自然が文化的な産物であるということは、もうここ10年以上前から言われていることで、現時点においては大方コンセンサスを得られた考えなのではないかと思います。僕がその考えに触れたのは高校時代ですから、やはりもう10年近く前になります。とは言え、そうした議論に馴染みの無い人にとっては、なお取っ付き難い考え方かもしれませんので、まずは簡単に振り返っておきましょう。
「自然というものが文化的に形成された観念である」という考え方は、まず「自然」という語が多義的であることを問題にするところから始まりました。
「自然」とは例えば、ある人にとっては雄大な山々や荒々しい渓谷、広々とした海洋などを意味するかもしれません。あるいは道端の草花や木々等かも知れず、あるいは季節の移り変わりや天候の変化かも知れず、あるいは吹雪や地震などかもしれない。しかしまた別の局面では「非人工的な」という意味で使われることもあり、「人間以外の生物界」を意味することもあり、単純に「世界」そのものを意味することもある。と同時に別の場面では、「親しい」「快い」といった意味を担うこともありますし、「単純な」「簡潔な」という意味のこともあり、「習慣」を意味することもあれば、「運命」「宿命」のような意味で使われることもありました。
こうした多義性故に、「自然」という語の用法は混乱を極めていたと言えます。例えば、一時期、「人間もまた自然の一員である。自然を守ろう!」というスローガンが、おそらくは何の矛盾も感じさせることなく流行った時期がありました。冷静に眺めてみれば判る通り、このスローガンの前者の「自然」と後者の「自然」とでは対象とする範囲が異なります(最もシンプルに見ても、前者の「自然」に含まれている「人間」が、おそらく後者の「自然」には含まれていない)。だが「自然」という語が極めて多義的であり、その多義性を充分に分析することも無かった為、その当時はこうした言説も純粋にイメージとして流布していたのです。
おそらくは村上陽一郎などの科学史家や批評家などによって、こうした状況は現時点ではかなり変わってきている。「自然を守るというけれども、トキが全滅するのはそれはそれで“自然”なことではないのか?」とか、「街の建物がどうして自然でないと言えるのか。コンクリートジャングルと言うではないか?」とか、いわば前述したような多義性をパロディとして用い、「自然」という概念がいかに混乱に満ちたものであったかを、彼らは明らかにしてきたと思います。
僕は今更こうした議論を蒸し返そうとは思わない。確かに現時点でなおこうした立論に抵抗を示す人がいることは事実だけれども(そして今なお擬似比較文化論的に、西欧文化と日本文化の違いは自然に対する態度にあるとか言っている論者もいて、はっきり言って問題外だと僕などは思うけれども)、見る人が見ればこれらの議論には決着がついていることは明らかで、こうした認識が広まるのは後は時間の問題だと思うからです。
ただ、「自然」という概念を巡ってのこうした議論を経てからでなければ、広く社会的に見た時にはおそらくは可能ではなかったタイプの問いがある。僕が惹かれるのはそうした問いです。それは、「自然」という語が多義的であるということは判ったけれども、ではそれらを根底で支える「自然」という概念の中核は何かという問いです。結論から言うなら、「自然」というのは存在概念であると同時に価値概念である、Seinであると同時にSollenでもあるということです。
[註]Seinとは、ドイツ語で、英語のbe動詞に当たる語seinの名詞形。Sollenとはやはりドイツ語で、英語のshouldに当たる語sollenの名詞形。辞書的にはそれぞれ「存在/本質」、「義務/当為」といった訳語が付けられています。この二つはよく対立語として用いられ、その場合は“今あるところのもの”と“そうあるべきところのもの”というくらいの意味に解すといいと思います。
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