#9.自然についてB

 

 「自然」という語を用いた言説は、いかに道徳的な外観をとっていても、あるいは道徳的な外観をとっているが故に、保守そのものの視点しか打ち出さない。こうした例はもちろん他にもあります。その一つが「法」でしょう。
 「法」とは英語でlawと言います。これは現状をずばり言い当てた、よく出来た語だと思います。
 lawとはご存知の通り、「法則」と「法律」とを同時に意味します。「法則」は、物理の法則などのように、現状がどうなっているかを記述するものであり、先ほどの用語で言うならSeinに当たります。一方、「法律」は人間の手によって作り上げられたもので、それによって共同体成員を統率するものですから、こちらはSollenに当たります。
 この両者が同一の語で表されているということは、何を意味しているのでしょうか。それは先ほど「自然」という語で見たのと同様、SeinとSollenの短絡、即ち今こうであるのだから今後もこうあるべきであるという保守的判断が、現在広範かつ強固に存在していること、でしょう。
 と言っても、何も日常から縁遠い、特別なことではない。誰でも一度くらいは、現象が法則に当てはまらなくて、「どうして合わないんだろう」とつぶやいた経験があると思います。多分そうした、ごく身近なレベルでこうした語の用法は納得できるはずです。だが、そのようなレベルでこそ、共同体の規範は維持されるのだということについては、多少は敏感になった方が良いと、僕は思っています。

 「自然」という概念にまつわる例として、もう一つ別の観点からこの問題を考えてみたいと思います。「自然」とは英語でnatureと言います。その形容詞形は、natural。更にそれを動詞形に転じるとnaturalize、その名詞形が、naturalizationですね。ここまで来ると、何か気がつきませんか。
 そう、「帰化」という語ですね。「帰化」は英語でnaturalizationと言いました。つまり、「帰化」とはalien(外国人=異質な者)を「自然化する」こと、なのです。裏を返せば、「外国人」は「自然ではないもの」だということになる。
 外国人は、常に「異質なもの」であり、「自然でないもの」である、だからこそ、「外国人」を「自然化する」という発想が出てくるのでしょう。これはもちろん、具体的な個人が皆そのように考えているということを意味するわけではありません。だが語のレベルでこうした表現が現にあるということは、少なくとも共同体のレベルでは上述のように言えることを意味します。
 そこで考えさせられるのは、結局のところ「自然」とは、ある個人、ある文化にとっての「自然」に過ぎないということです。それはもう一歩踏み込むなら、ある物事が「自然」であるとは、その物事が周囲に対して波風を立てないこと、トラブルを生じさせないことだと言えるかもしれない。ここに来ると、自然/自然でないという対立は、適応/不適応という対立ときわめてよく似ていることが理解できると思います。

 


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