#12.愛されることを学ぶということA

 

 「よしひろはそうやって、人の話をただそうやってにこにこしながら聴いているだけで、自分のことは何も言おうとしないんだね。どうして本心でぶつかって行こうとしないの?」
 そんなことを言われたのは、つい先日。
 「恋愛から逃げているんでしょ。」
 「よしひろは臆病なんだよ。相手に真剣にぶつかりたくないだけなんだろ。声を掛けてくれることを待っているだけって、すごく卑怯なんじゃないか?」
 そんなことを言われたのは、半年ぐらい前。
 「よしひろと話していても、よしひろの言葉には他者の匂いがしないんだよね」
 そんなことを言われたのは、一年ぐらい前。

 ……時折僕は、そんなことを言われる。
 よしひろという人間は、いつもいつも何かから逃げている。何気ない振る舞いや言葉の端々から、そういう印象を周りには与えているらしい。直接僕にそんな言葉を投げかけてくれる人は、実際にはそれほど多くはないけれど、おそらく、僕のことをじっと見ていれば必ず、そうした結論に辿りつくものなのだろうと感じる。逆に言えばそれは、僕を理解しようとする人そのものがとても少ないということであり、またそのことは同時に、僕が周囲の人間から逃げていたことの傍証になるのかもしれない。
 いつも、僕はそんな話を聴きながら、にこにこしているだけだった。だけど、逃げているんじゃないか、と言われた時には僕は、今まで誰にも話したことがなかったけれど、必ず思い出す話がある。普段はこんな風に話をすることはないんだけれど、どうしてだか今日は君には話してみたいと思う。話し終わったらそのまま忘れてしまって構わないから、御伽噺のようなものだと思って、聞いて欲しい。

 高校生ぐらいの頃だった。その頃僕には“仲間”がいて、その仲間とは夜中に会うのが通例のようになっていた。メンバーはその都度変わるけれど、集まるのはいつも大体4〜5人で、彼らとは公園や誰かの部屋でだらだらと喋ったり笑ったりして何時間も過ごした。別にそんなに非合法なことをしていたわけじゃなかったけれど、なんだかその空間には秘密めいた匂いがして、いつも演じている自分とは違った存在になれるような気がして、その時の僕にはたった一つの安心できる場所だった。かすかではかない繋がりだったけれど、僕にとってはとてもとても貴重なものだった。
 “だらだら仲間”と、僕は呼んでいた。その仲間というのはただだらだらするだけで、集まって何をするわけでもないし、年齢も様々で、外部の人間から見たらどういう集まりなのかきっと訝しく思っただろうと思う。あれは、日常生活の中で疲れて、どこか逃げ場所を求めてさ迷って、そうして一人でいるよりは誰かといたいと願う、そんな人間の集まりだった。だからそこに集まる人間の共通項は、外から見ただけでは分かるはずがない。確かに、精神科に通っているか、もしくは通おうと考えている人が多かったのは事実だけれど、それは、自助グループのようなかっこいいものじゃなかった。ただ来たいときだけ行き、日常の愚痴をこぼし、内輪の噂話をしたりして盛り上がる。そこには誇れるような目標も無い代わり、今を繕うための将来への期待も無かった。そこではただじっとりと纏わりつくような現在だけがあって、それは日常の過去とも未来とも無縁なものだった。
 僕は、その中で自分が埋もれていくことに、かすかな怯えの混じった心地よさを感じていた。僕という独立した人格を支える輪郭線がとろけていき、仲間同士の言葉のやり取りの中に解体していくその過程に、僕はタオルに包まれて誰かの胸に抱かれている乳児の姿を思った。これからどうなるのか分からなかったけれど、そんなことはどうでも良かった。淋しかった、守ってもらいたかった、そのためだったらこの自分という存在などどうでも良い、そんな気持ちに僕は段々近づいて行った。

 そんな風に、何の為に生きているのか分からない状態で僕は、ただだらだらと時間を過ごすことに慣れて来ていた。その仲間を、友人と呼ぶべきかどうかは分からない。僕らは互いに自分の求める映像を相手に投げ入れているだけだったのかも知れない。互いに互いの移行対象に成り合うあの共依存状況は、とても脆いものだと皆が分かっていたから、だからこそその関係を壊さないように、本当はとても怯えていたのかも知れない。意味を担うにはあまりにもあの場所で交わされていた言葉は軽すぎた、そしてそのことは多分、誰もが気が付いていた。
 そうして弛緩した時間を過ごしている中で、ある時僕は彼に出会った。出会った、と呼んで良いかどうかは、僕には分からない。そのとき彼は仲間たちの輪の少し外側で、時々周りの笑いに合わせて微笑みながら、壁に背を凭せ掛けてこっちを眺めていた。物静かな人だな、と思った。彼から話を切り出してくることもなかったし、僕から彼に言葉を掛けることもなかった。ただ、彼の眼鏡の奥に見える、何かを訴えながら同時に伝えることを諦めきっているような瞳の色が、妙に印象に残った。
 彼とは、それほど頻繁に顔を合わせるわけではなかった。むしろ、会う方が珍しいくらいの人だった。けれど、その場に現れても誰も彼がいることに気が付かないんじゃないか、そんな風にすら思えてしまう程彼という存在は軽かった。彼はほとんど口を開くことがなく、何時の間にかいなくなっていた。穏やかそうな笑顔で、大きな丸っこい体を縮こまらせて、いつも隅の方からこっちをぼんやりと見ていた。そんな彼に、僕は何故か強く惹かれた。この人は自分と似た匂いがする、その時ふとそんな風に感じた。

 彼がいない時に、彼の噂話を時々仲間から聞いた。時々ふらりとやって来るんだけれど、こちらから話を振っても困ったような笑いをするだけで、ほとんど何も喋らずに帰ってしまうこと。幻聴や強迫行為があって、仕事に就いてからまだ何年も経っていない彼は、その症状と周囲の人間関係の狭間で悩み、人知れず精神科に行って薬を処方してもらっていること。一人暮しであまり人付き合いをしない男だということ。……一体、自分で何を求めているのか分からないままに、彼がここに来た時の様子や、数少ない彼の発した言葉を、僕は仲間の口に追い求めていた。それは今思えば、もしかしたら恋のようなものだったのかも知れない。
 ある夜、彼が珍しく酔ったような顔でその場に現れた。足取りも危なっかしく部屋の隅に転がり込んできた彼は、軽く口を開けたまま焦点の合っていない目をこちらに向けていた。それは、疲れて眠がっているような目にも、押し潰されそうで泣き出したい目にも、見えた。あんな表情の彼を見たのは、それまでになかった。その場にいた仲間は彼にウーロン茶を勧めたけれど、彼はその言葉がまるで聞こえていないかのように遠い目をしたままそこに動かないでいた。
 彼の傍にいたい。彼に触れてみたい。何故だか分からないけれど、それまでそんなことを考えたこともなかったのに、その日僕はそう強く思った。僕は部屋の隅にいる彼のすぐ横に場所を移すと、頭を彼の肩に預けるような格好をした。恥ずかしいとかいった、躊躇いの気持ちはもちろんあって、今でもあの時何故あんなことをしたのかよく判らない。けれど彼はそんな僕に戸惑いもせず、自分の胸の上に僕の頭を引き寄せた。僕は彼の顔を見上げたけれど、彼は変わらずぼんやりと斜め上に視線を飛ばしていて、僕の方を見る素振りも見せなかった。僕は、談笑する仲間の方にまた視線を戻して、それから暫くの間目を閉じていた。右の頬から彼の胸の暖かさが伝わってきて、何だか僕はとても穏やかな気持になれる気がした。世の中でよく言われている幸せって、もしかしたらこういうものを言うのかも知れない、不意にそんなことを思った。

 どれくらいの間そんなふうにしていただろうか。半ばうとうとし始めていた僕は、彼が急に体を動かした時、一瞬何が起こったのか分からなかった。首がずるっとずり落ちる衝撃で僕は目を覚まし、寝ぼけた頭のまま僕は彼の顔を見上げた。その時の彼のことは、きっと僕は忘れない。
 彼は突然怯えたように震え出した。目を大きく見開いて、それから両腕で両耳を押さえ、違う、違うと言いながら何度も何度も強く首を横に振っていた。何かに取り憑かれたかのように、何かから逃げ出そうとしているかのように、彼は小声で何度も同じ言葉をつぶやいていた。僕はその場で一体どうしたら良いのか分からず、彼の左手首を握ろうとした。どうしたのか、どうしたいのか、彼の口から直接聞きたかった。彼をもっと知りたかった、彼のもっと近くにいたかった。これは、これは、僕の知っている彼じゃない。
 でも僕はあの時、彼に僕を見て欲しい、僕を守って欲しいと心の奥底で訴えていたのかも知れない。それを彼は感じ取っていたのかも知れない。そのことに気がついていたら、もっと違った行動をとりようもあったかも知れないのに。期待に反した彼の振る舞いに、彼の内面に辿りつく鍵を見つけられたかも知れないのに。
 彼は、彼の方に伸ばしていた僕の右手を勢いよく振り払った。そしてもっと予想外なことに、その一瞬後に突然に僕の胸を両腕で抱き締めた。その時の僕は、何も分からずただ呆然と彼を見ていることしか、できなかった。彼の中に、こんなに激しい感情があるなんて、その時まで僕は知らなかった。その激しさに僕は圧倒されていた。息も出来ないくらい強く抱き締められたのは、この時が最初だったと思う。
 気が付かぬ間に、僕は泣いていた。その涙は、何に対してのものだったのか……。不意に胸を締め付ける力が緩んだ。彼は僕の顔を見上げた。夢から覚めた時のようなぼんやりした目をしていた。でも僕の顔を見ると急に、彼の目の色が変わった。辛そうな、深い深い色をしていた。怯えているようにも、淋しさに震えているようにも見えた。その瞳に、僕は怯えた。僕を貫いて、砕き飲み込むようなその瞳の色に、僕は怯えた。訴えと諦めが混じり合った彼の瞳に、耐えられないくらい僕は怯えた。その彼のまなざしは、僕という存在そのものだった。
 気が付いたら僕は目を閉じていた。目を閉じて僕は彼から顔を背けていた。なんだか体じゅうが痺れているようだった。痺れたまま、このまま周りの何もかもがなくなってしまえば良い、そんなことを思った。ただただ、怖かった。けれど僕はその時、それ以上動くことが出来なかった。

 まなざしだけを残して、彼はその場から立ち去った。動くことも出来ず、声を出すことも出来なかった僕は、結局彼からどんな言葉を聞くことが出来なかった。僕にとっての彼はあの時のまま、固まって眼底に焼き付いているようだった。それは振り払っても消えようとしない。
 その後噂で彼の話を聞いた。彼は症状を押さえきることがもはや出来ないと考えて、職場で自分の今の状況を説明したらしい。そのことは、彼の誠実さの表れだったのだろうと思う。だが、結局その後、職場の同僚の彼を見る目が大きく変わってしまい、事実上そこで仕事を続けていくことが困難になってしまった。おそらく、彼自身そうなることをどこかで予測していたのだろうと思う。具体的に彼がどんな仕事をしていたのかは僕は知らない。ただその仕事は、こう言って良ければ彼の夢だったらしい。だからこそ彼は、そこで誤魔化しをしたくなかったのかも知れない。続けられないなら続けられないことを、はっきりさせたかったのかも知れない。彼が珍しく酔ってあの場にやってきたのは、そうした葛藤の只中のことだった……。
 その話を聞いて、僕は彼から目を背けた自分を恥じた。しかしそれと裏腹に、どうしようもなく湧き上がってきた感情は、彼にこれ以上近づきたくないというものだった。彼の傍にはもういたくない。今の彼は、僕の将来の姿そのままだ。僕が彼に惹かれ、そしてまた彼を恐れたのは、今のままでは間違いなく僕は彼のようになるという直観があったからだ。このままでは、僕はこの社会の中で、生きていくことさえ出来ないんだ……まさに、彼のように。
 程なくして僕はその仲間たちと会わなくなった。僕はそこから理由も知らせずに逃げた。卑怯にも、泥棒みたいに逃げ出した。僕は、自分の鏡である彼にもう近づきたくなかった。彼のあの時のまなざしを思い出させるような何ものにも、もう近寄りたくなかったんだ。でも、逃げながら、逃げることには後ろめたさが付いてまわった。彼の姿は、どんな風にしても僕から離れなかった。その理由は分かりきっている、僕は彼という記憶を引き裂いて、彼という人格を全面的に拒絶して、彼みたいにならないために逃げているのだから、その作業は彼のネガでしかあり得ないし、誇れるようなものには決してなり得ないんだ。
 僕はそこから身を守りたかった。身を守る術を身に付けたかった。僕が精神病理学の本を読むようになったのは、確かその頃だったと思う。

 昔からずっと、自分のことを不良品だと思ってきた。ここに生きているだけの価値のない人間だと思ってきた。それは今も変わらない。だけれど、そのことを忘れたくて、そんな自分の姿を見たくなくて、僕は逃げ続けているんだ。
 どうして逃げるのか、と君は僕に訊いたね。たぶん僕にとってはもう、逃げることでしか生きられなくなっているんだ。いつだって逃げ続けてきた。誰も守ってくれないと思っていたから、逃げることで僕は自分の身を守らざるを得なかったんだ。
 どうやったら逃げられるだろう。ここから、この関係から、不安から、怯えから、抑圧から、辛さから、語ることから、欲望することから、今ここに閉じ込められた自分から。何もかもから、僕は逃げ続けてきた。立ち止まってはいけなかった、走り続けなければいけなかった。
 逃げる為に、僕は「思考」して来たのかもしれない。考えることで、僕は“感じる自分”を“考える自分”から切り離してきた。“他人事”のように扱うための術を、僕は書物の中に求めてきた。がむしゃらに文字を辿り、ページを繰り続けてきた。感情も記憶も、僕に固有のものなど何も要らなかった。誰に対しても深い関係など持たないように努めてきた。感情転移を起こさない、純粋な観察者でいられたら良いと思っていた。
 それだけが、僕が生きる為の方法である、という風にして。

 ……こんな僕にとって、一番怖かったことが何か、君には分かるだろうか。それは、一人の人間として愛されるようになることだった、と言って、君は分かってくれるだろうか。

 


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