#11.愛されることを学ぶということ@

 

『グッド・ウィル・ハンティング』へのノート

 

 書物の上での知識しかない人間が、まさに自身の体験を軸として動き出す話。あるいは、過去のトラウマ的経験が反復強迫して、その結果変化に対して臆病になり、自身は決して介入せずに他者を退けようとする人間が、精神科医との交流を主軸にして最後には自分の求めるものを見つけ出し、それに向かっていく話。確かにこの映画は、そうした分析を許容する作りをしている。しかし、そうした話であればむしろありふれている。その形態は、『ベルリン・天使の詩』で恐らく極限的な形で示された。天使たちにはすべてが見える。また彼らは消滅=死することがない。その中でダミエルは天使であることを止め、一人の人間になろうとする。それは具体的には一人の人間を愛するということであり、その結果として一回限りの有限な生を、手探りで歩まざるを得ないことを意味する。現実にも、こうした自身では生の現実に決して介入することなく、ただ認識するだけという人間はいる。彼らは決して自分から動こうとしない。この映画は、歴史的状況を無視することが許されるのであれば、そうした認識的立場への批判である、と見ることはできるだろう。だが、『グッド・ウィル・ハンティング』は、どうもそういう見方だけでは読みきることは出来ないのではないか。
 そもそもこの映画は奇妙な映画である。どう見ても、この映画の中では、テーマを特定する最終審級が用意されていないのだ。むしろ、それを慎重に避けようとしているかのように見えてしまう。ここでは、主要な点を挙げて、そのことを説明してみよう。そしてその必然性を考察することにしよう。

 ごく普通にこの映画を見るときに、恐らくはじめに目にとまるシーンは、精神科医ショーン・マクガイアがウィルに対して、「君はおびえた子供だ」と言い、「君の持っている知識は、結局は本で得られたものでしかない」「君は自分を話すのは嫌なんだろ」というところだろう。このシーンは、その公園をバックにしていることからすでに判るように、ショーンがウィルに対し生の経験の必要性を強く訴えている個所と見ることが出来る。しかし、我々はこの主張をそのままに受け取ることは出来ない。なぜかといえば、後から判るように、ショーン自身現在そういう状況であるからだ。確かにショーンは妻をなくしたという経験から回復していないと言うことは出来るだろう。人を愛した経験があるかい、とウィルに聞く以上、この背景はこの台詞と切り離しえない。しかしながらウィルがショーンに、もう人生を清算して残りの人生を誰とも本気で付き合わないことを批判するのは完全に正しい。少なくとも、ショーンは生の経験の重要性を主張するときに、それを自身に対して適用しようとしていない。そしてそれを、ただウィルがショーンに対して言い返しただけだと見る見方は、この映画の重要な点をはじめから見落としている。ツ・蜷
 更に付け加えよう。本気で人に向かい合っていないと批判されるのは、ウィルやショーンだけではない。数学者ランボーもまたそうなのだ。彼は、ウィルは心を開かないという。だが後半でショーンが主張するように、そもそもランボー自身がウィルに対して心を開いていない。彼は、良心ではあっても自身の価値観からウィルの進路を決めようとする。後半まで丁寧にたどるならば、ショーンが公園のシーンで語った言葉は、通俗的な意味に解することは出来ないだろう。
 すでに重要な点は理解されるだろうと思う。つまり、ここで問題になっているのは、単に生の経験の重要性ではないのだ。単に経験というのであれば、内容を問わないのであれば、誰もが経験はしている。ウィルも、工事現場での経験、バーでの経験、友人たちと笑い話に打ち興じる経験など、持っている。よく考えねばならないのは、もしもそうした経験ではない、特別な経験があるとすれば、この映画に出てくる人物の中で、そうした特別な経験に向かい合っているものは一人もいないという事実である。すべては相対的なのだ。ということは、公園のシーンでの台詞は、実はまったく違ったことを示唆しているということになる。まさしく、ショーンの意図を超えて。

 書物の上での知識と、そうでない生の経験。この二分法はありふれている。ところでここで注意しなくてはならないのは、これは前者があってはじめて後者がその意味を理解し得るという点である。少し丁寧に考えよう。普通書物の上での知識は、自身の経験より価値が低いものと考えられている。例えばその揶揄は、ウィルがハーバードの学生に対し、「他人の考えを盗むな。自分で考えろ」と言ったことに象徴される。しかし、よく考えよう。我々の持つ経験的知識のうち、実はほとんどのものは自分で考えていないではないか。書物によって得られる知識も、経験によって得られる知識も、自分で考え、悩み、練り上げていないのであれば、完全に等価なのである。
 他の人が単に言っただけのもの。それは「自分で」向かい合ったものでないが故に、生の経験ではない。その意味で、我々は普通、生の経験など持たない。先の公園でのショーンの台詞を、通俗的な意味に解する人間は、そもそも自身では何も考えていない。何も考えていないところに、生の経験などありうるだろうか?
 ということは、生の経験とは、実存主義的な意味での、限界状況に達する経験であると言えるかもしれない。しかしこれはもはや極度に個別的なものであり、一般化を拒むものだ。したがって、この映画からなにか一般的なものを想定する人間もまた、何も考えていないということだ。ともかく、ウィルの非実践に我々が感じなければならないのは、知識の限界ではなく、それを単に批判するかに見える立場自身の限界である。そこをイメージで追ってはいけない。それはやはり、論理的に感じるべきである。しかしそれでも「生の経験」の問題は消えたわけではない。徹底して考え、悩みぬいた上でどうしてもそうとした言いようのない「経験」……そこまで来て初めて、我々はこの台詞の意味について考えることが出来る。

 こうした点は、単なる思弁的な議論ではない。この映画について考える人間は少なくとも見落としてはならない点に進むためには、どうしても必要なのだ。例えばこの映画から、恋愛についてまさにそれこそが人間における「生の経験」であるなどと、もっともらしく語る人間もいるだろう。そういった人間がこの映画を、それこそ「本当に」見たのかと私は疑うが、割に少なからずの人は、ここまで単純でなくとも類似した印象を持っているのではないか。
 考えてみよう。ウィルは、どうしてショーンを選んだのか。それまでの精神療法医とは彼は違ったからだ。しかし、実はそれだけではない。ランボーや、会社・組織の人間、チャッキーやスカイラーとすら違っているショーンだからこそ、彼は惹かれたのである。ウィルは、過去に暗い体験がある。それ故彼はトラウマを抱えて数々の事件を引き起こしてしまう。その原因は、一番大きいのは養父による虐待であると語られている。養父はウィルをまったく見ていなかった。暴行はしてもウィルをそのものとしてみていなかった。しかし、このことはランボーが呼んだ精神療法士すべてに言えることである。彼らは結局、ウィルを自身のカテゴリーの中でのみ処理しようとする。それゆえウィルが必要なことを結局彼らは与えられないし、そもそも考えようともしない。治療は無駄だと言って帰ってしまうだけである。
 そのことはランボーにも言えることだ。最初のうちはウィルもランボーと勉強をすることに喜びを見出したようだ。しかし徐々に彼は苦痛になっていく。一つにはウィル自身が語るように、知的刺激にならないということなのだろう。だがより重要なのは、ランボーとの間に、ウィルは信頼関係を築き得なかったということなのだ。ランボーは、彼の才能に驚き、何とかしてそれを生かさなければならないと考え、有名な会社や組織に就職させようとする。それは、すばらしい天才を自分が見つけたのだということを広めようとする誇示心や、あるいは競争心の表れかもしれないが、それでもそれは彼なりの良心だろう。嫉妬まで感じているのだから。だが、結局それはランボー自身の意図でしかない。ショーンが指摘するように、あるいはショーンとの言い争いで具間見えるように、彼は自身の意図をウィルに押し付けようとする。そしてそれが、才能の面で劣る自身の代わりにウィルにさせようという、行動の強制になっていることに彼は気づかない。ウィルは結局ランボーとの関係に我慢できなくなっていく。
 ではショーンはどうか。この映画の中で唯一、最後までショーンはウィル自身が何をしたいのか、自分で道を選ぶよう促す。丁寧に見ているなら判るように、ショーンは何かあらかじめ決まったカテゴリーからウィルを見ようとしていない。ランボーとの言い争いも、ショーンが言っているのはウィルの主体性を守ろうということだけだ。ウィル自身に道を選ばせること。スカイラーとの関係でも、彼はむしろ聞くだけだ。それを特権的に取り出したりはしない。自分について語ることはあっても、それはウィル自身に考えることを促すために他ならない。だからこそ彼は結論を言わない。ウィルは、こうした初めての経験に戸惑いつつも、だからこそショーンを信頼し、自分について語ろうとしたのだろう。

 この映画を丁寧に見るときに、どうしても感じてしまうのは、しかし、ショーンの視点によってこの映画が支えられているわけではないということだ。確かにそれな重要な要素だ。だが、しかしショーンは、かつてはいかに女性を愛したといっても、現在はむしろ何もやろうとしない人間である。先に述べたように、ショーンがウィルに「現実世界の君は傷つくのを恐れて、先に進もうとしない。誰とも本気で付き合おうとしない」と言う言葉は、ショーン自らに跳ね返ってくる。登場人物の誰の視点によっても支えられないこと。それ自体は珍しいことではない。だが、この映画の場合、話しは一寸ややこしくなる。
 何故かと言うと、多くの人は恐らく、ショーンの視点に同一化しつつ、ウィルの物語としてこの映画を見てしまうだろうからだ。ということは、ショーンの視点に同一化していることに気がついていないということだ。こうした仕掛けは、実はそこかしこに張り巡らされている。私がこの映画に感じる奇妙さは、実はその点に関係している。
 ここでまた、ショーンに関して考えていく。ショーンは精神科医であり、そうである以上ウィルを何らかの視点から判断することになる。もちろんこれは他の登場人物すべてに言えることである。例えばチャッキーは、励ましの台詞ではあるが、この工事現場で働きつづけてはいけないと言う。これは如何なる形であれ、ウィルを自分の見方で判断することになる。スカイラーは恋人としてウィルを見るのだし、いっしょにいて欲しいと言う。ランボーは数学の才能と言う点から彼を見る。しかし、今まで述べたことから、ウィルはこうした人間関係自体におびえていたことは理解されよう。彼は繊細な心を持ち、変化を恐れ、そもそも自分を理解されるということ自体拒絶している。そのことはスカイラーとの話の中で判る。彼に関して結局真の意味で理解し得たのはショーンだけだろう。
 だが、ここで重要なことは、ショーンが積極的にはウィルに対し何も言わないということだ。それ故ショーンの視点は反映しようがない。理解とは、そうした条件の上でのみ得られる。
 我々がまず考えねばならないのは、したがって、この映画を見る我々の欲望の問題であるということなのだ。この映画を見るときに、多くの場合あらかじめ持っているイメージを通じてこの映画を見る。それ故色々な印象を誘発する。しかしそれでこの映画を理解したことになるだろうか。ウィルは、単純化したカテゴリーに自身が閉じ込められることを嫌った。如何なる価値観も自分のものと思えなかった。それらを前提としないショーンだからこそ、彼は自分を語ることが出来た。そうであるとすれば、我々がもしこの映画を、何らかのイメージ=カテゴリーで処理しようとするなら、我々はウィルの心を理解できないのではないか。
 私がともかく関心を抱いたのは、この映画のこうした自己言及的性格である。ウィルと他の人間との関係は、我々とこの映画という関係に送り返される。この構造が見えない人間は、結局自身のもつイメージから見てしまう。そして様々なことを語る。彼らはこの映画で固執したウィルの単独性が見えない。何も考えていない以上、彼らはこの映画を「経験」出来ない。やる気になれば、この映画から何十本もの論を書くことが出来るだろう。だがそれらはことごとくこの映画自身からそれたものでしかない。そうした人間が、果たして、現実世界でウィルのような人間を理解できるだろうか?

ロビン・ウィリアムズの「笑い」を巡って

 

 「僕は演技をすることで、人生にまっこうから立ち向かうのを避けていたんだ」。
 ロビンの演技を見るとき、彼自身から発せられたこの言葉が思い出される。そして、ロビンの演じている役柄にロビン自身の想いを重ねて、読み取ってしまいたくなる欲望に駆られる。僕にとって、ロビン・ウィリアムズとはそうした存在だった。
 ロビンが実際にはどのような人柄であるのか、僕にはわからない。僕には映画の中のロビンしかいない。彼の出演している映画はたくさん見た。僕が感じているロビンとは、だからそうしたたくさんの映画で演じられている人物像の、イメージが重ねあわされて出来ているものだ。そのロビンに僕は心惹かれる。

 ロビンは真摯で心優しい役作りをする俳優として知られているが、それと同時に、モノ真似を得意とするコメディ俳優としてもよく知られている。ロビンの演じるのは、おおよそこのどちらか、そして時にはこの両方にまたがるような役柄である。この二つは、一見違った方向であるように思われる。だが、ロビンの演技を見ていると、この二つは同じ根を持っているということに気付かされる。
 ロビンはもともとコメディの出身である。そこでの「笑い」は、自分自身にとって重要な意味を持っていたとロビンは語っている。シャイな子どもだった彼にとって、コメディは他人との距離を縮める手段でもあり、同時に遠ざけるものでもあったと言う。自分がシャイな分相手のシャイな部分にとても敏感に反応し、一緒にいる人にできるだけ心地よい時間を過ごして欲しいと感じてきたからこそ、「笑い」が持っている人の心を和ませる力に信を置き、コメディという道を選択したのだろう。彼が有名人のモノ真似に長けているのも、こうした彼の、とても敏感な感受性を背景にした、人間の観察力があったからだろう。それを相手への愛と呼んでも良いと思う。
 コメディの持つ「笑い」はだから、人の心の防衛を解き、互いの心理的距離を縮める。だがそれは同時に、自分の心を守るものでもあったのだ。直接に相手からの分析的な観察眼を逸らし、自分の中に存在する孤独や悲哀などのネガティヴな感情から相手の関心を逸らし、自分自身をその「笑い」という表面において生きようとすること、それがコメディの持つ逆説的な寂しさである。彼が時折映画で不意に見せる、黙りこくった時の深い眼の色は、彼の見せる「笑い」に隠れた裏の面を何よりも雄弁に物語っている。
 ロビンの語った「演技」、それは彼がコメディで学んだ「笑い」と同型のものであろう。ならば冒頭の言葉を、今ここで次のように書き換えても許されよう。「僕は人を笑わせることで、その人にまっこうから立ち向かうのを避けていたんだ」。ロビンの見せる「笑い」が、時に観るものの胸を締め付けるのは、その「笑い」の明るい外見に隠された「寂しさ」に気付くからだろう。ロビンの演じる役柄は、その両義的な「笑い」によって特徴付けられる。

 『パッチ・アダムス』は、そうした彼の「笑い」の両義性を、明瞭な形で見せてくれる作品である。無論、この作品自体のテーマは、医療におけるヒューマニズムという社会的な次元に置かれている。主人公である医学生のパッチは、権力構造に取りこまれ脱個人化された医療システムに対して、「笑い」という全く別の切り口から、人間の個別性の復権と心理的交流の実現を求めて抵抗する。この映画の要約は、そう考えて間違いではない。だが、ここで僕は、演じられたパッチではなく演じているロビンに注目して考えてみたいと思う。
 この映画の冒頭部分で描かれているように、パッチは自殺企図により精神病院に任意入院している。それまでの彼の生涯がどのようなものであったかを象徴的に描き出しているのだ。その後彼は笑いの持つ力を信じ、医師を志して医学部に入学する。大学での彼の生活ぶりは、一見彼の持つ暗い過去とは無縁なものであるように見える。そこには断絶があるように見える。だが、そもそもどうしてパッチは「笑い」に惹かれたのか、どうしてそこまで自分を駆り立てねばならなかったのかを考えるとき、その大きな誘因として自身の過去があったことは否定できない。
 学生生活では、パッチは自分の暗い面を見せまいとするかのように、回りを笑わせ、あるいは驚かせ、毎日が如何にも幸せであるように振舞っている。周囲は彼のその行動を、彼自身の性格によるものとして処理している。そしてまた、パッチは学生生活の中で、カレンが殺された時以外は一度も自分の中の弱い面を見せようとしない。常に自分の側の正義を信じている。それはこの映画を観ている側にある種の切迫感を感じさせる。パッチは何かに強いられているのだ。それが何であるか、パッチの周囲の人間はよく掴めないままに、パッチの持つ信念であると考えている。パッチは何も語らないのだから、そう考えても不思議はない。
 だが映画の始めから観ている観客には彼のそうした振る舞いの動機がわかる。彼はかつての自分を変える手がかりとして、「笑い」しかなかったのだ。その絶望的なまでに追い詰められた状況が、彼を「笑い」によるコミュニケーションへと駆り立てる。映画中でかすかに匂わせているその切迫感こそ、パッチの「笑い」の両義性を感じさせるのだ。

 こうした『パッチ・アダムス』でのロビンの演技は、それまでのロビン自身の演技を集約した形で我々に提示している。パッチの「笑い」の両義性は、そのままロビンが語った「演技」の両義性と同じものなのだ。そしてこの映画で見せている「笑い」の持つ両義性を、ほぼ同型のままに明瞭に見せてくれた映画が実は既に存在する。それが『フィッシャー・キング』である。
 『フィッシャー・キング』では、ロビンはパリーというホームレスの役を演じている。パリーはもともと大学教授だったのだが、レストランで食事中に目の前で妻を銃で撃たれて殺されて以来人が変わったようになり、今はホームレスとして、毎日の生活を刹那的に楽しんで過ごす人間になっていた。ドンキホーテのような中世的妄想の世界にどっぷりと浸り切っているかに見える彼は、しかし実際には妻の死が脳裏から離れることはない。屈託のない笑みの影で、彼は常に記憶に脅かされ、狂ったようにその記憶から逃げ続けているのだ。
 過去の暗い記憶と、現時点での一見したところ悩みなどなさそうな生活との乖離が、パリーという役柄を構造的に決定している。従ってここでも笑いは両義性を帯びている。どんなに振り払おうとしても消えることのない寂しさと、それを押し留めようとして自分を騙すための笑い。しかしこの映画では、『パッチ・アダムス』以上にその切迫感、焦燥感が伝わってくる。過去から逃げ続けるパリーに安息の時間はない。ロビンが様々な映画で見せる「笑い」の両義性は、ここにおいて映画の前面に出てきているのだ。

 『フィッシャー・キング』や『パッチ・アダムス』だけではなく、ロビンは数多くの映画で数多くの役柄を演じている。それを単純に一括りにすることは出来ないが、それらを通じてロビンの持つイメージを語ることは出来よう。勿論映画ごとにロビンの見せる演技を一つ一つ詳細に分析することは可能であるし、そうした批評の有効性もまた疑い得ないだろうが、ただ、そうした整理は残念ながら、あまりにも僕の手に余るし、それがここでの目的ではない。重要なことは、ロビンから僕が何を受け取ったかということだ。いくつもの映画を通じて、一体ロビンは何を伝えていたのかということへの、僕なりのコマンテールがそれに当たるだろう。
 僕がロビンの演技を観続ける中で常に感じずにはいられないことの一つが、この短いテクストで説明した「笑い」の持つ両義性であった。ロビンは心優しい役柄も、観る側をおおいに笑わせるコメディな役も、どちらも演じるが、その双方の演技の根元にある何ものかこそ、僕がロビンに惹かれて止まない原因だろう。それは注意深く観ていれば、どの映画の中でも現れている。
 人の心の防衛を解き、互いの心理的距離を縮めると同時に、自分の心を守るものでもあった「笑い」、その二重性を彼以上にはっきりと感じさせてくれた俳優を僕は知らない。そしてそうした二重性は、僕にとってもまた重要な部分をなしている。おそらく僕はこれからもロビンを観続けるだろうし、そして考えつづけるだろう。僕がロビン・ウィリアムズを素晴らしい俳優であると賞賛し、できるだけたくさんの人に彼の出演している映画を観てもらいたいと思う理由は、このようなものだ。

 


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