0.はじめに

 僕はここで、ゲイのアイデンティティを巡って議論を行いたい。そこでは具体的には次の3点が考察の俎上に上がる。

1.ジェンダー化は行為など表象単位で生ずるメカニズムであり、人格単位で作動するものではないということ。
2.ジェンダーはパフォーマティヴに構成され続けるが、そこでは原因が遡行的に見出されるということ。
3.アイデンティティを設定することによってゲイであることを正当化する戦略は、限界があるということ。

 以上の3点を通じて、僕はゲイ・アイデンティティを巡る議論を、そのパースペクティヴを再構築することを目論んでいる。
 大胆なテーマを設定しているということは、僕自身自覚している。そしてこのテーマがあまりに大掛かりなものであり、ここでの議論がスケッチに留まっているということも判っている。それにもかかわらずここでこの論考を提出したいと考えた理由は次のようなものである。
 僕はゲイである子どもに対する援助的関係をどのように形成すべきかについて、現在まで模索してきている。その際、アイデンティティに遡行することなくゲイの権利擁護を訴えることは、理論的に見たときどうしても必要不可欠な点であると思われた。にもかかわらず、アイデンティティに遡行しないゲイの権利擁護理論は、現時点において見るべき展開を見せていない。それが僕には大変不満であると同時に、一体何がこの理論形成を阻んでいるのか考えずにはいられなかった。
 僕はこの論考がその解決に寄与できるほど強力な議論を提出しえたとは考えていない。ここで書かれていることはせいぜい、僕が一体何に不満を覚えたのかについての覚書である。将来的にここでのアイディアを、より精緻に練り上げ直せることを期待している。このテクストは、その為の意志表示である。

 

1.ジェンダー化は行為など表象単位で生ずるメカニズムであり、人格単位で作動するものではないということ。

 ジェンダー化とは、様々な表象を男性的なもの、あるいは女性的なものとして位置付ける社会的メカニズムである。それは例えば次のような二項対立で把握される。

 

男性的

女性的

身体的一次性徴レベル

ペニスや精巣の存在

ヴァギナや子宮・卵巣の存在

身体的二次性徴レベル

おっぱい=乳房発達がない

おっぱい=乳房発達がある

筋肉が発達してがっしりしている

体つきが丸みをおびている

声が低い

声が高い

背が高い

背が低い

腋毛・スネ毛を生やしている

毛深くない

ひげが生えている

ひげが生えない

期待される社会行動

豪快

繊細

強い

かわいい・美しい

化粧しない

化粧する

成功する

陰で支える

統率力がある

奉仕する

スカートをはかない

スカートをはく

守ることができる

妊娠・出産をする

 そして、こうした社会全体に行き渡っているジェンダー化のメカニズムは、セクシュアリティのレヴェルにおいても同様に作動している。それは例えば次のように表れる。

 

男性的

女性的

期待される性的行動

挿入する

挿入される

能動的

受動的

まなざす

まなざされる

セックスに積極的

セックスに消極的

守る・イカせる

守られる・イカせてもらう

女性とセックスをする

男性とセックスをする

 このように、行動を始めとするあらゆる表象に、ジェンダー化、即ち男性的なものと女性的なものとの振り分けが生じていると考えられる。そこにパブリックとプライベートの区別はない。
 さて、こうしたジェンダー化は、よって表象ごとにバラバラに生じている。ところが、これらを「男性的」あるいは「女性的」と称していることからも判るように、このジェンダー化は、その行動を担う人格主体の法律的性差に従っていると期待される。言い換えるなら、ジェンダー化は元々、個々の表象レヴェルで生じているものであるにもかかわらず、人格レヴェルで生じているものだと錯覚されている。そこに、人格主体に法律的性差に従った行動を取らせるよう外的圧力がかかることになる。
 そのような、人格レヴェルで作動する強制的男女二分法のことを、僕はsexualdifferentiationismと呼んでいる。これは、実際には貫徹されていないにもかかわらず、範例として強力に維持されているメカニズムである。個別的な表象レヴェルのメカニズムを、人格単位のメカニズムだというふうに議論をスライドさせるこのシステムについて、次節でより一般化した議論を行いたい。

 

2.ジェンダーはパフォーマティヴに構成され続けるが、そこでは原因が遡行的に見出されるということ。

 ジュディス・バトラーが『ジェンダー・トラブル』で指摘した通り、ジェンダーはパフォーマティヴに構成され続けるものである。また、それはメディアを一瞥すれば、容易に理解できる事態でもある。だが、現代社会はこのジェンダーを、performative(行為遂行的)なものとしてではなく、constative(事実確認的)なものとして理解する。言い換えるなら、naturalなものとして読み変えてしまう。
 この判断枠組みを一般化して図示すると、次のようになる。

 このような認識枠組みのことを、即ち、retrospectiveに原因を実体化することを、遠近法的倒錯と僕は呼んでいる。
 我々は次のように考えがちである。生物学的性差であるセックスによって、自然とジェンダーは生み出されてくるのだと。ジェンダー・アイデンティティがあるからこそ、それに従って自然とジェンダー化された行為は表出されてくるのだと。セクシュアル・オリエンテーションがあらかじめ存在するからこそ、それに従ってどのような性を持つ人に対して欲望を抱くのか決まっているのだと。
 しかし事態はこうなのだ。生物学的性差と呼ばれるセックスは、ジェンダーによって遡行的に見出されるのであって、それ以前にセックスなど存在しない。ジェンダー・アイデンティティは様々なジェンダー化された行為を通じて遡行的に見出されるのであって、それ以前にジェンダー・アイデンティティなど存在しない。セクシュアル・オリエンテーションは具体的な性的行動や欲望から遡行的に再構成されるものであって、それ以前にセクシュアル・オリエンテーションなど存在しない。
 ジェンダーとは常にパフォーマンスであり、パフォーマンスをコンスタティヴに再構成して記述しようとした時に初めて、即ちこの遠近法的倒錯によって、そうした行動の原因が見出されるのである。それゆえ、こうして見出された原因は必然的に、現在あるジェンダー化のメカニズムを色濃く反映したものになる。
 例えば次のようなことが生じる。前節で指摘したように、ジェンダー化は個別的なレヴェルで生じるものの、人格単位で作動するかのように考えられているのだが、その考え方はこうした原因を想定することでより強力になる。言い換えるなら、ジェンダー化される表象は、ジェンダー化されることにより表象の間で結合が生じる。
 この点について、ゲイ・アイデンティティを例に次節で展開しよう。

 

3.アイデンティティを設定することによってゲイであることを正当化する戦略は、限界があるということ。

 第一節で指摘したように、男性とセックスするという行為は女性的だとするジェンダー化が、現時点で存在している。しかしこの考えが人格単位で生じることによって、あるいは別の女性的ジェンダーと見なされる表象と結合することによって、ゲイが女性的だとする言説が形成されてくる。オネェ言葉やコミュニティ内で「オンナ」や「姉妹」と呼び合うことは、そうした言説の直接的パロディであり、筋肉や力強さを強調するマッチョなゲイは、それとは逆のタイプのパロディであって、これら二つはコインの表裏のように、ゲイを女性的であると見なす言説からの論理的帰結であると理解できる。
 だが、これらはアイデンティティにまで遡って考えたときにのみ発生する。何故なら、アイデンティティにまで遡ってはじめて、表象ごとにバラバラに生じているジェンダー化を、一つに纏め上げることができるからだ。あるいは言い方を変えるならば、男性とセックスするということが女性的なことだという認識を、個人が内面化することで、現代社会に存在している男性的/女性的というカテゴリーを、そのパフォーマティヴな機能そのままに維持しているためにこそ、別な表象においてもそのカテゴリー化に従った行動を強要されるのだ。
 ここで、セクシュアル・オリエンテーションとジェンダーアイデンティティとの興味深い連関が見て取れる。ゲイ・セクシュアリティはジェンダーアイデンティティに揺らぎを導入するのだ。それはsexualdifferentiationismという強力なシステムからの逸脱として経験される。少なくともこうした二つの概念で指し示されるものが存在するならば、この両者は無関係なものでは権利上ありえないだろう。この揺らぎを、アイデンティティ形成においてゲイが直面する困難さだと理解しても良い。
 しかし、こうしたアイデンティティを巡る議論を積み上げてみても、アイデンティティの揺らぎをこそ根底に抱えているとされるゲイの子どもへの援助的関係を、具体的に考案する際の手立てにはなりにくい。sexualdifferentiationという強力なメカニズムを逸脱するゲイという存在は、それだけを見る限りアイデンティティが安定することはないからだ。そこから逆に、アイデンティティを攪乱するという理由で、援助的関係を取り結ぶことを拒絶されることも出てこよう。
 だからこそこれまでのゲイ・スタディーズにおいて、ジェンダーアイデンティティやセクシュアル・オリエンテーションが先天的、あるいは遅くとも出生後わずかの時期までに決定され、その後は固定的なものだとする言説が繰り返し主張されたのだ。これは個人単位で非可変的なアイデンティティに遡ることで、ゲイであるということを正当化しようとした戦略として評価できる。
 だがこれは必ずしも実態ではないだろうし、その必要もない。更にはこうした言説が、ゲイ自身を縛ってもいるのだ。それは、ゲイならゲイのまま、ゲイらしく生きることを求められる現状を見れば、すぐに理解できるはずだ。ヘテロセクシズムにどうしても適応できなかったゲイが、ゲイらしく生きることにも困難を感じるとき、我々はそこに介入する理論的手立てを持ち合せていない。
 その状況を打開するには、人格レヴェルでの単一性・固定性、つまりはアイデンティティにおいて正当化するという方法論から何としてでも脱却しなければならない。例えばセジウィックも、子どものゲイ/レズビアンの存在を、たとえ彼/女らが成人してゲイやレズビアンのままでないかも知れないとしても、肯定できる理論枠組みの必要性を力説していたはずだ。それは結局、アイデンティティ概念に頼るのではなく、むしろアイデンティティの郵便的拡散を認めること、人格単位で機能するジェンダーというメカニズムを脱構築していくことに帰着する。
 ゲイ・アイデンティティという問題圏に突き当たるたび、どうしても切り捨てることの出来ないダブルバインド。アイデンティティを固定したものと見るか流動的なものと見るか、そのいずれにも感じるジレンマは、アイデンティティにまで遡るよう強いる外的状況に由来していたのだ。それに従わねばならぬ義理も道理もないだろう。ゲイというパフォーマンスを、ヘテロセクシュアルというパフォーマンスと同様、パフォーマンスのレヴェルで解放することに、理論家達の力量が試されているのだ。

 

(追記)

 ここで展開したアイディアは、実は別の場所で受け取った問題の僕なりの再検討である。その問題とは、いわゆるウケのヘテロセクシュアル男性について、どう考えたらよいかということであった。
 実際、タチでなければならないという強迫は、ヘテロ男性の間では極めて強いと推測される。ウケを体験したいがために、男性と性的関係を取り結ぶ者もいると聞く。そこにセクシュアル・オリエンテーション概念が、少なくとも同性愛/両性愛/異性愛の3項に限定された形でのセクシュアル・オリエンテーション概念が、援助的に介入できる余地はないように思われた。
 僕自身はウケのヘテロセクシュアルではないから、彼らの抱える問題を当事者性において共有することは出来ない。また、現在の所彼らへの援助的関係を取り結びたいという思いもない。だが、彼らが直面しているある種の捩れは、僕にも理解できるように思われる。

 

(補論)

 現在の社会は、ジェンダー化されている。それはつまり、男女二分法(sexualdifferentiationism)を大きな基盤として、女性嫌悪(misogyny)と同性愛嫌悪(homophobia)によって成立している異性愛主義(heterosexism)によって均一にならされている。セジウィックはこの状況をhomosocialと呼ぶ。
 この状況においては、男性間の関係が女性をまなざすというパフォーマンスを共有することで安定化・均一化する。ホモフォビアによって互いを直接の欲望対象としないことを前提とした上で、女性を男性の間を取り持つ欲望対象、あるいは交換可能な商品−媒体とすることで、男性同士の関係に親密さと間隔性を同時に達成するのだ。
 これには当然、ジェンダー化が不可欠である。他者をまなざすまなざしのジェンダー化、そしてそのジェンダー化の内面化(自己のジェンダー化=ジェンダー・アイデンティフィケーション)、更にジェンダー間の関係の構築(=ヘテロセクシズム)、という3つのステップを踏まない限り、このホモソーシャルな状況は成立し得ない。
 実はセクシュアル・オリエンテーションという概念は、現状の使用法ではこの3つ目のステップのみを脱自然化したに過ぎないことに注意が必要だ。同性愛/両性愛/異性愛という三分法は、まなざしのジェンダー化なしにはどうあがいても成立できない概念だからだ。無論その効果は大きい。だが、それには限界があることも確認しておくべきであろう。

 


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