#3.カミングアウトは「個人の選択」ではあり得ないA
(プライヴェート)

 

 一方で時に、カミングアウトをプライヴェートの問題と捉え、その現場の状況を抜きにそれを個人の問題と考える人もいる。プライヴェートな領域とは、共同体における互酬的義務関係から逃れた領域であるから、それについてまで差別を云々することはおかしいと、そう言うかもしれない。だがそう言う人は、プライヴェートな領域が政治的に形成されているものであることを無視している。
 よく、人間関係とは、パブリックなものとプライヴェートなものとに二分されると考えられている。ここで、職業とは関係のない人間関係、例えば家族関係や性関係などは、プライヴェートな領域に属するものとされている。だが、この両者を敢然と区別することは現実には出来ない以上、この考えは単純に誤りである。誰もが経験するように、プライヴェートな人間関係がどのようなものであるかが、パブリックな人間関係にも影響を与えている。それは例えば社会的信用という語で語られるかもしれない。次に指摘しておかなければならないのは、プライヴェートな領域とは歴史的に見て、極めて政治的な理由から形成されてきたことである。例えば、出産や育児はプライヴェートな領域と考えられているが、これらが常に政策上の問題となることからしても決して単純にプライヴェートとは言えないことが理解できる。ある領域がプライヴェートと呼ばれるには、それに先立つ政治的条件が必要なのである。

 ゲイがカムアウトする時に出会う反応で多いものは、その人がゲイであるか否かは自分には関係ないというものだろう。つまり、こう言う時その人は、ゲイであることをプライヴェートに属することと捉えている。あなたが誰と性関係を持とうとも、それは個人的なことであり、周りの人間に語るようなことではない、ということだ。だがこれは単純に間違っている。これまで何度も指摘されているように、ゲイであるということはプライヴェートなことではなく、常にゲイ以外の人間との関係において考えられなければならないことなのだ。
 プライヴェートなこととは、本来公的な場では言う必要のないことでしかなく、言ってはならないことや、言うことで不利益をこうむるようなことではない。ところが、ゲイであることを公的な場でカムアウトするのは、常にバッシングに遭うリスクが伴う行為であるのだ。こうしたことを、プライヴェートと呼ぶことは難しい。そしてまた、全くプライヴェートなことであるとすれば、それらが公的な場で話題性を持つことはあり得ない。ある人間がゲイであるか否かが話題性を持つということは、ゲイであるということをプライヴェートとは呼べないことの証拠である。
 そして、この共同体においてマジョリティであるヘテロセクシュアルは一般に、只そこにいるだけでヘテロセクシュアルであると推定されるが、ゲイはそうではない。このことは実はゲイに対して様々な不利益を与えている。それはアイデンティティ形成において困難な状況におかれること、人間関係上強い心理的負荷がかかること、仲間を見つけて関係を作ることが難しいことなど数多くある。また、このようにゲイが不可視であるということが、ゲイの声が流通せず、ゲイ・バッシングが隠蔽される素地ともなっている。そもそもゲイに対する侮蔑的な言葉が乱舞するこの共同体において、それが問題なく流通し得ること自体が、ゲイの存在が見えていないことの証しであろう。

 ともかくプライヴェートということは、ある一定の想定されているプライヴェート像に従っているということに過ぎないのだ。そこから外れた場合、それは周囲の人間にとって突如プライヴェートとは感じられなくなる。その意味で、現時点でゲイの持ち得るプライヴェート領域とは、極めていびつなものであり、ヘテロセクシュアルに比して明らかに不公平なものなのだ。

 


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