#2.1.ゲイ・バッシングについて@

 

 前のエッセイ『“多様性”についての試論』で僕は、あたかも日本ではマシュー事件(ワイオミング、1998年10月)のような激烈なゲイ・バッシングは存在していないと主張しているかのように読める記述を行った。日本でもゲイを狙った暴行事件が存在していることは、僕は友人から聞いて知っていたが、敢えてそのことについては触れなかった。その自己批判から始めたい。

 僕自身は全くそのような考えは持っていないし、むしろ日本ではマスメディアがゲイ・バッシングについて関心を持たず報道もしていない分、より陰湿なホモフォビアが存在していると考えている。だが、前のエッセイで僕は、社会的無関心とそれによって残存してしまう構造的差別に焦点を絞った議論を行った。その理由は、マシュー事件のような凶悪なヘイトクライムをゲイ・バッシングの例として取り上げることは、時として読み手に、「人殺しなどはしていないのだから、私には関係無い」とする無関心を誘発し得ると考えたからである。それは危険なことであると僕には感じられた。そして、社会的無関心こそがゲイ・バッシングの根底を成している以上、日常的なありふれた例を挙げる以外にその当時の僕には方法が無いと思われた。それゆえ凶悪なヘイトクライムについて例を挙げて議論することが出来ず、上述のような誤解を誘発し得る記述になってしまった。
 前回提出したそのような立論の甘さを、今回僕は反省し訂正する。日本にははっきりとゲイ・バッシングが存在する。そしてそれはゲイであれば誰でも直面する可能性があり、それによってわれわれは生命さえも脅かされ得る。だが現時点においては、そうしたバッシングへの対策は政府によっては未だ為されておらず、ゲイ・コミュニティにおいて情報を提供し合うなどの「自衛」レベルに留まっている。我々はまず、この現状を改善しなければならないと考える。アドボカシーはそこから始められるべきと考える。

 僕がこのように主張の重点をシフトさせたのは、「夢の島緑道公園殺人事件」がきっかけである。この事件は様々な意味で、日本全国のゲイたちに波紋を投げかけたと考えられる。何故かと言えば、良かれ悪しかれマスメディアがこの事件を広く報道しているからである。そして彼らは、これもまた良かれ悪しかれ、この事件のゲイ・バッシングとしての側面をも語っている。このようなことはこれまでに例が無い。おそらくこれまでゲイ・バッシングを巡ってあまり考えたことのなかったゲイたちも、この事件を期に自らが置かれている社会状況について考えさせられたのではないかと推測する。
 僕がこの事件について語る資格のある人間だとは全く思わない。だが、この事件をきっかけに考えさせられたことについて、ゲイたちがヘイトクライムについて関心を持っているまさに今、ここに何らかの形で書き記しておくことは意味があることだと考える。感じていることを語ること、書き記しておくことこそ、アドボカシーの原点だからだ。

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