ジェノサイド(大量虐殺)という言葉は、私にはついに理解できない言葉である。ただ、この言葉のおそろしさだけは実感できる。ジェノサイドのおそろしさは、一時に大量の人間が殺戮されることにあるのではない。そのなかに、ひとりひとりの死がないということが、私にはおそろしいのだ。人間が被害においてついに自立できず、ただ集団であるにすぎないときは、その死においても自立することなく、集団のままであるだろう。死においてただ数であるとき、それは絶望そのものである。人は死において、ひとりひとりその名を呼ばれなければならないものなのだ。 [……] 栄養が失調して行く過程は、フランクルが指摘するとおり、栄養の絶対的な欠乏のもとで、文字どおり生命が自己の蛋白質を、さいげんもなく食いつぶして行く過程である。それが食いつくされたとき、彼は生きることをやめる。それは、単純に生きることをやめるのであって、死ぬというようなものではない。ある朝、私の傍で食事をしていた男が、不意に食器を手放して居眠りをはじめた。食事は、強制収容所においては、苦痛に近いまでの幸福感にあふれた時間である。いかなる力も、そのときの囚人の手から食器をひきはなすことはできない。したがって、食事をはじめた男が、食器を手放して眠り出すということは、私には到底考えられないことであったので、驚いてゆさぶってみると彼はすでに死んでいた。そのときの手ごたえのなさは、すでに死に対する人間的な反応を失っているはずの私にとって、思いがけない衝撃であった、すでに中身が流れ去って、皮だけになった林檎をつかんだような感触は、その後ながく私の記憶にのこった。はかないというようなものではなかった。 ――石原吉郎「確認されない死のなかで」(『海と望郷』収録) |
名に於いて、僕は考えている。 僕があなたに語りかけるとき、その声には、可視もしくは不可視の署名が付けられているのだろう。僕があなたのこうして書いているときも、その文字にも可視もしくは不可視の署名が付けられているのだろう。そういうふうにして、その声なり文字なりの発信源は、原理的には辿りなおすことが出来る。その、名に於いて。 だが、考えてみると、そこで言われる「僕」は、「僕の名」とイコールではない。僕にとって僕は「僕」だが、僕以外の人間には僕は「僕の名」において語られる。それは単純な人称の構造に過ぎない。そしてまた、僕以外の人間にとって、「僕」という存在は、「僕の名」に於いて受け取られた情報の集積によって成り立っているのだ。それもまた、ごく常識的な、情報伝達のシステムに過ぎない。 僕は、「僕の名」がついた種々の言説に、責任を持たねばならないのだ。応答せねばならないのだ。たとえ、仮に僕がそう言うつもりがなかった言説であっても。そもそも実際にはそのように言っていない言説であっても。人の間を伝えられていく中で変容を遂げた言説に対しても。「そういうつもりじゃなかったんだ」とか、「そんなことは言っていない」とか、新たに僕の名を署名した言説を産出して。 僕はだから、名に於いて、単に「判断するもの」であった立場から、ただただ周りを見てあれこれ考えるだけだった存在から、「判断される」立場へと、時には自分がそのように評価されたくないと感じてしまう評価を受けねばならない存在へと、変容させられる。 もし、「僕の名」を僕が決めたのであれば、問題は前述したような、名前を巡る情報経路の諸問題について考えれば良い。そこでは、「僕」という僕の心の中での一人称と、「僕の名」に於けるあなたに対しての一人称との差異が、問題になっているだけだから。もちろんそれは、僕にとって大きな問題だ。あなたにどう語れば良いか、ということでもあるのだから。だが、僕が考えているのは、そうした問題ではない。 僕は「僕」になりたかった。だからこのホームページに僕は、戸籍名ではなく「林義拓」と署名する。「僕」の痕跡は、そこにしかないのだから。 |
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