#Appendix1.自己決定を巡る諸問題

 

 具体的事例から出発してみよう。少し前に、ある保健行政に関わる方と言葉を交わす機会があった。僕は次のことを主張した。ゲイは自分の性的指向を明らかにすることを恐れて、医療機関での問診時に充分な情報を得ることが出来ない。それに加え、医療スタッフの、些細かもしれないが不適切な言動が彼らの心を閉ざし、ますます社会的サポートを得にくくさせている。更に、現在の保健福祉機関ではセクシュアル・マイノリティへのサポートが事実上行われていない。これらは保健行政の怠慢ではないか?……と。
 それに対して彼はこう答えた。医療スタッフはどのような人間であれ平等に対応するよう教育されているはずであり、差別が存在するとは思えない。性的指向を明らかにすることは患者の自己決定に属することであり、スタッフが聞き出そうとするべきことではない。また保健行政は社会全体を扱うものであり、特定のマイノリティにターゲットを絞ったやり方は不適切である、と。
 この、僕にとってはすれ違いとしか感じられない応答を巡って、ずいぶん長い間考えさせられた。僕の拙い説明では理解してもらえなかったのかもしれないから、改善すべき点については素直に改めたいと思う。だが、平等、寛容、自己決定といった点について、彼と僕とで意見の違いがあったことは確実だ。今日は、この点について議論をしてみたいと思う。

 まず、ゲイが医療機関その他の問診で性的指向を明らかに出来ないということ、それゆえ充分な情報を得にくいということ、この点から考えよう。彼はそれを、スタッフの考慮すべき問題ではなく、自己決定の問題として扱った。つまり、語りたくないことは語らせる必要はないということだ。これは一般論としては妥当な見解であるように見える。だが僕が問題としたのは、ゲイにおいてはそのような語る・語らないという選択の幅が、現在ある社会状況において不当に狭められているということだった。
 江原は、ある選択を自己決定として尊重するには、その決定に際して本人が十分情報を理解し、かつ強制のない状況で判断することが必要と整理した上で、後者について次のように述べる。

 脅迫下でなされた意思決定は、「自己決定」ではない。無論、いかなる脅迫下でも選択はありうる。「署名すれば苦痛を与えない」と脅されて「署名を行う」としたとしても、それは本人が「苦痛を避けようとして選択」したことである。しかしそのような場合我々は、「署名」が自由意思でなされたとは考えない。周囲の人々に尊重する義務を発生させる「自己決定」があるとすれば、それは「自由意思」でなされた「自己決定」であることは明白である。脅迫その他の「強制」がないことは、「自己決定」と言えるための基本的条件である。強制になりうるのは、なにも明白な強制行為だけではない。見捨てられてしまうのではないかという不安感の存在、意見を言うことさえ困難であるような権威主義的な上下関係、圧倒的な力や知識の差などが存在する状況での一方向への強力な示唆(誘導)は、その場では脅迫の行為が存在しない場合においても、本人にとっては、心理的脅迫と感じられる場合がある。「自己決定」と言えるための条件は、脅迫的強制的ではない状況において、心理的脅迫を受けることなく、本人が決定を下すことである。
[……]
 「強制がない」という条件の達成のためには、「周囲の人々」が「強制となりうる状況」を排除する義務を負う必要がある。明確な強制や脅迫を行わないことは当然としても、本人に「自分で決めて良いのだ」という認識を明確に与えないまま行う示唆や情報操作は、それ自体誘導に通じうる。また「自己決定権」に関連する問題においては、当事者間に権力の不均衡が存在するのが一般的である。年齢・性別・社会的地位・権威その他の権力の不均等性を生じさせうる可能性については、それが本人の意思決定に対して持つ影響力をなるべく減少させるように努力する必要があろう。
 しかし、「周囲の人々」がこのような義務を履行したとしてもそれでも、場合によっては「強制」は生じ得る。長期にわたる精神的脅迫や心理的侵害を被った者は、いかにその場において「強制」がない状況を形成したとしても、長期にわたるその影響を払拭しえない場合もありうると考えられる。こうしたことを考慮することなく、その場において「強制」がない状況においてなされた決定は全て「自己決定」だとしてしまうことは、場合によっては非常に危険な判断となってしまうであろう。

(『「自己決定」を巡るジレンマについて』:現代思想1999年1月ジェンダー・スタディーズ特集)

 医療スタッフがフレンドリーに患者に接するとしても、性的指向によってそのスタッフ自身は差別をしていないとしても、それでも強制力は生じ得ることに注意する必要がある。
 何故ならゲイは自らの性的指向を明らかにしてはいけないと強制されつづけてきたのであり、明らかにした場合に受ける嘲笑や迫害を肌で感じ続けてきたのだから、医療機関だからといって直ちに信用して何でも話せるということは、期待する方が無理であろう。また、医療スタッフの本当に些細な言動も、より重大な同性愛嫌悪的な状況の兆しとして受け取るということは充分考えられることである。それにもちろん、保険制度や施設の建築構造上の問題で、現状ではプライバシーの保持が徹底されていない点にも注意する必要がある。であれば、ここでの患者の「語らない」という選択を、自由意志に基づく自己決定とは到底言えない筈である。
 患者のこの「語らない」という選択を「自己決定」として見なすとは、こうした外的な社会構造上の問題をうやむやにすることを意味する。患者に、沈黙の結果である不利益を押し付けても、それを自己責任だとして居直ることを意味する。それは後に述べる通り、彼の自己決定権を阻害することなのだ。

 ここから平等や寛容というタームについて再考することが出来る。確かに現在、ゲイであるからといって医療機関の受診を断られるということはありえない。同じように問診され、それに従った治療が行われるだろう。だが、そのことは必ずしもゲイがヘテロセクシュアルと同様の医療供給を受けていることを意味しない。多様性や寛容の強調は、いわゆる見掛け上の平等しか生み出さない。どういうことか。
 それは先に述べた通り、社会構造がヘテロセクシュアルであることを前提にして構築されているからである。ヘテロセクシュアルだけなく、ゲイもまた、ヘテロセクシュアルであるべきだという社会規範、その前提に従った行動が当たり前だという常識、そこから外れることを抑圧するという考え方を、意識的無意識的に内面化してしまっている。ゲイがソーシャル・サポートを得にくい状況即ち、ゲイが医療福祉機関に行きにくく、行ったとしても充分な対応が得られない状況は、この社会構造自体に由来する。
 従ってゲイがソーシャルサポートを得られやすい状況を導くには、単にスタッフが個人的に寛容であれば良いのではなく、この社会構造自体を変えることが必要不可欠なのだ。保健行政がゲイにも同等のソーシャルサポートを与えるつもりがあるのならば、直ちにゲイにターゲットを絞った保健政策を導入して、重点的に対応すべきである。少なくともそうしない限り、彼らを見捨て続けて来た状況は変えることが出来ない。

 自己決定権と社会的責任の問題を、より一般化しよう。自己決定そのものは、自己選択に自己責任が折り畳まれて成立している概念である。だが、そこで留まっていてはならない。江原は次のように述べる。 

 「自己決定権」という問題が議論されるのであれば、それは、単に「自分のことを自分の判断で行うことの是非」という問題ではなく、周囲の人々が他者の意思決定を尊重するべきなのかどうかを巡る問題である。もし尊重する義務を負うのであれば、行為の実現を阻む障害を取り除き援助するべきであろう。その場合いかなる援助が可能なのか。どこまで援助するべきなのか。本人に損害を与える可能性がある場合にはどうか。あるいは表明された本人の意思を、本当に本人の最終的な意思決定と認識すべきなのかどうか。詐欺・情報不足など意思決定を歪める社会的条件が存在する場合には、ある他者の意志決定を「自己決定」と判断することは、逆に当人の「自己決定権」を尊重することに反してしまうかもしれない。「自己決定権」という問題を考えるとは、こうした様々な問題を考えることである。
[……]
 「自己決定」と言えるためには、最低この二つの条件[=「ある決定に際して本人が充分情報を”理解”し、“強制がない状況”において判断すること」]を満たす必要がある。したがって、「自己決定権」を認めるとしても、ある人の決定が「自己決定」の条件を満たしていない場合は、我々はむしろそれを「自己決定」として認めるべきではない。本人が状況を良く理解することなく行った決定や強制的にさせられた決定をそのまま本人の「自己決定」としてしまうことは、本人が情報を充分得て上京を充分理解した上で再度「自由意志」で判断する機会を奪うという意味において、むしろ「自己決定権」を侵害することになってしまうだろう。

(前掲)

 よって、ある事例において「自己決定」を考える際には、それをとりまく社会的状況を同時に考えることが常に必要になる。その原則から離れて「自己決定」という概念が一人歩きし始めると、当事者に極めて大きな不利益をもたらしかねないのだ。医療機関での問診時にゲイが性的指向を隠さざるを得ない状況を「自己決定」と見なすことが、いかにゲイに不利益を押し付けているか、もはや明らかなはずである。それはゲイの「自己決定権」の侵害なのだ。
 そしてその状況を変革するには、その現場だけを変えればいいというものではなくて、それに反映されている社会構造自体を変えねばならない。社会はその責任を負う。それが原則だ。

 「自己決定」という概念の一人歩きという例を、他に二つ取り上げよう。
 一つ目は、性暴力被害者が声を挙げる時に起こるジレンマである。被害者は現在、極めてサポートが得られ難い状況に置かれている。深い心理的外傷体験の後で、煩雑な手続きや周囲からの噂話、警察や裁判所や職場や学校などで起こってくるセカンドレイプ、どれをとっても困難な状況が待ちうけている。
 そこで周囲の対応が不充分であったがために被害を訴え出ることが出来なくなったのだとしても、それを「泣き寝入り」として本人の責任にすりかえる社会的文脈が存在している。ところが被害を訴え出たら出たで、上で挙げたような困難な状況は本人が自分の意思で選んだものとされてしまうのだ。つまり、どちらにしても社会的責任の問題は不問に付されるのである。
 二つ目は、妊娠中絶の議論である。「産む・産まないは私が決める」というスローガンは、多大に誤解されているが、これは単に女性が胎児をどうしようと勝手だという主張ではない。そう考えるのは、もともと胎児に人権などなかった過去を知らないからに過ぎない。現在まで、妊娠・出産は強い政治的コントロールの下に置かれている。人口政策という形で、女性も胎児も、政府あるいは男性にその意思決定を略奪され続けて来たのである。そうした社会構造へのカウンタースローガンとして、「産む・産まないは私が決める」がある。
 だが時にプロライフ・グループの主張はこの構造を無視し、胎児の人権をないがしろにする女性たちとして、妊娠中絶をする女性を攻撃する。妊娠中絶を「自己決定」と見なすことで抜け落ちるのは、育児を困難にさせている社会的資本の未整備や、ノーマルな人間しか認めようとしない社会構造自体への批判である。ここでも社会的責任を個人の責任にすりかえる文脈があるのだ。
 だからこそ、我々は問題にぶつかった時、次のことを確認しなければならない。一体本当の敵は何処にいるのかと。ダブルバインドの真の原因は、外部にあるのだから。

 


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