近年に於いて、ノーマライゼーションという概念が医療や福祉の分野で、よく語られるようになりました。このノーマライゼーションという概念については、具体的な取り組みについての報告や要望は非常にたくさんの数に上るのですが、その一方で、このノーマライゼーションという概念自体についての理論的な考察は、まだまだ数が少ない。それゆえノーマライゼーションという語彙だけが、何やら良いものである、そうした試みは無条件に良いものである、そのような価値概念として流通しているかのような印象を受けます。ここではノーマライゼーションという概念自体を基礎論的に検討し、その社会的機能を分析することを試みます。それは社会の現状に対する根本的な懐疑を表明することになるのかもしれません。

 ノーマライゼーションとは何か。この概念の意味は、それを文字通り受け取ることで簡単に理解できます。ノーマライゼーションnormalizationとは、何ものかをノーマルnormalにすることです。あるいはもう一歩踏み込むなら、ノーマルであることが何らかの障害でできないのであるなら、その人物がノーマルであることが可能であるようにその障害を取り除くことも、含意していると言えるでしょう。
 福祉の分野では、障害を持った方のノーマライゼーションがよく語られます。障害は一般に、身体的障害と精神的障害に分けられますので、それぞれについてノーマライゼーションという観点から分析してみることにしましょう。まず、身体的障害を持った方のノーマライゼーションとは、理論的にはどのようなことかを考えてみます。
 身体的障害を持った方のノーマライゼーションとは、その身体的障害の有無に関わらず、誰もが同様の(=普通の=ノーマルな)生活を営めるようにすることを意味します。その方向性としては、次の二つが考えられます。即ち、その障害を持った方自体に対して働きかけるという方向と、もう一つは、その障害を持った方の周りの状況を変えていこうとする方向です。
 具体例を挙げた方が判りやすいと思うので、いくつか例を挙げます。前者の例としては眼鏡や義足などがあるでしょう。かつては目が悪いということは、生活していくことがほとんど不可能になるほどのことでした。ところが眼鏡が開発されたことで、そうした場合に、その視力に障害がある人に対して眼鏡をかけさせることで、視力に障害のない人とほぼ同様の生活を可能にすることが出来たわけです。こうした技術開発の例は非常にたくさんあり、とても挙げきることなど出来ませんが、こうしたことが障害を持った方自体に働きかけるタイプのノーマライゼーションです。
 では後者の、障害を持った方の周りの状況を変えていくという方向は、どのようなものがありうるでしょうか。むしろ近年よく取り上げられているのは、こちらの方です。例えば、車椅子を使用されている方はたくさんいらっしゃいますが、車椅子で移動するときにはたくさんのトラブルがありえます。歩道を動く時に段差がある、バスや電車に乗ろうとしても階段がある、買い物をしようとしてもお店の通り道が狭くてなかなか買うことが出来ない、その他とても多くの問題が生じてきます。それらのトラブルを解消するために、歩道の段差やバスの段をなくしたりしていこうとするのが、この方向です。
 どちらの方向であっても、障害の有無に関わらず普通の生活が出来るようにしようという考え方の根本は変わりません。だからこれはどちらもノーマライゼーションと呼ぶべきものです。ただ、その方向性として、個人をターゲットにするか、周囲の構造をターゲットにするかは変わります。歴史的に見ると、おおよその場合前者の方が優先されますが、そのターゲット数が多くなってくると後者のアプローチに変わるようです。とはいえ、この二つの方向を厳密に分けることは出来ないし、多くの場合入り混じって進行し、状況に応じてどちらかにやや重点が置かれる、というのが現状でしょう。(車椅子にしても、車椅子それ自体は個人へのアプローチですが、それを製造するシステムや購入に対して補助する制度、更には上で挙げた車椅子でも自由に町を移動できるようにすることなどは社会に対するアプローチですから。)

 ところでここで重要なことがあります。それは、その本人がそうすることが可能であると判断される限り、このノーマルなあり方には従わねばならないとされる、ということです。そして、このノーマルなあり方に従うことが出来ないような身体的な障壁があるとは見えないのに、ノーマルなあり方に従わない共同体の成員に対しては、身体的障害とは別のタイプの不可能性が想定されることになるのです。
 その別のタイプの不可能性を精神的障害と一般には呼ばれています。そして、精神的障害を有しているということは、その成員は社会的には権利主体であると認められないことを意味します。そこが、精神的障害と身体的障害との、決定的な違いです。
 社会的に権利主体として認められるとは、その主体がノーマルな判断力を持っているということが前提とされています。言い換えるなら、権利主体として認められるためには、その共同体におけるノーマルなあり方に従っているという義務を果たしていることが前提となっているのです。それ故に、身体的障害のみを持っているのであれば、社会的権利主体として認められているわけであるから、ノーマルなあり方に従う義務を負っているということになります。と同時に、そのノーマルなあり方に従うのだという意志、その共同体における普通の行動を取ろうとする意志こそが、先に挙げた、周囲の状況に対する改変としてのノーマライゼーションを要請するほぼ唯一の根拠となっている。「みんなが同じであろう」とするからこそ、「みんなが同じように」出来なくさせている障壁を取り除こうという発想が出て来得るのです。
 社会の改築を訴えるには、その前にその共同体におけるノーマルなあり方に従うという義務を果たしておかねばならない。ということは、社会構造の変革とはそれ自体、権利上共同体の成員の均一化しか企図しないということを意味しているわけです。ならば、このノーマル性に従わない存在は、その訴えを社会的に認める理由がないことになる。社会的に何ごとかを要請し、自己の意志で判断し行動していくという権利主体とは認められないことになる。精神的障害とは、何より判断する能力に障害があると考えられているわけですから、その結果として、他の社会的権利主体による介入が社会的に認められ、その本人の判断を認めず他者により判断が代理されることになるわけです(これを僕は別の場所でパターナリズムと呼び、分析しました)。他者により常に判断を代理されることで、彼ら自身の声は社会的には決して聞き届けられることがないことになる。[※1]
 このノーマル性の維持は、個人の企図だけで揺さぶられるほど脆弱なものではなくて、恐ろしく強固なものなのです。それは例えばアカデミックにも維持されている。精神医学において、よく患者の「病識」の有無が重要な問題とされます。ところでこの病識の有無とは、単に自分が病気であると認めることではありません。社会的にノーマルとされている仕方で判断しているか否かが問われているのです。即ち、この共同体におけるノーマル性に従おうと意志していないものは、「病識」がないとされる。判断能力がないものとされる。そして彼らの判断は省みる必要のないものとされるのです。精神医学がノーマライゼーションに寄与している役目は、それに留まるものではありませんが、これ一つとってみてもそれは理解できるのではないでしょうか。

 さて、ではそのような強力な組織化であるノーマライゼーションのノーマル性とは、具体的にはどのようなものなのでしょうか。
 上でも述べましたが、共同体の成員の判断はノーマル性によって支えられています。ということは、このノーマルなあり方とは、その主体が自覚的に選び取るようなものではなくて、そのような選択の判断を為す主体の意識以前に存在している必要があります。主体のあらゆる判断以前に、ノーマルなあり方は共同体の成員の中に入りこんでいなければならない。その意味で、ノーマル性とは共同体の無意識であると呼んでも良いでしょう。
 何もないところにノーマル性は生まれてはきません。こうした無意識としてのノーマル性を支えているものは、様々な情報、であります。共同体内で常に膨大な量が流通している情報が、成員の判断を無意識的にコントロールし、その判断を一定の範囲内に留める役目を果たしています。現代においては、家族や地域共同体、教育現場などの直接的なコミュニケーションによるばかりでなく、むしろ莫大な種類のメディアによって、このノーマル性は形成され、かつ維持されているのです。
 現代においては、成員が受け取り得る情報が膨大になったことで、かつての秩序維持とは別のメカニズムが形成されているように思いますが、それは単純な個人の解放を意味しません。かつてとは異なったコントロールが、為されているに過ぎないのです。その一つが、ノーマライゼーションであるとは、既に述べた通りです。[※2]
 このノーマライゼーションから逃げるとは、どのようなことを意味するのでしょうか。それはこの共同体の権利−義務関係から排除される(それについては上で述べました)のみならず、空間的にも排除されることを意味します。ノーマライゼーションとは、ある程度の大きさの空間をもった共同体の内部を、ある一定の範囲を認めつつ均一化することなのです。それは共同体の成員として認められたものの行為を、過度な逸脱がないよう一定の範囲で維持するようコントロールすることでもありますが、と同時に、共同体の成員として認められなかったものを共同体から空間的にも排斥することを含意しているのです。即ち、共同体という空間においては共同体のノーマル性に従ったものしか存在を認めないわけですから、ノーマルな範囲から逸脱する多元性の存在を、権利上認めることがありえないことになります。

 こうしたノーマライゼーションは社会の全域に行き渡っている機構です。僕は以前別の場所で、医療におけるパターナリズムの機能を指摘・分析しました。そこでは「医療者の倫理観」と呼ばれるパターナリズムが尚も公然と認められ、更には要請さえされているのです。そのパターナリズム、「医療者の善意」によって、ノーマル性は維持されつづけています。全てのシステムを分析するだけの準備は、僕にはありませんが、ノーマライゼーションという機構自体が共同体を支える重要なものであるだけに、そこから逃れ得る場所は存在し得ないといえるでしょう。
 このように記すと、非常に息苦しい気がしてくるかもしれません。そして、プライベートという場に逃げ場を求めたくなるかもしれない。だが、プライベートな場こそ、歴史的・社会的に形成され維持されてきたノーマル性が、最も典型的に現れる場なのです。プライベートとパブリックとを峻別し、前者に開放的ニュアンスを与えることこそ、この社会のノーマライゼーションを支えているとさえ言えるでしょう。もしノーマライゼーションを批判的に検討するのであれば、まず現在共同体において流布しているイメージを一つ一つ検討しなければならないでしょう。だがそれでもおそらくは分析しきれるものではないでしょう。[※3]
 ノーマライゼーションとは、共同体にある範囲での安定性をもたらすものであり、それには様々な仕掛けが何重にも張り巡らされた実に巧妙なものです。それに変化を起こそうとしても、足を掬われ網にかけられ、泥沼のようにあらゆるものを取りこんでしまう。むしろ全ての社会的分析は、主体が考え出したものではなく、あらかじめノーマル性によって規定されていたとさえ考えられるかもしれません。そこから単純に逃れることは、決して出来ないでしょう。
 共同体とはそのようなものであり、ノーマライゼーションとはそうした複雑なシステム、機械状無意識の一つの表現形に過ぎません。そしてそれすら満足に分析できていないというのが現状なのです。ノーマル性は、様々な媒体によって伝達される情報の集積であり、社会とはそうした主体なき情報同士の闘いの場であるとさえ、言って良いかもしれません。そこに絶対的真理など、存在しようがないのです。

 では、その上で現状では何が為されねばならないのでしょうか。
 主として福祉の領域でノーマライゼーション概念は展開されてきたことは周知の通りです。簡単に復習しておけば、施設で生活する知的障害者に対する、人権を無視した対応に、障害者の親達が抗議運動を展開したそのことがノーマライゼーションの走りとされており、ノーマライゼーションはこのような当事者性から切り離せない形で進展してきました。始めは施設の中の待遇の改善を求めるものだったが、徐々に施設外で健常者と同様の生活が出来るようリハビリテーションをすることに重点が移り、更には地域共同体の中で障害を抱えたままでも生きられる様にすべく社会それ自体を変化させていくことにノーマライゼーションという主張はその内実を変化させてきました。現在はこのように、障害者が障害を抱えたままでも健常者と同等の権利をもって生活できる社会、むしろ障害などあらゆる差異を内包し得る社会を求めていくインクルージョン理論が、ノーマライゼーションの基本骨格として考えられています。
 ところでこのように書くと、ノーマライゼーションが元々の「ノーマルにする」という語義から著しく外れて行った歴史を見ているかのように感じられるかもしれません。だが、そうではない。ノーマライゼーション概念の歴史は、何をターゲットとしてノーマル化を行うか、その変容の歴史だったといえるでしょう。
 まず最初はノーマライゼーションは露骨なほど語義を留めたものでした。すなわち、障害を持っている場合、如何にしてその障害(現在の用語では、一次・二次障害)を無くすか、あるいは隠すかに的を絞ったものでした。この場合、「ノーマル化」されるのは障害を持った当事者ということになるでしょう。医療だけでなく、リハビリテーションもまた、同様の発想に基づいており、ノーマライゼーション運動の初期に盛んになりました。
 だが徐々に当事者それ自体ではなく、当事者に対する社会の対応の方に議論の焦点がシフトして行きました。つまり、三次障害(障害者が被る社会的不利益)をどのようにして取り除いていくかが重要視されたのです。たとえ一次・二次障害を有していても、そのままで共同体の中で生活できるようにしていくこと。これがノーマライゼーションの次なる課題であった訳です。ここではもはや、障害を持った当事者がターゲットではありません。それを取り巻く社会環境がターゲットであり、当事者が如何なる状態であっても同等の権利を有するという考え方が打ちたてられたわけです。つまり、ここでは「ノーマル化」されたのは、人の持っている権利だったのです。それに従ってリハビリテーションも強制的に行われるものではなくなり、障害者が主体として必要に応じて要請していくものに変わっていったのです。
 ノーマライゼーション運動におけるこの概念変化は、極めて重要な成果であり貴重な貢献です。それを否定するつもりは全くありません。ただ注意したいのは、にもかかわらず常にこのノーマライゼーションは「ノーマル化」でしかありえないということ、それゆえこの概念は安易に流用された時極めて危険なものになりかねないことです。「障害を持っていたとしても、人間としては同じなのだ」という、ノーマライゼーションが語られる際によく言われる言説も、慎重に使われずスローガンのように流通してしまうと、「当事者の権利」に焦点を当てたはずの言説が何時の間にか「当事者」それ自体をターゲットにした言説であるかのように意味がシフトしてしまいかねないのです。
 ノーマライゼーションという概念は、何をターゲットにした概念であるかに無自覚である時、極めて強力な抑圧装置に転落してしまうのです。それが今、残念ながら様々な形で現れてしまっています。
 ノーマライゼーションは共同体を維持・運営していく上で、確かに現状では不可欠の原理です。それを安易に超える試みは決して成功しないでしょう。従って今必要なのは、このノーマライゼーションという概念をどれだけ戦略的に利用できるか、どれだけその流通時の意味変容に意識的であることが出来るかでありましょう。ノーマライゼーションがそれ自体で良いことであるとは決して言えない。重要なのは、そこで一体どのようなことが行われているかなのです。

 

<註>

[※1]精神的障害を持った方に対しては、ノーマライゼーションとは従って、常に別の社会的権利主体による代理というパターナリズム構造が存在していることになります。それは、精神障害それ自体に操作的に介入して、その障害を取り除こうとする方向と、精神障害それ自体は放置して社会的な判断を他の代理人に完全に委譲して、社会的に良かれと思われる行為を本人にさせるという方向の二つがありえます。そして通常は、この二つのアプローチが併用されます。
 次のパラグラフで触れていますが、精神医療において神経症など「病識」があるとした場合には、通常の身体的疾患に似た対応が取られます。ここから考えると、精神的障害とは精神医学において扱われるような疾患全てを指しているのではなくて、この主体的判断能力がないもの、社会のノーマル性に従うことが出来ないものを指していることになります。判断能力を有している患者は、その疾患を治療すべきであるというノーマルな判断をなすものと考えられるからです。

[※2]ノーマルnormalなものの根拠を、ノルムnormと呼びますが、これはルールruleとは根本的に異なったものであることを理解しておく必要があります。ルールとは、権利上明文化が可能なものを指します。つまり、そこにおいてはある行為が正しいか否か、明確に判定可能なのです。だが、ノルムはそうではなく、ある範囲を認めるものであり、明文化することで正しいか否かについての判断を拘束することは出来ないのです。
 このことは特別な定義ではありません。普通なこととは何であるか、我々はなかなかこうだとはっきりさせることが出来ないでしょう。だが、そこから逸脱するものは、なんとなくではあれ、意識的になります。普通とはそうした曖昧なもの、しかしそれでありながらある程度の範疇内に収まるものなのです。
 かつてはルールによって共同体は維持されてきたといわれます。だが、現代のような管理社会においては、むしろルールよりもノルムの方が前面に立っている印象を受けます。ルールも、むしろノルムを維持するための戦略の一つとして機能する傾向があります。

[※3]プライベートということについては、また別の機会に詳細に検討する必要がありますが、それがもともとルールではなくノルムが機能する場として形成されてきたことには注目すべきでしょう。明文化可能なルールから解放されたものであるということで、それは自由というニュアンスを帯びて語られることが多いものです。
 近代において、個人主義が形成されてくる過程で、主体の内面もまた形成されてきました。その内面とは、社会的拘束を受けない自由な精神であると見なされてきました。だが、そもそもそうしたプライベート自体、社会的要請によって形成されてきたものなのです。それはルールによって規定されるパブリックな場とは違って、ノルムによって規定される場であったのです。
 プライベートがいかに社会的に規定されたものであるかについては、家族という制度を見るのが一番判りやすいでしょう。近代においては家族内はパブリックなルールから解放されている。だが、それは自由ということでは全くなくて、セクシュアリティ、リプロダクション、養育、その他あらゆる面で社会的に規定されたものでした。人の噂話やゴシップ記事、様々なメディアによって個人に届いていく莫大な情報によって、個人の行為はある一定の範囲に抑えられるわけです。それをノーマライゼーションと呼ぶということについては、本文中で触れたとおりです。
 そして現在において、社会的権利主体へのコントロールはますますメディアによって為されるようになり、ますますそのコントロールが認識しにくくなりつつあります。ここでは問題提起だけしておきますが、現在「こころの問題」を扱う書籍が莫大な数流通していることも、共同体の主体である「こころ」へのコントロールが表れていると考えることが出来るでしょう。「こころ」がキーワードとなり得る時代だということは、「こころ」がノーマライゼーションの対象であるということなのです。


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