#10.自然についてC

 

 以上、「自然」という概念を巡って議論してきました。今後、この視点からより発展的な議論を打ち立てるために、ここで少し補足しておきたいことがあります。
 adaptation(=適応/順応)、naturalization(=自然化する)、normalization(=普通化する/規範に近づける)、これらの概念に共通する意味があります。ここでそれを具体的に分析して提示することは出来ませんが、そこに保守的な共同体の秩序維持の要請が見え隠れしていることは指摘しておくべきでしょう。
 実を言うと僕は、今に至るまでかなり長い間、「適応障害」を巡って考えつづけてきました。それは様々な現れ方をします。例えば家庭内における子どもの適応問題、学校における不適応行動としての不登校や多動、学習障害、あるいはいじめなど。子ども以外にも、神経症などの精神疾患の原因としての、及びそれがもたらす結果としての適応障害や、セクシュアル・マイノリティが直面する問題も適応障害と見なして良いかもしれない。一見したところ、もはやこれらに共通する点など探しようが無いくらいです。唯一、「適応」においてトラブルが起こっていることだけが共通点と言って良いでしょう。
 ところで適応障害と言った場合、その本質は(あえて言うなら)当事者と周囲との間に生起するトラブルです。従ってその解消法には、形式的に見た場合、次の二つがある。その当事者の側を変えて周囲に同化させようという方向と、周囲を当事者に合わせて変えていこうとする方向です。つまり、適応障害の解決法には、そのターゲットが二方向あるのです。
 一般にそうした場合の当事者は周囲の人間と比してマイノリティですから、これはマイノリティ/マジョリティの対立として記述することが出来る。そのようにして図示してみましょう。

 適応障害の解消法にこの二種類があるということ、そしてマイノリティの権利を擁護する運動とは、この後者のマジョリティのマイノリティ化こそ目的としたものであるということ、ここは銘記すべき点であるとして、長い補足をここで区切りたいと思います。この視点を下敷きにした、より精緻な議論は、今後予定しているノーマライゼーション論で展開したいと思っています。

 


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