#14.愛されることを学ぶということC

 

 ジェノサイド(大量虐殺)という言葉は、私にはついに理解できない言葉である。ただ、この言葉のおそろしさだけは実感できる。ジェノサイドのおそろしさは、一時に大量の人間が殺戮されることにあるのではない。そのなかに、ひとりひとりの死がないということが、私にはおそろしいのだ。人間が被害においてついに自立できず、ただ集団であるにすぎないときは、その死においても自立することなく、集団のままであるだろう。死においてただ数であるとき、それは絶望そのものである。人は死において、ひとりひとりその名を呼ばれなければならないものなのだ。
 「みじかくも美しく燃え」という映画を私は見なかった。だが、そのラストシーンについて嵯峨信之氏が語るのを聞いたとき、不思議な感動をおぼえた。映画は、心中を決意した男女が、死場所を求めて急ぐ場面で終るが、最後に路傍で出会った見知らぬ男に、男が名前をたずね、そして自分の名を告げて去る。
 私がこの話を聞いたとき考えたのは、死に際して、最後にいかんともしがたく人間に残されるのは、彼がその死の瞬間まで存在したことを、誰かに確認させたいという希求であり、同時にそれは、彼が結局は彼として死んだということを確認させたいという衝動ではないかということであった。そしてその確認の手段として、最後に彼に残されたものは、彼の名前だけだという事実は、背筋が寒くなるような承認である。にもかかわらず、それが、彼に残されたただ一つの証しであると知ったとき、人は祈るような思いで、おのれの名におのれの存在の全てを賭けるだろう。
 いわば一個の符号にすぎない一人の名前が、一人の人間にとってそれほど決定的な意味を持つのはなぜか。それは、まさしくそれが、一個のまぎれがたい符号だからであり、それが単なる番号におけるような連続性を、はっきりと拒んでいるからにほかならない。ここでは、疎外ということはむしろ救いであり、峻別されることは祝福である。
 私がこう考えるのは、敗戦後シベリアの強制収容所で、ほぼこれとおなじ実感をもったからである。

[……]

 栄養が失調して行く過程は、フランクルが指摘するとおり、栄養の絶対的な欠乏のもとで、文字どおり生命が自己の蛋白質を、さいげんもなく食いつぶして行く過程である。それが食いつくされたとき、彼は生きることをやめる。それは、単純に生きることをやめるのであって、死ぬというようなものではない。ある朝、私の傍で食事をしていた男が、不意に食器を手放して居眠りをはじめた。食事は、強制収容所においては、苦痛に近いまでの幸福感にあふれた時間である。いかなる力も、そのときの囚人の手から食器をひきはなすことはできない。したがって、食事をはじめた男が、食器を手放して眠り出すということは、私には到底考えられないことであったので、驚いてゆさぶってみると彼はすでに死んでいた。そのときの手ごたえのなさは、すでに死に対する人間的な反応を失っているはずの私にとって、思いがけない衝撃であった、すでに中身が流れ去って、皮だけになった林檎をつかんだような感触は、その後ながく私の記憶にのこった。はかないというようなものではなかった。
「これはもう、一人の人間の死ではない。」私は、直感的にそう思った。
 私にとってそのとき、確かなものは何ひとつ未来になかった。ただ、いつかは自分も死ぬということだけが、のがれがたく確実であり、そのことを時おり意地わるく私自身に納得させることで、「すくなくとも、今は生きている」という事実をかろうじて確かめ、安堵していたにすぎない。だが「死ぬ」という言葉は囚人のあいだでは、すでに禁句に近いものになっていた。自殺ということは、この時期には、ほとんど私たちの念頭にのぼることはなかった。にもかかわらず、「生きる」というたしかな意志表示は、もはや誰の顔にも見られなかった。誰もが、「しばらくは死なないだろう」という裏がえしの納得で、かろうじて生きようとする意志を表明していたにすぎない。五年生きのびることさえおぼつかない環境で、二十年囚が二十五年囚に示すあらわな優越の表情は、このことをよくものがたっている。
「これはもう、一人の人間の死ではない」と私が考えたとき、私にとっては、いつかは私が死ぬということだけがかろうじて確実なことであり、そのような認識によってしか、自分が生きていることの実感をとりもどすことができない状態にあったが、私の目の前で起った不確かな出来事は、私自身のこのひそかな反証を苦もなくおしつぶしてしまった。
 しかし、その衝撃にひきつづいてやってきた反省は、さらに悪いものであった。それは、自分自身の死の確かさによってしか確かめえないほどの、生の実感というものが、一体私にあっただろうかという疑問である。こういう動揺がはじまるときが、その人間にとって実質的な死のはじまりであることに、のちになって私は気づいた。この問いが、避けることのできないものであるならば、生への反省がはじまるやいなや、私たちの死は、実質的にはじまっているのかも知れないのだ。
 人間はある時刻を境に、生と死の間を絶ちおとされるのではなく、不断に生と死の領域のあいまいな入れかわりのなかにいる、というそのときの認識には、およそ一片の救いもなかったが、承認させられたという事実だけは、どうしようもないものとして私のなかに残った。
 私がそのときゆさぶったものは、もはや死体であることをすらやめたものであり、彼にも一個の姓名があり、その姓名において営まれた過去があったということなど到底信じがたいような、不可解な物質であったが、それにもかかわらず、それは、他者とはついにまぎれがたい一個の死体として確認されなければならず、埋葬にさいしては明確にその姓名を呼ばれなければならなかったものである。
 その男が死んでしばらくたったある寒い朝、一人のルーマニア人が森林伐採の現場で、切りたおされた木の下じきになって死んだ。氷点下四十度に近い極寒の日であったため、腐敗のおそれのない彼の死体は、夕方まで現場に放置され、作業終了後、橇で収容所へはこばれたのち、所内の営倉へ投げこまれた。
 その夜、バラックの施錠に近い時刻に、夜間の使役を終えた私は、なにげなく営倉に立寄ってみた。営倉は半地下牢であったため、ほぼ上から見おろす位置でなかの死体を見ることができた。死体は逃亡のおそれがないとみられたわけであろう、営倉へ半分押しこんであるだけで、開かれた戸口から外側へはみ出た下半身は、明らかに俯伏せていた。私の目がその下半身をたどって、雪明りのなかで上半身にとどいたとき、思わず私は息をのんだ。上半身が仰向いていたからである。死体の胴がねじ切れていたことに気づくには、それほどの時間を必要としなかった。私はまっしぐらにバラックへ逃げかえった。その時の私のいつわりのない気持は、一刻でもはやく死体から遠ざかりたいということであった。「あれがほんとうの死体だ」という悲鳴のようなものが、バラックの戸口まで、私の背なかにぴったりついて来た。
 氷点下四十度をすでにくだった気温にもかかわらず、むっと寝息のこもったバラックのなかで、最初に私が考えたことは「人間は決してあのように死んではならない」ということであった。
 一人の日本人と一人のルーマニア人、この二つの死体の記憶をもって、私は、入ソ後の最悪の一年を生きのびた。私が生きのびたのは、おそらく偶然によってであったろう。生きるべくして生きのびたと、私は思わない。だが、偶然であればこそ、一個の死体が確認されなければならず、一人の死者の名が記憶されなければならないのである。
 その後、私はハバロフスクへ移され、生命力の緩慢な恢復の時期に、かつて見たルーマニア人の死体を、悪夢のように憶い出すことがあった。人間は決してあのように死んではならないという実感は、容易に、人間は死んではならないのだという断定へ拡張された。それは今もなお変わらない。人間は死んではならない。死は、人間の側からは、あくまでも理不尽なものであり、ありうべからざるものであり、絶対に起こってはならないものである。そういう認識は、死を一般の承認の場から、単純な一個の死体、一人の具体的な死者の名へ一挙に引きもどすときに、はじめて成立するのであり、そのような認識が成立しない場所では、死についての、同時に生についてのどのような発言も成立しない。死がありうべからざる、理不尽なことであればこそ、どのような大量な殺戮のなかからでも、一人の例外的な死者を掘りおこさねばならないのである。大量殺戮を量の恐怖としてのみ理解するなら、問題のもっとも切実な視点は即座に脱落するだろう。
 生き残ったという複雑なよろこびには、どうしようもないうしろめたさが最後までつきまとう。さまざまな場所で私が出会わざるをえなかったどの他人の死も、手きびしく私を拒んだ。私は誰の死にも、結局は参加できずにとり残された。私はどんな他人の死からも、結局はしめ出された。そしてこのような拒絶は、最後に自分が他人を、全世界をしめ出すときまで、さいげんもなくくり返されるにちがいない。生きている限り、生き残ったという実感はどのようにしてもつきまとう。単独な生者として、単独な死に立ち会わざるをえなかったことが、その理由である。
 死は、死の側からだけの一方的な死であって、私たちの側――私たちが私たちであるかぎり、私たちは常に生の側にいる――からは、なんの意味もそれにつけ加えることはできない。死はどのような意味もつけ加えられることなしに、それ自身重大であり、しかもその重大さが、おそらく私たちにはなんのかかわりもないという発見は、私たちの生を必然的に頽廃させるだろう。しかしその頽廃のなかから、無数の死へ、無数の無名の死へ拡散することは、さらに大きな退廃であると私は考えざるをえない。生においても、死においても、ついに単独であること、それが一切の発想の基点である。

――石原吉郎「確認されない死のなかで」(『海と望郷』収録) 

 名に於いて、僕は考えている。

 僕があなたに語りかけるとき、その声には、可視もしくは不可視の署名が付けられているのだろう。僕があなたのこうして書いているときも、その文字にも可視もしくは不可視の署名が付けられているのだろう。そういうふうにして、その声なり文字なりの発信源は、原理的には辿りなおすことが出来る。その、名に於いて。
 僕がここで語ることが、「僕が語ったこと」であるというふうにして。

 だが、考えてみると、そこで言われる「僕」は、「僕の名」とイコールではない。僕にとって僕は「僕」だが、僕以外の人間には僕は「僕の名」において語られる。それは単純な人称の構造に過ぎない。そしてまた、僕以外の人間にとって、「僕」という存在は、「僕の名」に於いて受け取られた情報の集積によって成り立っているのだ。それもまた、ごく常識的な、情報伝達のシステムに過ぎない。
 それは又、僕自身においても経験されることだから。僕が「僕」を同定しようとすれば、それは不可避的に「記憶」に依るしかない。記憶とは、単純に言えば情報の集積なのだから、僕は「僕」を、僕に届く情報の束としてしか考えることが出来ない。
 もちろん、そこにズレはあるだろう。僕が考える「僕」と、あなたが「僕の名」において考える僕とでは、受け取る情報が異なるのだから。「僕の名」は、僕から離れても機能する。人と人との間を、僕が知らぬ間に潜り抜け、その都度様々な意味を付与されながら、拡散し集約し、そしてあなたに届くだろう。僕は「僕」を本当の自分であると言いたい気持ちに駆られるのは、そのような様々な諸経路を目の前にして、僕自身が拡散していくような想いに捕われるからかもしれない。
 あるいは、こう言うこともあるかもしれない。あなたに語ろうとするとき、僕はどうしてもいくつかのことを言い落としてしまう。伝え切れないものが残る。意識的に、無意識的に。そこで言い落とされた集積物は、いつも僕の中に憑き纏っている。僕はそれを、いつも隠している部分であると感じて、普段見せている僕とは違うと感じて、だからそれを「本当の自分」だなどと言いたくなってしまうのかもしれない。

 僕は、「僕の名」がついた種々の言説に、責任を持たねばならないのだ。応答せねばならないのだ。たとえ、仮に僕がそう言うつもりがなかった言説であっても。そもそも実際にはそのように言っていない言説であっても。人の間を伝えられていく中で変容を遂げた言説に対しても。「そういうつもりじゃなかったんだ」とか、「そんなことは言っていない」とか、新たに僕の名を署名した言説を産出して。
 そう、僕は名に於いて、自分が経験論的な世界に住んでいることを、実感させられる。「僕」が怯えてしまうほどに。

 僕はだから、名に於いて、単に「判断するもの」であった立場から、ただただ周りを見てあれこれ考えるだけだった存在から、「判断される」立場へと、時には自分がそのように評価されたくないと感じてしまう評価を受けねばならない存在へと、変容させられる。
 だが、今ここで僕が考えているのは、そうしたことではないのだ。一見何ら問題がないように見える前述のロジックは、実は決定的な見落としをしている。それは、「僕の名」は、僕が決めたわけではないということだ。

 もし、「僕の名」を僕が決めたのであれば、問題は前述したような、名前を巡る情報経路の諸問題について考えれば良い。そこでは、「僕」という僕の心の中での一人称と、「僕の名」に於けるあなたに対しての一人称との差異が、問題になっているだけだから。もちろんそれは、僕にとって大きな問題だ。あなたにどう語れば良いか、ということでもあるのだから。だが、僕が考えているのは、そうした問題ではない。
 「僕の名」は、僕が決めたわけではない。「僕の名」として戸籍に記載されている名は、僕の親が決めたものだ。それは僕が「僕」を意識する前に決まっていたことだ。それに対して僕は何ら主体的な働きかけが出来なかった。それは当然なことなのだろうが。
 戸籍名において、姓はそれまでの血の系譜を示し、名は親によって僕が所有されていることを示す、のだろう。名付けとは、普通それへの所有権を示すものだから。僕は、「僕」であることに気付く前から「僕の名」に於いて考えるようトレーニングされていた。
 僕は、「僕の名」に於いて、考え、感じ、語り、笑い、泣くことを強制されていた、のだと思う。僕は、段々とそのことに耐えられなくなっていった。僕の為すこと、僕の受け取ること、その全てが「家族」というとてもとても大きな系譜に飲み込まれ再署名されてしまうように思われた。僕は「僕」について考えたかった。「僕」について語りたかった。どうすれば良いのか、僕には判らなかった。判らないまま、僕は苛立っていた。

 僕は「僕」になりたかった。だからこのホームページに僕は、戸籍名ではなく「林義拓」と署名する。「僕」の痕跡は、そこにしかないのだから。

 


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