#2.4.ゲイ・バッシングについてC

 

 今回の事件に関連して、少し補足したいことがある。それはモラルの問題である。先ほど、今回の事件をハッテン場で起こったものであることを過度に強調することの危険性を語った。そのことがあたかも同性愛者達がセックス目的に集まったことばかり強調することになり、自業自得的な論調(セックス目的なら殺されても仕方ない)を誘発するからであると言った。こうした観点は、道徳的ではあるだろうが不適切であり、同性愛者に対して暴力的であると僕は考える。
 これはこのことに限らず、道徳や公共性の観点を採るとする論者に多く見られる問題点である。その問題点を短く纏めるなら、道徳や公共性というものはマジョリティの観点でしかなく、そこにマイノリティの言葉がないからである。形式的平等性は、このレベルで躓く。
 例えばある行為、例えば今回の例で言うならハッテン場にセックスの相手を求めて集まることが、「社会秩序」という名の「公共の利益」に反する、としよう。セックスは極めてプライベートなものであり、パブリックな場で相手を求めることは道徳的に認められない、としよう。そのこと自体は、マジョリティもマイノリティもなく共通に守るべきモラルである、と言うかもしれない。
 だがこの場合考えなければならないのは、異性愛者というマジョリティは社会の何処でも恋愛/セックスの対象を探すことが可能であるのに対して、同性愛者はそれが不可能であるということである。ハッテン場というごく限られた場所に彼らが集まるのはどうしてかと言えば、そこが仲間を見つけられる数少ない場所だからである。この現状に対する分析が、「社会秩序」というモラルの問題に権利上先行するのは、当然なことである。
 社会秩序という主張が、どれだけ正当に見えようとも、それは往々にしてマジョリティの権利を守るに過ぎないことに注意する必要がある。重要なことは、社会秩序は常にマイノリティを掻き消そうとする方向、つまり「均一化」「規範化」=normalizationを指向するということである。マイノリティの権利擁護は常にある意味社会秩序を脅かすのであり、社会秩序の視点を採る限りマイノリティには決して辿りつけない。従ってマイノリティの権利について考えるためには、モラルの観点からではなく、まず社会に内在する差別の問題から論を始めなければならないのだ。

 ところで今回の事件を機に、ゲイの間でもモラルを巡って乗り越え難い見解の対立があることが浮き彫りとなった。無論、その溝自体はこれまでも強固に存在していたに違いないが、その対立はあくまでも個人的なレヴェルに留まる、いわば考え方の違い程度に認識されていたように思われる。しかし今回の事件によって、その見解の対立が生み出す結果を、ゲイたちは突きつけられた形になった。そのことについても触れない訳にはいかないだろう。
 元来ゲイの間にはハッテン場フォビアとでも言うべき現象が存在していた。そのことが、ハッテン場によく行くゲイと行かないゲイとの間に、微妙ながらも決定的な壁を作り上げていた。殊に、公園系など野外系ハッテン場はその対立の焦点となっていた。そこではまさに、ハッテン場に行くことの是非がモラルの名の下で語られていたのである。即ち、ハッテン場に頻繁に足を運ぶゲイはモラルを忘れセックスに溺れた人間であり、ハッテン場に行くことなく特定のパートナーとステディな関係を築こうとするモラリスティックなゲイとは別種の人間であるかのような、そうした意識が存在していたのだ。この意識はハッテン場に行かないゲイだけでなく、行くゲイの間にも潜在的には存在していたようだ。
 このハッテン場フォビアは、現代社会にそこはかとなく存在している、いわゆるセックスフォビアの一形態として整理できる。セックスは特定の対象に向けられた愛情の表現形態としてのみ許容され、それ以外の場合にはそれは汚らわしく忌み嫌われるべきものであるというこの認識は、現代においても決してごく一部の人間のみが時代錯誤にも守り抜こうとしているものではなく、今もなお広く行き渡っている観念である。これがゲイコミュニティにおいては、ハッテン場フォビアの形で現出してきているのである。
 セックスフォビアの由来、およびその解消法については、いつかは議論しなければならないだろう。だがここではそれについて語ることはよそう。いま問題とすべきは、セックスフォビアに由来するハッテン場フォビアが生み出す結果である。そこで最も重要だと思われるのは、ハッテン場でゲイがバッシングに会った際に、ヘテロセクシュアルのみならずゲイに対してもまた支援を求められなくなるということだ。どういうことか。

 ハッテン場フォビアはハッテン場に行く者の中に、モラルに抵触するというある種の後ろめたさを植え付ける。このことは、本人がハッテン場での行為を他者にどう語るかとは無関係である。たとえ自分の豪快さや技量や、その場でのスリルや快楽を周囲にアピールしていたとしても、そうした言葉はその行為が現在の共同体的モラルからの逸脱として処理されてしまった後でしかないからである。
 モラルはそれを共有するものの間に無条件に連帯意識を作り上げてしまい、そこから逸脱する人間を排除する。ハッテン場に行く場合には、モラルからの逸脱という後ろめたさが潜在的にであれ常に残ってしまうだろう。それは、モラルによって形成される連帯の中からの排除であるだけではない。そのモラルからの逸脱という意識は、共通の後ろめたさを見まいとする心理的防衛機制によって、ハッテン場に行く者同士の間にも、互いに互いを排除し合う傾向を生み出してしまうだろう。それらは結果としてゲイ同士の連帯を不可能にし、彼を孤立させることになる。
 一方、今回の事件などから分かるのは、バッシングに対して個人的な自衛では対抗しようがないということである。これまでもいくつかのメディアを通じて、バッシングに遭った時にはどのような対策が必要であるかということについて、ゲイたちは情報を受け取っていたはずである。だが、たとえ笛を持っていようと、携帯電話を持っていようと、現実に複数の人間に襲われている時には当人にはそれらを使いようがないのだ。その意味では、これまでのような自衛のための対策は、無駄とは言わないまでも決してそれだけで有効とは言えないはずである。
 では、どうすべきなのか。今回の事件から我々は、もはや個人的に自衛するだけでは生命を守ることさえ難しいことをはっきり認識できたはずである。そこから得られる結論は、我々がバッシングから自衛しようとした場合には、常に他者との連帯が必要だということである。モラルを理由に、ゲイがゲイ同士で排除し合っていては、こうした自衛自体が出来なくなってしまうのだ。確かに自衛しなくてもよい状況こそ望まれるべきである。だが、現状においてゲイはゲイであるというだけで常にバッシングに遭う危険性と背中合わせである以上、我々はモラルを超えた連帯こそ進めなければならないのではないだろうか。
 あまり触れたくはないが、今回の事件の後ゲイの間でもハッテン場に行くことについての否定的な見解、更には今回の事件の被害者を自業自得とでも言いたげな論調がかなりあった。どのような形であれ、多くの反応があることを僕は肯定的に捉えたいので、その意見自体を僕は批判したいとは思わない。だが、そうした傾向は今回の事件を個人のモラルの問題にすり替えることで、それ以上の思考を停止し、事件から得られるはずの教訓に見向きもしないままに、この経験自体を風化させる危険性がある。現にこの事件の前にも少なくない数のバッシングの被害者が出ている以上、今回の事件はこれまでの教訓を活かせなかった結果と捉えることも出来る。
 ならば、今この事件を機に行動を起こさなければ、次に来るものは明らかではないだろうか。我々は、モラルの前に倫理に立ち戻らねばならないのではないか。

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