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――どうして児童精神医学なのか?

 

 これに端的に答えるのは少し難しいんだけど。そうね、僕が尊敬している杉山登志郎という児童精神科医が、その主著『発達障害の豊かな世界』のなかで次のようなことを書いていますので、まずそれを引用します。

 私は、自閉症の療育に行動療法的な社会スキル訓練は必要不可欠と考えるものであるが、できれば強い負の強化子の使用は避けたいと思う。というのも、てる君の場合のように、自閉症にとって過去の記憶は、尽きることのない「豊かな泉」となるのであり、彼らのこころの中に、できるだけ多くの楽しい記憶が残されていることが大切であると考えるからである。

[……]

 それにしても、てる君の絵は、彼が人として自閉症という障害を生き抜いてきた確かな証しである。彼の絵を通して、われわれも自分の幼児期の記憶を呼び覚まさずにはいられなくなる。われわれは生き、そして皆死んでゆくのであるが、振り返って残るものは何かと考えるとき、それは、「あんなこと、こんなことがあった」という折々の「楽しかった記憶」ではないか、われわれは未来にしばられ過ぎているのではないか、とも思う。一度過去に目を向けた時に、そこには生きてきた一瞬一瞬の時の輝きがたしかに存在する。このことを、てる君の連続画ほど如実に教えてくれるものを、私は知らない。

 これを読んだ時、それまで漠然とは考えていたけれども自分では明確に言葉に出来なかったことが、とても適確に言葉として記されていて、腑に落ちると言うか、目指していた方向性を確認できたように思えたんです。僕にとってだから、この文章を読んだから児童精神を目指したとかそういうことでは全然ないんだけれども、ここはとても印象深い、思い入れの深い、大切な箇所なんです。

 医療って何だろうなって僕はよくそんなことを考えてしまうんですけど、その時僕にはどうしても馴染めない何かがそこにあるように感じられてしょうがなかった。「治療」って考え方がありますけど、治療というのはその行為の本質において「異常」を「正常」にするっていうことであって、じゃあその「異常」っていうのは何によって決まっているんだ、そんなの勝手に決められているだけじゃないかって思ったわけですよ。

 僕は昔から、そう特に小学生の頃が一番強かったかな、周りの大人たちからは不良品呼ばわりされるし友達は出来ないし、将来に期待なんて全然出来なくて。そうしたストレス環境下に置かれていたことだけじゃなくて、もともとそういう素因があったんでしょうね、10歳頃から強迫症状にずっと悩まされていてすごく辛かった。今でも生活領域の制限は起きるし、どうしても人と付き合う上でハンディですよね。もちろん繰り返しになるけれどもそれを全部家族のせいにしたいとかじゃない、もしかしたら僕に発達障害みたいのがあってそれのために親の方で僕を避けていたってこともあったのかも知れないし、ただ寂しかったのは事実だし誰も僕なんか助けてくれないんだって思っていたのも事実。今でもそれは引き摺っているしこれからも引き摺って行くものなんだろうなって思うんです。

 まあそんな僕だからなのかも知れないけれど、ずっと「治療」モデルに反撥を感じながら何処か心でそれを求めているみたいな、そういう両価傾向をずっと抱えていた。「治療対象」と見なされること、「異常」だとか「不良品」だとか見なされることが、とにかくイヤだったんでしょうね。僕が周りの人間に求めたかったのはそんなことじゃ全然なくて、とにかく僕は居場所が欲しかった、守ってもらいたかったし友達も欲しかったし人と付き合えるような自分になりたかった、そのための援助が欲しかったんですよね。

 ところで僕にとってそれを与えてくれたのは、友達だったりした。高校や大学での友達っていう存在も勿論大きいんだけど、同時に僕にとって大きいのはゲイの仲間たちだったりするんです。電話の受話器の先で僕の纏まらない話にじっと耳を傾けてくれた時の嬉しさって、分かります? ちょっとだけ彼らに自身をもらった僕はその後、勧められるままにパレードとかに参加してみたり、ゲイが集まるようなところに顔を出してみたりしてみたんですけど、何処に行っても理由なく歓待してもらえたしとってもあったかい気持ちになって、楽しくて嬉しくて。その時かな、こんなふうに「つながり」の意識が人を支えているのかも知れないなって思ったの。そしてそれによって、自分を縛り付けていた「自分は要らない存在なんだ」っていう意識から、ようやくちょっとは逃れることができたような気がするんです。

 それでようやく児童精神の話になるんだけど。ときどき意外に思われるみたいだけどもともと僕って子どもっていう存在にコンプレックスあって、なんとか子どもに慣れたいなぁとか思ったのが最初で、児童擁護施設に行ってみたり不登校関連のミーティングに行ってみたりしていたんだけど、そこで気がついたのは「仲間」っていう存在の大きさね。ケースカンファレンスとか隅っこの方から聞いていたりするんだけど、本当にすごいケースとかあるわけね。

 個人的に一番印象に残っているのは性暴力被害者の人の話で、これは何で印象に残っているかっていうと大学で署名集めたりそんなアクションのお手伝いしていてそれで直に話を聞いたからなんだけども、聞いているだけでもう胸を締め付けられるっていうか、抱えきれない辛さに押し潰されそうな苦しさがこっちにも伝わってきて。だけど彼女には女性団体とかその他「仲間」が現れて支えてくれて、それによって劇的に回復していった。それは傍目にもう明らかで、輪郭だけしか残っていなかったような彼女が人前できちんと話が出来るようになって、何だか感激したのね。自分の体験と何処か響き合うものがあったからかな、とにかく「仲間」という存在が人に与える力ってすごいな、と。

 児童精神病棟って行ったことがあれば分かると思うけど、発達障害圏の子が多いよね。もちろん情緒障害圏というか被虐待も多いけど、自閉症とか重度のADHDとか、医療なのか福祉なのか教育なのかよく分からないような領域がコアな問題として存在している。例えばADHDの子とかめちゃめちゃ可愛いわけ、ちょこちょこ動き回って人懐っこくて本当に可愛い、そんな印象を僕は持ったんだけど、でも彼らは教室ではじっとしていられないからよく叱られたりして、学校の中でじっとしている必要って僕は全然感じないから彼らのことを教育制度の被害者だって感じるんだけど、わりに親とかも理解なくってどこにも居場所がなかったりするみたいなのね。

 彼らにたくさんたくさん仲間が出来たら良いな、自分たちは悪くないんだって思えるように居場所を確保してあげられたら良いなって、その時僕は思った。僕は彼らのことを「異常」と見なす社会通念が納得できないし、そのまなざしはかつて僕に向けられたまなざしと同じものだと感じる。これからの子どもに僕みたいな思いをする必要はない、イヤで辛い記憶じゃなくてもっともっと「楽しかった」という記憶を作ることの出来る場所はないものか、って考えた。ひとは幸せになる権利があるって思う、そのためにはやっぱり仲間じゃないかな、と。

 だから児童精神なんですけど、でもそれだったら医療じゃなくても良いんじゃないかとか言われてしまう? うーん、そうかもしれないんだけど、さっき引用した杉山登志郎は児童精神科医の役割を“co-educational stuff”って言っていて、その言い方がとても僕は気に入っているんだけど、発達障害にしてもそこでの主役はあくまで本人だと思うわけ。そして次に家族とかがあって、学校の先生とかがいて、それらのシステムを支える役割として児童精神ってあると思うんだけど、そういうパラな存在形態ってとても良いなと思うの。これに限らず、基本的に医療スタッフって主役になってはいけないと思う。傍で必要な時だけちょっと顔を出すぐらいがいい。

 で、学校とか施設とかだとどうしても距離が近くて、複雑なサイコダイナミクスに巻き込まれて、対人関係のスキルが弱い僕にはちょっと厳しいと思ったのね、というかそういう状況下で広い視野を保ち続けることは誰にとってもすごい困難なことだと思うんだけど。一度周りが見えなくなったら必要に応じて連携を作り上げることも出来にくいんじゃないかと感じるんだけど、それはすごいマイナスだと思う。スタッフにだって「仲間」はたくさんたくさん必要だよ。それに、こういう言い方っていやなんだけど、医師って資格は対社会的に見た時にそれなりに有益じゃない? それを利用しない手はないよね。スタッフ同士で「仲間」を見つける、あるいは親同士で「仲間」を見つける、その時にも利用されるような存在でありたい、みたいな、そんなこと思っているんですよ。

 

――ゲイリベレーションについてどう考えているのか?

 

 なんと言うか、僕にとってゲイリベレーションとかカミングアウトとかっていうのは随分と他の人と違った印象を持っているように思うんです。同じ言葉を使いながらも実は全然違う概念なんじゃないか、という気さえする。例えば僕はゲイバーというのは現時点における最大のゲイリブ形式だと思っているわけなんだけど、どうしてかクローゼットの典型例であるかのように語られる。

 僕にとってゲイリブっていうのは、端的に「仲間作りを援助する」ことですよ。楽しい記憶をたくさん作るための場所を提供することです。べつに献血時の問診票が問題だからって厚生省と話し合いを持つとか、そういう大文字の政治がらみなことだけがゲイリブではないだろう。あるいはパレードも色々悪く言われているけれど、それは多分これこそがゲイリブの唯一の形なんだみたいに、そんなことは実は誰も言っていないんだけどそう感じられてしまうことに原因があるんじゃないかと僕は思うんだけど、僕自身はあれはお祭りであり新たな仲間を見つけるためのイベントであり、だから例えばVoiceとか出会いイベントとかの延長線上にパレードというのはあって、だからって政治色を消せっていう主張には頷けないけど、あれもゲイリブの一つの形ではあるけれども唯一の形だとは全然思っていない。

 僕が不思議で溜まらないのはだから、パレードならパレードに際してゲイが二分されてしまう現象なんです。ゲイだからというだけで仲良くしろとかそういうのは無理な要求だと知っているけど、なんだか無意味に対立している印象を受けるの。なんていうのかな、ゲイであれば誰でもとまでは言わないけど、それなりにいろいろバッシングに遭っているわけじゃないですか? イヤな思いもしてきているわけじゃないですか? そういう辛い記憶を浄化するには、自分が受け入れられた、自分は生きていても良い存在なんだ、っていうふうに、セルフエスティームを回復していくことによってしかあり得ない。そういう場って要は、「仲間とのつながり」っていうことじゃないですか?

 そう考えると、ゲイ雑誌をつくっていることも政治的アクションをすることも、サークルを運営していくこともハッテン場を運営していくことも、それらが「仲間づくりの場」を提供し続ける限りにおいて同じことだと僕には思える。どれもリベレーションと呼びうることだと僕には思える。そして現実には最大のゲイリブの場は、さっきも言ったけれどもゲイバーですよ。これは誰の目から見ても明らかだと思う。だからバーとかでパレードについて否定的な言葉を聞くと、無性に淋しくなるのね。それはパレードについての誤解に基づく発言なのかもしれないけれど、ゲイ同士のネットワークそれ自体を否定されたような寂しさを抑えることは出来ない。僕がそれによって生かされてきたものを、根こそぎ否定されるような寂しさね。勿論同様に、クローゼット批判をするゲイアクティヴィストもいるけれども、そうした発言にも同じ寂しさを覚える。

 ところで僕はそうしたゲイリブに対してtake&takeで、僕の側からは何ら還元していないのね。まだ元気じゃないからだと言い訳しておくけど、それはそれでもいいのかなとも思う。分からないけどね。それにしてはクィアセオリーとかぐだぐだ書いているけど、あれは僕にとっての生存様式っていうのかな、「考えること」がそのまま生きることでもあるようなのが僕のあり方なんだと思うんだよね。

 それについてちょっとだけ補足しておくと、僕は昔から理屈っぽいものを読んだりすることが多かった。これも多分昔の僕の環境故なんだろうけど、基本的に小さな子どもって何を言っても要求って通らないのかな、それは僕だけだったのかな、ちょっとよく分からないけどとにかく僕は自分の置かれた状況がイヤでイヤで、でも感情をぶつけたところで周りは何にもしてくれないじゃない、だから、これは自分を助けるには何か戦略が必要だとか思ったわけ。で、よーく周りを観察してみるといくつか気付いたことがあって、それはつまり一定のルールに基づいて人間は自分の主張を通しているんだなということ、逆に言えば一定の手続きさえ踏めば周りの人間は自分の要求を飲まざるを得なくなるってことね。これは当時の僕にとっては大きな発見で、だから小学生の頃から理屈っぽい本はいっぱい読んで、とにかくどんなことを言われても言い返せるだけの力をつけようとか思ったの。

 話していて、ああなんて当時の自分って健気だったんだろうとか思うんだけど、小学生の頃からデカルトとか読んでる奴なんてそうそういないよね。とにかく大声で自分を抑えつけてくる大人に対して、敵対心丸出しだったりうまく演技したりそれは色々なんだけど、理屈では負けないぞみたいな、そんなこと思っていた。ロジックというのはこの社会において本当に力があって、それをいかに上手く操れるかによって自己の回りの環境を変えていけるんだって、この社会においてロジックっていうのはそのまま正義なんだからその権威を楯にすれば良いんだ、ってね。今もそれはあまり変わっていない。

 そんなわけで僕はとにかく自分が何か感じた時に、直ちに理論の形で保証されないと不安でしょうがなくなるのね。例えば僕の場合だったら家族の問題とかこころ系の問題とかかもしれないけど、家族の問題ってことで僕が手を出したのは名づけと権力性との関連について考えることだったりして、それで読み始めたのがクリプキやヴィトゲンシュタイン、デリダや柄谷行人、石原吉郎や最近なら東浩紀とか。周りから見たら何やってんだって思うだろうな、だけど僕はこれをやめられない、やめると急激に不安になって、自分がどうしているのかわからなくなる。

 このあたりがどうも対人関係で上手くいかない最大の原因じゃないかと思っているんだけど。例えば僕ってすごい寂しがりやなんだよね、これは付き合ってみれば一日で分かるんじゃないかと思うけど、警戒心は強いけど基本的には甘えたがりだから、そのまんまネコだよね。だけど、そうやって誰かに抱かれてとろーんとしていたとしても、僕は何処か不安だったりする。言語化出来ない不安というのがあるのね。そんなときに「そんな難しいこと考えなくても良いんだよ」と言われても、僕はパニックを起こすしかない。別に考えたくて考えているわけじゃないから、もしかしてこれも強迫現象なのかなって思わないでもないけど、とにかく自分では止めることができない。可愛げがないっていうのは自分でも判っているんだけど。

 僕の意志とは無関係に思考は動いてしまう。その呪縛っていうか、それって嫌味でもなんでもなくて単に僕が抱えた現実だったりするんだけど、なかなか理解されにくいみたいね。ここが理解されていないと僕はどうしても「受け止められた」って気になれないから、今のところ恋人募集はできないなぁ。だってこんな状態の僕を受け止められる人って、多分理論家だけじゃないかって思うし、そんな人そうそういないからね。だからこれは僕一人でなんとか解決すべきことなのかなって思ってる。

 だからそうそうゲイリブね、僕にとってクィアスタディっていうのは単に僕が生きる形そのものでしかなくて、それは発展性のあるもの、具体的なアクションに結びつくものではない。僕はとりあえず今のところゲイリブしている人から支援を受けつづけて、自分の内面をなんとかコントロールする力を身につけるのが今のところ先決かなって思っています。勿論それなりに本は読んでいるから、クィアセオリーとかについて訊かれたときにはできるだけ丁寧に分かりやすく答えようと思っているけど、だからといって僕が何かアクションするわけでもない。しなくて良いと言っているのではなくて、端的に「できない」、と言っているんだけど。

 


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