僕はあんまり針を刺されたりすることが好きではない。だから、それまでは滅多に献血などしたことはなかった。当然興味もなかった。駅前の献血ルームに入っていく若い人達を見て、ああエライなぁ、とか思いながらその前を通り過ぎるくらいだった。
　でも、僕が今いる学部が医学部だからということもあるのか、１〜２ヶ月に一度は献血車がはるばる大学の玄関前までやって来る。そして、それに乗って来た職員の方は、それがいかにも当然なことでもあるかの如くに、ロビーにいる学生たちを狩り出しに回ってくるのだ。
　痛いことが嫌な僕は、彼らと顔を合わせないように逃げ回っていたのだったが、ある時うっかり献血車の前を通りかかってしまった。しかも、彼らと目と目が合ってしまった。しまったと思ったが、気弱な僕は、彼らが放つ、「医学生なんだから、当然献血ぐらいしろよな」的な、ある種の威圧感に負けて、しぶしぶ献血車に乗り込むことになった。痛いのって嫌だなぁ、と、気重になりながら。それが、確か二年近くも前のこと。

　「記入お願いしますね」、そう言ってはらりと僕の目の前に出されたのは、マークシート式の、１５の質問項目が書かれた問診票だった。献血って、こんなものを書いてからやるのか……献血初心者で、かつ社会事情に相当疎い僕は、結構びっくりした。僕がその場でそそくさと書き入れようとすると、職員の人が僕の手を遮って自分で鉛筆を持って、一つ一つ質問項目を読み上げていった。「まず今日の体調は……よろしいですよね？」等という風に、僕が答えるのを聞いているのか聞いていないのか、いかにも流れ作業的に。
　気持ち半分に答えていたら、あっという間に１５の質問項目は終わった。「じゃ、よろしいですから、椅子にお掛けになってお待ちください」、そう促されて椅子に座った後、ふと今訊かれた質問項目を思い出した。それは１４番目、こんな質問項目だった。

この一年間に次のいずれかに該当することがありましたか。

�@不特定の異性と性的接触をもった。
�A同性と性的接触をもった。
�Bエイズ検査（ＨＩＶ検査）で陽性と言われた。
�C麻薬・覚せい剤を注射した。
�D�@〜�Cに該当する者と性的接触をもった。

　……なんでこんなことを訊くんだ？　職員に促されて、なんとなく僕は「いいえ」と答えてしまった気がするが……。講義の帰り道ゆえの、疲れた頭でぼんやり考える。そんな僕でも、数秒後には、「ああ、ＨＩＶ感染を警戒しているのか」と気付いた。そういう視点から、この質問項目をゆっくり思い返してみると、「？」なことが涌き出てきた。

　当時、僕は一人閉じこもっていた頃だった。自分の気持ち、自分の感情を押し殺しながら生きていた時期だったのかも知れない。驚かれるかもしれないが、僕はその頃まで性的な感情というものを自覚できないでいた。女性に対して、友達としての感情以外の感情を抱けない自分がよく判らず、社会学などの理論書のページを一人部屋に篭って繰りつづけていた。今言うところの「どカクレのホモ」、ですらなかった。なんとなく、なんとなく、自分はもしかして同性愛者なのかなぁ、ぐらいの気持ちはあったけれど、ただそれだけだった。
　そんな僕は、けれどもその質問項目に引っ掛かりを覚えた。通り過ぎれば良かったのかも知れないけれど、何故か僕はずっとそのことが頭から離れなかった。献血車から降りて自分の部屋に戻ってからも、ぼんやりと考えつづけていた。あの１４番の項目は明らかにＨＩＶ感染を警戒してのものだろうけれど、どうして「異性と性的接触を持った」の前には「不特定の」という言葉がつくのに、「同性と性的接触を持った」にはついていなかったのだろう？
　僕はその当時、まだ全く男性経験がなかったから、あの質問項目への答えは「いいえ」だった。嘘はついていない。けれど、けれど、まだ想像もつかないけれど、僕が誰か男性とセックスできたとして。そうしたら、献血は断られるんだろうか？　別に僕はどうしても献血したいという人間ではないから、それ自体は構わないけれど、でも、なんだかそれっておかしい。
　「おかしい」、そう思ったものの、まだ「同性愛者」と直に会ったことがなかった僕は、その「おかしさ」をうまく表現できなかった。ずっと気になってはいたけれど、しょうがないのかなぁ、で済ましていた。全然しょうがなくなんかないということ、しょうがないで済まさずにアクションを起こしている人達がいるということを知ったのは、それからずっと後になってからだった。「献血問題」について僕が考えるようになったのは、従ってさらにその後だった。