#1.“多様性”についての試論

 

 社会の中で「多様性」を保持することは重要だ。同性愛者であろうと、異性愛者であろうと、同じ人間である以上、性的指向による差別は「正しくないこと」である。私は同性愛者を差別したりしていない、同性愛者に対する偏見など持っていない、私にとって大事なのはあなたの人間性であって、あなたの性的指向は関係ない。……
 こうした認識を持っている人が、実は意外に多いということを知って、僕は少なからず驚かされました。僕の目から見て、現在の日本社会は明らかに同性愛者に対して差別的な雰囲気を持っています。にもかかわらず、僕が会った人の中で、明らかな同性愛者に対する差別的発言を自覚的に行っている人はいませんでした。少なくとも、自分がゲイであることをカミングアウトした時、僕に対して明らかな嫌悪的発言を浴びせ掛けてくる人は、一人もいませんでした。社会的状況と、個人的関係との間に、ここまで大きな乖離があるということに僕は初め、眩暈すら覚えたものです。そして、こうした体験をしたことのあるゲイは、実は少なくないと思うのです。
 もちろん、あからさまなゲイ・バッシングを僕に向けてこられるよりは、この状況はずっと居心地の良いものであることは疑い得ないでしょう。時に「日本は同性愛者に対して寛容な国である」と言われることもありますが、その発言のナイーブさを弾劾するよりもまずは、こうした認識が現時点での日本社会においては全く無根拠ではないということを、確認しておくほうが有意義でしょう。
 しかし、繰り返しますが、現在の日本において同性愛者差別がないというのは、間違いだと僕は思います。現時点で必要なことは、個人として具体的な同性愛者差別を行っている人が多いかどうか、ということと、社会的に同性愛者が差別されているかどうか、ということとは、全く別のことだということに気が付くことです。

 おそらく、具体的なゲイ・バッシングを自覚的に、いわば自分の意志で行っている人は、現実にはごくわずかな割合でしか存在していないでしょう。あなたの性的指向など、私には関係ないと、そう言う人は決して少なくないでしょう。確かに具体的な他者と友人として付き合う時には、広く相手の人間性が問題なのであって、誰と付き合うかということの判断基準において性的指向が占める割合は決して多いものではない、ということは、誰もが経験していることと思います。「多様性」は、従って「個人」の間においては既に保持されているのです。
 しかしながら、それは「社会」における差異を認めることには繋がっていないのです。よく、結婚していない人間は信用できない、とか、子どもを育てない人間は人間的に成長できない、などということが言われます。30過ぎの男が独身でいると、どうして結婚しないとか訊かれたりしますし、結婚もせず子どももいない場合仕事をしていく上で不利になる場合も未だに存在します。今なおテレビや雑誌では「ホモネタ」で笑いを取ろうとする人間がいますし、それを見て無邪気に笑う人間もいます。こうした「社会的通念」・「世間体」・「体裁」・「常識」は、たとえ具体的な個人がその正当性を信じていなくても、つまり例えばその人が、個人的には結婚していようがしていまいが関係ないと思っていても、そのこととは無関係に存続してしまいます。
 つまり、「社会」の中の差異は、「個人」の間の差異を認めるだけでは解決しないのです。

 だとすれば、「多様性」という言葉を発する時、それが社会的視座をもち得ているかどうかということを、常に考えるべきでしょう。人が「多様性」という言葉を使う時は大抵、「個人」の間の差異だけを問題にしていると言って良いと思います。そのように個人間の問題に限局して「多様性」という言葉を使うことは、「社会」の中における差異をむしろ隠蔽し、「社会」に現に存在する差別について「無関心」であることを誘発します。いや、もっと踏み込んで言うなら、「社会」的「無関心」の隠蓑として、「多様性」という言葉は使われていると言って良いかも知れません。
 考えてみてください。あなた自身は差別的な発言や行動を自覚的に行っているわけではないかもしれない。だが、それは「社会」的視点に立ったとき、なおそう言えるでしょうか。「社会」の中で当然のごとく流布している差別的状況を、あなた自身が反復していることはないでしょうか。「自分がそうしたくてやっているわけではない、世間の常識に反したことを積極的にはしたくないだけだ」としても、またそれがたとえ無意識的に為されたものだとしても、やはりそれは「実態としては」差別なのではないでしょうか。
 人は、社会の中にある差別的な状況について、中立でいることは決して出来ません。たとえ積極的に差別的状況を作り出そうとしていなくとも、現にある差別的状況を甘んじて反復している限り、やはり僕はその人の「リベラル」な態度を信じることは出来ません。「何でもありで良いじゃない」、そう言うだけでは何も変わらない。もしも「多様性」という言葉が意味を持つとしたら、それはその人が差別や偏見のある現状を変革するために「具体的」な介入を行っている時だけだと僕は思います。

 僕があなたに伝えたいこと、それは安易に「多様性」という言葉を使わないで欲しいということです。その「無関心」に安住して欲しくないということです。今ある現状に目を向けてください。あなたは今まで気が付かなかったかもしれないけれど、「知らない」からといって免罪されることはありえないということに気付いてください。
 どうか一人でも多く、今ゲイが置かれた「社会」的状況を正確に知って欲しい、そして考えて欲しい、出来ることなら少しでもいいから、具体的に状況介入に着手して欲しい。僕は一人のゲイとして、こうしたごく個人的な欲求から、このアドボカシー(権利擁護)・コンテンツを作り始めました。ゲイの状況を変えていく責任は、決してゲイだけに課せられたものではないはずです。それは具体的な個人一人一人に投げかけられた、「社会」的責任なのです。
 この作業が、僕が自分の過去から逃げ出すための「悲しき玩具」にならないことを願って。

 


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