういうかれが、チェコに生まれ育ち、ドイツ語で考え書く、「半ドイツ人」を自称したユダヤ人であるカフカを引きあいに出すのは、偶然ではない。カフカとは何者か。チェコ人でもドイツ人でもない。そして、彼自身が考える意味で「ユダヤ人」でもない。少なくとも執拗に絡みついてくる現実に対する態度からいえば、彼は二重三重に何者でもないものとして振るまう。何者でもない存在としてカフカは、その「現実」を精緻に記述しようとする。彼を――そして私たちを――閉じ込めている世界(彼の作品『城』の原義には閉じこめるという意味もあった)についての記述である。

 何者でもないものたちによって繰りひろげられる世界。真偽不明で、もっともらしい解釈をたちまち反古にしてしまう事態。手ごたえの希薄な関係がたえず権力関係に転じるような現実。そういう現実世界を、カフカの言葉たちは駆けめぐり書きとめていく。このようなカフカの言葉に、おそらくは私たちよりはるかに切実に、若い友人が惹かれるのは想像することができる。自己に特別な存在形態をもたらすプラハという都市に骨がらみなほど緊密に結びついていたこの作家は、思いがけない場所に痛切な関心を抱く読者をもつことになったのかもしれない。そしてこのことは、私たちにとって見過ごすことができない大切な「手がかり」であるように思える。

「在日三世のカフカ」(市村弘正)

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