保育器の中で、その子は足を突っ張らせ、気管支まで入れられた挿管チューブを掴んで引っ張りながら泣いていた。僕はそれに目を留めて、しばらくの間そこから動かずに居た。 |
小学生の頃だったろうか、そう言えば保育園か幼稚園か分からないけれど、小さな子どもたちが集まって保父さんに遊んでもらっているのを見て、とても羨ましく思ったのを今でも覚えている。それは記憶の中ではいつも夕暮れ前の、夕暮れ前と言ってもまだ明るい時刻で、僕は一人で遠くからそれを眺めていた。 そうした中で僕は、病院や施設で子どもと遊んでいるおじさんたちを何度も見た。それは何だかとてもまぶしくて、羨ましくて、あんなふうになれたら良いって思っていた。 |
髭を伸ばしているのは結構昔からで、その当時から回りに不思議がられたことを覚えている。けれど、その理由を誰かに話したことはなかった。僕も強いて話したいと思わなかったし、そしてまた目の前にいる相手も、本当に知りたいと思っている訳ではないと、分かっていたから。 そんな風に生きてきて、結局誰ともまともに付き合えない臆病なだけの人間になっていた。そのことは、ずっと前から気付いていた。子どもの心の問題を考えていきたい、辛さで押しつぶされそうな子どもの逃げ場所を作りたい、そんな言葉を口にしながら、こんな自分に子どもの心など判るのかと、本当はいつも思っていた。それが自分の子ども時代へのコンプレックスから出た言葉だということも、ずっと前から判っていた。 |
ある新生児科のドクターが僕の目の前に現れたときから、僕は彼に心底惚れていた。いつもはただむっつりとして、不機嫌そうに廊下を歩いているだけの彼も、病棟や外来で子どもたちと接している時にはなんて甘い目をして微笑むことだろうか。その笑顔が、僕は大好きだったんだ。 |
僕にあるのは何だろう。誰かに誇れるようなもの、誰かの役に立てるようなもの……そんなものが、僕にあるんだろうか。考えるたび、体が引き裂かれそうになる。甘えているのはずっと前から判っている、こんなことを考えることそれ自体甘えだということなど、とっくの昔から分かっているんだ。でも……。 |
それを恋と呼ぶことを、気付けずにいた。 この感触は、これまで何度も味わってきた。そのたび僕は、それが仕方のないものだと思ってあきらめた。自分がここでこうしているのが信じられないくらいに、体の輪郭が崩れていきそうに、触覚だけが異様に亢進して体表だけが自分であるように、そしてその中身を入れ替えようとして、触れてきたあらゆる物を投げ捨てて、僕は何もかもを忘れようとした。思い出したくなかったその感触を僕はまた、思い出していた。 |
僕という存在を包みこむ皮膚、その感触を僕はいつも忘れてしまっている。視覚と聴覚の中だけで生きているような錯覚を起こしてしまっている。僕は、僕という肉体を忘れがちになっていて、気づかないことに慣れ切ってしまっていて、それを不思議とも思わなくなってしまっている。それは、いつ頃からなのだろう。 小児科の勉強をしていて、改めて気付かされたことがある。神経も皮膚も、元は同じ外胚葉由来であるということだ。色々な外界刺激を受けとめ、感じるのが脳だとするなら、それと同じくらい皮膚もまた、色々な刺激を受けとめ感じているのかもしれない。不意にそんな観念が横切る。 包み込まれていたい、という欲望が僕にはある。それはかつて満たされなかった願いを、僕は今尚引き摺っているということなのか。寂しさを解消したいと言う時、誰かの皮膚の温かさを求めたくなるのはそれは、僕の人格発達の未熟さゆえなのか、それとも誰もがそうなのか。 |
もう一年半になる、他のゲイとコンタクトを取り始めたのは。辛くなった時に気を紛らす場所、今の不安を棚上げするための場所、そうした場所としてのゲイバー。内気な僕にも、少しは友達が出来た。とてもとても、嬉しかった。そして、もっと前からここに気が付いていたらと思わずにはいられなかった。 |
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はじめからの帰り道、彼に如何しても聞きたくて「今の職業選択に満足してる?」って訊いた。そうしたら彼は、いつもと変わらない調子で喋ってくれた。 |
不意に湧き出して来た奇妙な思い。その思いは発信源を特定することが困難で、また、打ち消そうとしてもそれは僕の頭の中を不気味なほどの威圧性を持って占領してしまうのだ。考えることさえ、それは僕に許さない。 ……怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。でも何が。……見捨てられることが。誰からも相手にしてもらえなくなることが。独りであることが。その寂しさが、その苦しさが、感情が形を持って体を締め付けてくるあの時間が。それでも誰も守ってくれなかった。……あの時誰も守ってくれなかったじゃないか! |
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彼はいつも優しかった。人が傷ついている時、慰めて欲しい時、直感的にそれが判るんだ。今日はそれに、甘えてみたくなった自分がいた。彼は、そんな僕に気がついていたんだろうか。 |
胸部X線写真を見て、カルテを確認してからまた新生児室に戻ってみた。ナースがそうしたのだろうが、その子の口にはおしゃぶりがあてがわれており、顔の近くにはタオルが置かれていた。泣き止んで眠っているところだった。 |
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